前編では、那須与一の生まれた城と、与一が太刀を納めた社、そして与一が射た平家が逃げ込んだ谷をたどりました。この後編は、同じ二日目の午後に歩いた黒羽と喜連川の記録です。
前編を読む ― 那須与一が生まれた城。神田城跡から那須神社、芦野城跡と平家の隠れ里・湯西川へ
時代が一気に下ります。中世から、幕末と明治へ。
一万八千石の小さな藩から、二人の人物が出ています。ひとりは幕府の陸軍奉行と海軍奉行を務め、勝海舟と並び称された藩主。もうひとりは、日本の近代看護をつくった女性です。
その女性の記念碑が、今年になって建ったばかりでした。

黒羽城跡 ― 県北最大の山城に、建物はひとつもない
大田原市の黒羽。那珂川に沿った丘陵の上に、その城跡はあります。

まず、この城の規模に驚きました。芭蕉についての説明板に、こう書かれています。
黒羽城は、南北約1.5キロ、東西約250メートルという県北最大規模の山城で、黒羽藩主大関氏の本拠でした。
南北一・五キロ。端から端まで歩けば、それだけで二十分はかかる長さです。

由来の板によれば、築城は天正四年、大関高増。余瀬の白旗城から移ってきました。北に丘陵、南に低地、西に那珂川という地形を選んでいます。
面白いのは、その次の一節です。
慶長五年 嗣子資増の代 會津の上杉景勝が徳川家康に叛いたので、家康はそれに備える為 臣下を黒羽城に遣し資増に命じて更に修築させ、且つ鉄砲を給与した
慶長五年——関ヶ原の年です。家康は会津の上杉に備えて、この城を補強させ、鉄砲まで渡している。奥州へ抜ける街道を押さえる位置にあったということです。
そして明治四年の廃藩置県まで、二百九十五年間、大関氏累代の居城でした。
本丸も二の丸も三の丸も、標柱だけ



遺構はよく残っていました。土塁、水堀跡、そして深い空堀。



それだけ残っているのに、建物はひとつもありません。

正直に書きます。せめて大手門だけでも再建してくれたら、と思いました。
これだけの規模の城で、土塁も堀も郭の区画も残っている。あとは入口にひとつ建物があれば、城の姿が一気に立ち上がるはずなのに。
その代わりに、この一枚がありました

御殿の間取り図です。
御玄関、御次ノ間、御茶ノ間、女中部屋、料理ノ間——部屋の名前がひとつずつ書き込まれています。建物がなくても、この板の前に立てば、御殿のなかを歩けます。玄関を入って、次の間を抜けて、奥へ。
大手門はありませんでした。けれど、間取り図はありました。これはこれで、ひとつの残し方だと思います。
芭蕉が十四日間いた城

この城には、もうひとりの主役がいます。松尾芭蕉です。
説明板によれば、元禄二年(一六八九)、『奥の細道』の旅の途中で芭蕉は黒羽を訪れ、十四日間逗留しました。
十四日間逗留し、知人や史跡を訪ね、旅程中最も長い
奥の細道の全行程で、いちばん長く留まった土地が黒羽です。松島でも平泉でもなく、ここ。
泊まったのは、黒羽藩城代・浄法寺高勝(桃雪)の邸とその弟・鹿子畑豊明(翠桃)の邸。そして桃雪邸は黒羽城の三の丸にありました。芭蕉は八泊しています。
さきほど三の丸跡の標柱の前に立ちましたが、あそこに芭蕉が八晩いたということになります。

城跡には黒羽芭蕉の館があり、ここで黒羽城の御城印を三〇〇円で頒けていただきました。

「二九五年間の本拠」。二百九十五年。ひとつの家が、ひとつの城に、それだけのあいだ居続けたということです。左端には「令和 年 月 日」と日付の欄がありますが、空白のまま頒けていただきました。
大関増裕 ― 勝海舟と並び称され、戊辰の前年に死んだ藩主
黒羽城の由来板には、まだ続きがあります。この記事でいちばん驚いた箇所です。
幕末に当り肥後守増裕は出仕して陸海軍奉行の重職を奉じ 勝海舟と並びて偉名を天下にとどろかせた 且つひそかに開国勤皇の志を抱いて深く謀る所があったが 不幸慶応三年卆去した 行年三十一 大正七年 朝廷 増裕生前の功を賞して正四位を贈られた
陸軍奉行と海軍奉行。幕府の軍政の、最高幹部です。

