【実録】新選組 最後の隊長が流された島 ― 東京都新島、相馬主計の碑「主計の扇子」を訪ねて 竹芝発 高速船1泊2日

東京から船に乗って、史跡を訪ねに行きました。行き先は新島。東京都でありながら、高速船で二時間半かかる島です。
目当てはひとつでした。新選組の最後の隊長・相馬主計が流された島だからです。近藤勇は板橋で斬られ、土方歳三は函館で死に、そして生き残ってしまったこの人は、遠く海を渡らされました。その碑が、島の集落のまんなかに立っています。写真はすべて運営者が現地で撮影したものです。

目次

この旅の行程

※船・昼食・碑・夕食の時刻は、当日の写真の記録に基づく実際の時刻です。それ以外の滞在時間と移動時間は目安です。運賃・運航時刻・欠航の有無は季節や船種で大きく変わります。お出かけ前に東海汽船の公式サイトで必ずご確認ください。
時刻 スポット・行程 見どころ・メモ
08:30 竹芝客船ターミナル(乗船)竹芝客船ターミナル(乗船) 見どころ:東京都心から伊豆諸島へ向かう航路の起点。新島までは高速ジェット船で約2時間20分、大型客船なら約10時間35分
アクセス:JR浜松町駅から徒歩約7分/ゆりかもめ竹芝駅からすぐ。ターミナル内にトイレ・売店あり
移動:高速ジェット船で約2時間20分
11:00 新島港 着 ― 本村地区へ 島の中心集落・本村地区までは徒歩圏。宿が送迎を出している場合もあります
島内は平坦な区間が多く、レンタサイクル・レンタルバイクの店があります
12:30 昼食:明日葉のパスタ(食事 約60分)昼食:明日葉のパスタ 伊豆諸島の名物・明日葉を刻み込んだパスタ。摘んでも明日には芽が出る、という名の由来を持つ島の草です
12:45 本村の集落を歩く(散策 約45分)本村の集落を歩く 見どころ:島特産の抗火石(コーガ石)を使った石造物が集落のあちこちに置かれています
道は平坦で、徒歩でも自転車でもまわれます
移動:宿へ(本村地区は徒歩でまわれる広さ)
17:45 宿に到着宿に到着 碑は宿のすぐ近く。本村地区には宿・商店・診療所が集まっています
17:50 新選組 相馬主計の碑「主計の扇子」(見学 約15分)新選組 相馬主計の碑「主計の扇子」 見どころ:「誠」の一字と開いた扇子を彫った石碑と、新島村が建てた説明板
アクセス:新島村本村五丁目の生活道路沿い。見学自由・無料・柵なし・24時間見られます。専用駐車場はありませんが、集落内は徒歩でまわれます。トイレは近くの公共施設を利用
19:00 宿の夕食宿の夕食 刺身・焼き魚・揚げ物が一度に並ぶ島の膳。魚がよかった
【2日目】移動:新島港から高速ジェット船で竹芝へ(約2時間20分)

島へ ― 東京都を、船で二時間半

高速船に乗って、南へ

朝、竹芝から高速船に乗りました。同じ東京都のはずなのに、乗り物は船で、所要は二時間半。窓の外から陸が消えて、しばらく海だけになります。

この時間が、じつは今回の旅でいちばん効きました。「流刑」というのは、この距離のことなのだと分かるからです。いまは高速船が一日に何便も出ていますが、明治のはじめに帆船で送られるとなれば、風次第で何日もかかったはずです。しかも一度渡ったら、赦免が出るまで戻れない。船に乗っているあいだ、こちらは景色を眺めているだけですが、同じ海を、二度と帰れないつもりで渡った人がいる。

新島は伊豆諸島のひとつで、江戸時代を通じて流刑地でした。島には千三百人を超える流人が送られたと伝えられています。相馬主計は、そのいちばん最後のほうに来た人です。

本村 ― 流刑地は、いま普通の町だった

明日葉のパスタと、島の道ばた

島に着いて、まず昼食にしました。明日葉を刻み込んだパスタです。伊豆諸島でよく食べられている草で、摘んでも明日にはまた芽が出るからこの名がついたといいます。緑がとにかく濃くて、香りに少し癖がある。島の味だ、という感じがしました。