一万八千石の小さな藩の主が、幕府の軍のトップにいた。そして「勝海舟と並びて」と、地元の板が書いている。
さらに「ひそかに開国勤皇の志を抱いて深く謀る所があった」。幕臣として最高幹部にありながら、勤皇だったというのです。
そして、慶応三年に三十一歳で亡くなっています。
戊辰戦争の、前の年です。
板は死の事情について何も書いていません。「不幸慶応三年卆去した 行年三十一」——それだけです。こちらも、書かれていないことは書きません。ただ、三十一歳という年齢と、慶応三年という年が並んでいるだけで、十分に重い。
正四位が贈られたのは大正七年。死んでから五十年後のことでした。
四十七名 ― 黒羽神社(黒羽招魂社)
城跡から少し移動したところに、黒羽神社があります。

訪ねる前、正直なところ「黒羽藩の戊辰の資料が意外と少ないな」と感じていました。勤皇の藩で、藩主が幕府の軍政トップだったのだから、装備も最新式だったはずなのに——と。
答えは、この神社にありました。

明治二年十二月に慶応戊辰の役で黒羽藩士等四十七名の戦死者の霊を祀るため、黒羽藩主大関増勤公らにより黒羽田町に官祭黒羽招魂社が創建されました。
四十七名、戦死しています。
資料が乏しかったのではありません。神社という形で残っていたのです。
しかも、その後の扱いが違います。板によれば、明治八年、関東では館林・宇都宮・黒羽の三社が「官祭招魂社」に選ばれました。国が費用を出して祭る社です。関東で三つのうちのひとつ。

現在は日清・日露・日中太平洋戦争を含めて1,983柱が祀られています。戊辰の四十七名から始まって、二千近くまで増えた。数字の並びが、そのまま近代日本の歩みになっています。

日本近代看護の先駆者・大関和 ― 家老の娘が、後藤新平に直談判した
黒羽神社を出てすぐ、住宅地のなかに新しい説明板と石碑が立っていました。

大関和(おおぜき ちか)。「明治のナイチンゲール」と呼ばれた、日本近代看護の先駆者です。
そして、この人は黒羽藩の家老の娘でした。
日本看護界の先駆者で明治のナイチンゲールと呼ばれる大関和は、安政五年(一八五八)四月十一日、父弾右衛門増虎・母哲の次女として当地に生まれた。父の増虎は、黒羽藩の家老として活躍した。
説明板の記述をたどると、この人の歩みが分かります。
- 明治十四年(一八八一)上京。英語を学び、植村正久牧師との出会いにより受洗
- 桜井女学校附属看護婦養成所に第一期生として入学。ナイチンゲール方式の看護学校を出たアグネス・ヴェッチに学ぶ。日本で最も早い時期に正規の訓練を受けた看護師(トレインドナース)の一人
- 明治二十一年(一八八八)帝国大学医科大学附属第一医院の初代外科看病婦取締
- 明治二十四年(一八九一)知命堂病院(新潟県上越市)の初代看護師長。同二十七年、同病院の産婆看護婦養成所で講師
- 明治四十二年(一九〇九)大関看護婦会を設立、大関看護婦講習所を開所
そして、この一行です。
明治二十九年(一八九六)、東京看護婦会講習所講師に就任し、看護師の質の低下を憂えて内務省衛生局長の後藤新平に直談判し、規則制定の約束を取り付けている。
後藤新平に、直談判。
のちに台湾総督府民政長官、満鉄総裁、東京市長を務める、あの後藤新平です。当時は内務省衛生局長。そこへ、一人の看護師が乗り込んで、制度をつくらせている。
著書もあります。『派出看護婦心得』(明治三十二年)、『実地看護法』(明治四十一年)。昭和七年(一九三二)に七十五歳で亡くなりました。
この碑は、今年建ったばかりです
説明板のいちばん下に、こう書かれています。
この記念碑は、大関和の生家があったと考えられるこの地に建立いたしました。
令和八年三月一日 大関和記念碑建立実行委員会
令和八年三月。まだ半年しか経っていません。
碑の文字は公益社団法人日本看護協会の会長による揮毫です。
そして、この人は連続テレビ小説『風、薫る』のモデルになりました。碑が建った時期を考えれば、ドラマがきっかけであることは想像がつきます。
放送で名前を知って、故郷を訪ねてみようという人が、これから増えるはずです。その人たちが立つのは、この住宅地のなかの、小さな石碑の前です。まわりに観光施設はありません。黒羽神社から歩いてすぐ、生活道路に面した一角です。

ここで、この記事の縦軸が見えました。
一万八千石の藩から、二人出ています。
藩主の大関増裕は、幕府の陸軍奉行と海軍奉行。三十一歳で死んだ。
家老の娘の大関和は、日本の看護制度をつくった。七十五歳まで生きた。
片方は幕府の側で終わり、片方は明治の側で始まっている。同じ小さな藩から、同じ「大関」の名で、まるで違う方向へ出ていった二人です。
喜連川 ― 大手門だけが、百十五年後に戻ってきた
この旅の最後は、さくら市の喜連川です。
黒羽で「せめて大手門だけでも再建してくれたら」と思った、その翌日——正確には同じ日の午後ですが——ここで、まさにその大手門を見ることになりました。

とても立派でした。

喜連川は源平の合戦以来、塩谷氏が治めていました。その後足利尊氏の分家古河公方の末えいの足利国朝を初代とし、弟の頼氏と治世が変わり、2代頼氏の代になって、現在の町役場の位置に館が建てられました。館は明治9年に焼失し、門は平成3年に復活しました。
館は明治九年に焼け、門は平成三年に復活した。
百十五年です。
黒羽で「建物がひとつもない」と思ったその日のうちに、建物がひとつだけ戻ってきた城を見た。惜しいと思う気持ちの、両側を一日で見たことになります。
ところが、山の上には案内板が一枚もありません
大手門から山手へ上がると、城跡があります。お丸山公園として整備されている一帯です。



上がってみて、遺構の立派さに驚きました。


この深さです。草に覆われていてもこれだけ分かるのですから、冬に来れば相当なものだと思います。





広さも相当なものです。敷地の感じからすると、十万石規模の城地に見えました。実際の喜連川氏は五千石ですが、足利の名門として大名並みに遇されていた家です。この規模には、そのあたりの事情が出ているのかもしれません。
そして——ここからが残念な話です。
案内板が、一枚もありません。
「本丸跡」も「二の丸跡」もない。堀の名前も、土塁の由来も、何も書かれていない。これだけの遺構が、名前を与えられないまま公園になっています。
黒羽では、本丸・二の丸・三の丸・会所跡と標柱が立ち、御殿の間取り図まで掲げられていました。同じ栃木県の城跡で、この差です。
もったいない、と思いました。案内板が数枚あるだけで、ここは「歩ける城跡」になります。いまは「気持ちのいい公園」で終わってしまっている。