集落を歩くと、道ばたにマグカップの形をした花壇が置かれていたり、レンタルバイクの店があったり、要するにごく普通の、のんびりした島の町です。海が近く、風が通り、人は少ない。ここが流刑の島だったと言われても、歩いているぶんにはまるでピンときません。

町なかの一角に、その碑はあった

相馬主計の碑は、集落のまんなかにあります。本村の五丁目、旅館や商店や診療所が並ぶ生活道路の一角です。寺の境内でもなければ、整備された史跡公園でもありません。島の人が毎日通る道の、その角に立っています。

ここで思い出したことがあります。近藤勇の墓も、板橋の駅前の、医院の看板と室外機に囲まれた一角にありました。片や東京の下町、片や太平洋の島。距離はまるで違うのに、置かれ方がそっくりなのです。新選組の終わりは、聖域ではなく、生活のなかに残されている。

主計の扇子

「誠」の字と、扇子

碑は、自然石をそのまま立てたようなかたちをしています。上のほうに「誠」の一字。そしてその下に、開いた扇子が彫られていました。

「誠」は新選組の旗印です。それが、島の石に彫られている。しかも刀ではなく、扇子と並べて。この取り合わせの意味が、隣の説明板を読んで分かりました。

なぜこの人が、最後の隊長だったのか

説明板を読む前に、この人がどうやってここへ来たのかを整理しておきます。板は流刑から後のことしか書いていないので、そこに至るまでを別に調べました。

相馬主計は、常陸国笠間藩士の子として生まれています。生年は天保六年とも天保十四年とも伝えられ、はっきりしません。慶応元年に脱藩して幕府歩兵に応募し、そこから新選組に入りました。鳥羽伏見の戦いのときには、すでに隊にいます。

笠間、という地名で足が止まりました。浅野家も大石家も笠間から出て赤穂へ移った町です。この島にいる男もまた、笠間を出ていった一人だった。ずいぶん遠くまで来たものだと思います。

甲州へ向かった甲陽鎮撫隊では局長付組頭をつとめ、隊のなかで頭角を現しました。そして近藤勇が板橋で斬られ、隊は北へ流れて蝦夷地へ渡ります。

ここからが、この人の役どころです。箱館で土方歳三が戦死したあと、弁天台場に残っていた隊士たちが、相馬を隊長に選びました。明治二年五月十五日のことと伝えられています。そして相馬を筆頭として、隊士たちは恭順の書状に名を連ねました。

つまり——新選組の歴史に幕を引いたのは、この人の署名です。近藤も土方も、終わりの書類にはかかわっていません。斬られ、撃たれて、先に消えている。最後まで残って、畳んで、名前を書く役をやらされたのがこの人でした。

そして明治三年、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられて、新島へ流されます。かつて新選組が油小路で葬った男の一件が、隊が消えたあとになって、生き残った隊長に返ってきたわけです。

刀の代わりに、扇子を差した

説明板にはこう書かれています。順に追います。

明治三年十一月、新島に流罪になった相馬主計は、刀の代わりにいつも扇子を腰に差し、姿勢を崩すことなく毅然としていた。

ここで一度、手が止まりました。刀を取り上げられた武士が、腰に扇子を差していた。形だけでも武士のかたちを保とうとしたのか、それとも刀を捨てたことの表明だったのか。板はそこまでは書いていません。ただ「姿勢を崩すことなく毅然としていた」とだけあります。

板は続きます。寺子屋を開いて島民に読み書きを教え、信望の厚かった「流罪終身」の主計だったが、二年後の明治五年十月には赦免となり、新島で娶った妻マツを伴い島を去った。

新選組の隊長だった男が、島で子どもに字を教えていた。そして、この島で妻を得ています。刑期は「終身」——つまり一生ここで終わるはずだったのに、二年で赦免が出て、妻を連れて帰った。ここまでなら、救いのある話です。

「楽な道は選ばない」

板の最後の段落が、いちばんこたえました。

東京に戻った主計は、その後明治政府から鳥取県知事に推挙されたが、元新選組隊士達の貧困を目にして「楽な道は選ばない」と辞退した。その直後に自害している。

県知事です。賊軍として戦い、島に流された男に、新しい政府が椅子を用意した。しかも彼はそれを、かつての仲間たちが食うにも困っているのを見て断っている。

「楽な道は選ばない」。この一言だけが残されています。断ったあと何を考えたのかは、誰も知りません。板も、そこは書いていません。ただ「その直後に」という五文字が置かれているだけです。