山の上には展望塔が建っています。ここに登れば、城の全体像——南北に長い尾根と、それを切る堀の配置——が一望できたはずです。
閉まっていました。
結局、下から堀を歩いて、土塁を見上げて回ることになりました。それはそれで、城の大きさは体で分かります。ただ、上から見たかった。
喜連川城跡にも、御城印はありませんでした。
実際に歩いて感じたこと
この日の午後にたどったのは、「残す」ということの、いろいろな形でした。
黒羽には、建物がひとつもありません。その代わり、標柱が郭ごとに立ち、文化十四年の絵図から起こした御殿の間取り図が掲げられていました。建物を建てる代わりに、図面を置いた。
黒羽神社には、戊辰で死んだ四十七名の名が祀られていました。資料館はなくても、社がある。祀るという形で、百五十年以上、数え続けている。
大関和の碑は、今年建ちました。亡くなって九十四年経ってから、生家のあった場所に石が立った。忘れられていたわけではないけれど、石が立つまでには九十四年かかった。
喜連川では、大手門だけが百十五年後に戻ってきました。けれど山の上の遺構には、名前が付いていません。門は建てたが、案内板は立てていない。
並べてみると、「残す」にもずいぶん違うやり方があると分かります。建てる、書く、祀る、石を立てる。そして、どれもやらないまま草に埋もれていく場所もある。
いちばん考えさせられたのは、黒羽の御殿の間取り図でした。
大手門がないことを惜しんだ直後に、あの板の前に立ちました。建物は建てられなくても、部屋の名前を書いた紙一枚あれば、人はそこを歩けます。玄関から次の間へ、奥へ。頭のなかで。
喜連川に足りなかったのは、たぶん、それでした。門より先に、板が要るのかもしれません。
行くときに知っておくと役に立つこと
黒羽城跡(栃木県大田原市)
- 見学は自由で、無料です。南北約1.5キロ、東西約250メートルという県北最大規模の山城なので、全部を歩くなら一時間は見てください。
- 本丸・二の丸・三の丸・会所跡に標柱が立っています。いま自分がどの郭にいるか分かるので、城跡としては歩きやすいほうです。
- ★「御本城御住居全図」の説明板は必見です。文化十四年の絵図をもとにした御殿の間取り図。建物が残っていないぶん、この一枚の価値が高い。
- 城跡のなかに黒羽芭蕉の館があります。入館料は大人300円・小中学生100円(障害者手帳をお持ちの方と付き添い1名は無料)。9時30分から17時、入館は16時30分まで。月曜休館(月曜が祝日のときは翌日)、年末年始と燻蒸作業期間も休みです。駐車場は黒羽城址公園のものを使います。
- 黒羽城の御城印は、この館で1枚300円でした。ただし大田原市の公式サイトには御城印についての記載がありません(確認日 2026年9月)。確実に欲しい方は、事前に電話(0287-54-4151)で確認されるとよいと思います。
- 郭のあいだに橋が架かっていて、アップダウンがあります。スニーカー以上の靴で。
- 芭蕉が奥の細道の旅程中いちばん長い十四日間を過ごした土地です。俳句に興味がなくても、この事実だけで見え方が変わります。
黒羽神社(黒羽招魂社)・大関和記念碑(栃木県大田原市)
- どちらも参拝・見学は自由で、無料。
- 黒羽神社の境内に大関増裕公の胸像と英霊碑があります。戊辰戦争の黒羽藩を知るなら、資料館ではなくここです。
- ★大関和の記念碑は、令和八年三月に建ったばかりです。黒羽神社から歩いてすぐ、住宅地のなかの生活道路に面しています。観光施設ではないので、近隣のご迷惑にならないように。
- 説明板の情報量が多いので、読むだけで十分から十五分かかります。
喜連川城跡・お丸山公園(栃木県さくら市)
- 見学は自由で、無料。麓に駐車場とトイレがあります。
- ★★山上に案内板がありません。本丸跡・二の丸跡の表示も、堀や土塁の説明もゼロです。縄張りを知りたい方は、事前に調べてから登ってください。現地では何も教えてくれません。
- ★喜連川スカイタワー(展望塔)は、閉まっていることがあります。運営者が訪ねた日は登れませんでした。上からの眺めを目当てにするなら、事前確認を。
- ★★天頂部の一部に立ち入り制限があります。散策路から外れないように。
- 御城印はありません。
- 麓の大手門は、町なかの道路沿いにあります。城跡とは別の場所なので、両方見るなら車で移動してください。大手門のそばに観光案内図があります。
- 空堀は深く、斜面は急です。草の季節は足元が見えません。
本文中の史実は、原則として現地の説明板(大田原市/大田原市教育委員会/さくら市/旧喜連川町)の記載によります。御城印の価格は運営者が実際に頒けていただいたときのものです。
この旅の道のり(後編)
- 12:02黒羽城跡(大田原市)県北最大規模の山城。本丸・二の丸・三の丸、御本城御住居全図、芭蕉の館で御城印徒歩・車で数分
- 12:48黒羽神社(黒羽招魂社)戊辰の役で戦死した黒羽藩士四十七名を祀る。大関増裕公の胸像徒歩すぐ
- 12:54大関和 記念碑日本近代看護の先駆者。令和八年三月に建立されたばかり車で約1時間
- 14:26喜連川 大手門(さくら市)館は明治九年に焼失、門は平成三年に復活車で数分
- 14:41喜連川城跡(お丸山公園)深い空堀と土塁。案内板はなく、展望塔は閉館中だった
※時刻は当日撮影した写真の記録によるものです。実際には黒羽(12:02〜12:55)のあと那須神田城跡(14:00)に立ち寄り、そのあと喜連川へ向かいました。神田城跡は那須与一にまつわる場所なので、前編にまとめています。移動時間は目安です。
このコースの城の御城印について
このコースに登場する黒羽城は、黒羽芭蕉の館で御城印を頒けていただきました。
ただし大田原市の公式サイトには、御城印そのものについての記載がありません(確認日 2026年9月)。確実を期すなら事前に館へお問い合わせください。
頒布場所と料金は御城印はどこで買える? 公式で確認できた頒布情報まとめに一覧でまとめています。頒布場所や料金は変わることがあるので、お出かけ前に公式サイトでご確認ください。