板はこう結んでいます。主計が愛用したこの扇子の中に、新島にも幕末日本の激動の歴史が及んでいたことが垣間見れるのである。——平成十五年九月、東京都新島村。

碑の前で読み終えて、しばらく動けませんでした。近藤勇は斬られ、土方歳三は撃たれ、この人は生き延びて島に流され、赦されて帰って、それから死んでいる。戦って死ぬより、生き残ったあとのほうが長くて、重かったのではないか。そんなことを考えました。

島の宿と、夕食。この日は島に一泊しました。夕食は刺身と焼き魚と揚げ物が一度に並ぶ、島の宿らしい膳です。魚がとにかくよかった。
不思議なもので、碑を見たあとに食べる島の魚は、味が少し変わります。この島で二年暮らして、ここで妻をもらった人がいる。その人も同じ海の魚を食べていたはずだと思うと、皿の上のものが急に近くなります。宿名は伏せますが、集落の中の、こぢんまりした宿でした。

実際に歩いて感じたこと

帰りの船で考えていたことを、四つ書いておきます。

ひとつめ。この島には、見るべき「史跡」はほとんどありません。城跡もなければ、大きな寺もない。あるのは町の角に立つ石碑ひとつと、その隣の説明板一枚だけです。それでも、この一枚を読むために船で二時間半かける値打ちはありました。史跡の重さは、遺構の大きさとは関係がない。そのことを、これほどはっきり感じた場所はありません。

ふたつめ。この碑は、島の人が建てたものです。平成十五年、東京都新島村。流人として送られてきた男を、百三十年たってから、島のほうが顕彰している。しかも「隊長だったから」ではなく、「寺子屋を開いて島民に読み書きを教え、信望が厚かった」からです。新選組としてではなく、島で暮らした一人の人として覚えられている。それがこの碑のいちばん静かな部分だと思います。

みっつめ。新選組の終わりは、三か所に散らばっています。板橋の刑場跡、函館の五稜郭、そしてこの新島。近藤は斬られ、土方は死に、主計は生き残って流された。三人とも、まったく違う終わり方をしています。そして三か所とも、いま特別な場所ではありません。板橋は駅前の生活道路、新島は集落の角。歩いてみると、英雄譚として語られるものが、どれだけ日常の地面の上で起きたことかが分かります。

よっつめ。この人は笠間の生まれでした。以前、つつじを見に笠間へ行ったとき、あの町は浅野家も大石家も出ていった「出ていった人たちの町」だと書きました。相馬主計もまた、笠間を出て、脱藩して、京へ行き、蝦夷地まで流れて、最後は太平洋の島にたどりついています。同じ町から出た人が、こんなに遠くで終わっていた。それを島の石碑の前で知ることになるとは思いませんでした。

これから行かれる方へ、ひとつだけ。碑は集落のまんなかにあるので、探すというより、歩いていれば行き当たります。島は自転車でも十分まわれる大きさです。ただし船は天候で欠航します。日程には必ず余裕を持たせてください。

この旅の道のり

  1. 1日目 ― 竹芝から、東京都の島へ
  2. 08:30竹芝客船ターミナル東京都心から伊豆諸島への玄関口高速ジェット船 約2時間20分
  3. 11:00新島港 ― 本村地区へ島の中心集落。宿も商店もここに集まる徒歩
  4. 12:30昼食 ― 明日葉のパスタ伊豆諸島の名物。緑が濃い島の味
  5. 12:45本村の集落を歩くコーガ石の石造物が点在するのんびりした町散策 約45分
  6. 17:45宿に到着碑はこの宿のすぐ近くだった島に一泊
  7. 17:50新選組 相馬主計の碑「主計の扇子」「誠」の一字と扇子。隣に村が建てた説明板見学 約15分
  8. 19:00宿の夕食刺身・焼き魚・揚げ物。魚がよかった島の膳
  9. 2日目 ― 帰路
  10. 翌日新島港 ― 竹芝へ来た海を、こんどは帰るために渡る高速ジェット船 約2時間20分

※船・昼食・碑・夕食の時刻は当日の写真の記録によるものです。それ以外の滞在時間・移動時間は目安で、当日の実際の記録ではありません。

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