つつじを見に行こう、という話でした。妻と、母と、伯母と、四人で茨城県笠間市へ。花を見て、お参りをして、お昼を食べて帰る——そういう一日のつもりで車を出しました。
ところが歩いているうちに、この町が忠臣蔵の出発点だったことが分かってきます。浅野家も、大石家も、赤穂へ行く前は笠間にいた。四十七士のうち五人が、この町にゆかりがある。
そのうえもう一人、まったく別の時代の人がこの町とつながっていました。笠間は、出ていった人たちの町です。写真はすべて運営者が現地で撮影したものです。
午前|笠間つつじ公園 ― 花を見に来たはずだった
つつじの山を、四人で登る
朝いちばんに向かったのは、笠間つつじ公園でした。小高い山がまるごとつつじの斜面になっていて、ちょうど盛りの時期に当たりました。
登り口から見上げると、赤、濃い桃色、白が斜面を段々に埋めています。数千株が植えられているそうで、たしかに山の形が花の色で見えるという感じがしました。母も伯母も、ゆっくりゆっくり登っていきます。急ぐ理由は何もありません。
頂上のあたりまで来ると、笠間の町が一望できました。田んぼと家並みと、その向こうに低い山が連なっている。これといった高い建物はなく、平たく落ち着いた眺めです。
園内には石像が一体、町のほうを向いて立っていました。花の季節にだけ大勢が登ってくる山で、この像は一年じゅうここから同じ景色を見ているわけです。
——このときはまだ、これが城跡めぐりの一日になるとは思っていませんでした。
午前|佐白山 ― 山の上に、石垣が残っていた
笠間城跡 ― 関東では珍しい、石垣の山城
つつじ公園から車で少し登ると、笠間城跡です。佐白山という山の上にあって、車でかなりのところまで上がれます。
そして、ここで意外なものを見ました。石垣です。
これまで関東の城跡をいくつも歩いてきましたが、多くは土の城でした。小田城も、真壁城も、土塁と堀だけです。関東の中世の城は土を削って造るのが基本で、石垣がしっかり残っている城跡というのは、それほど多くありません。
ところが笠間城には、木立のなかに石垣の面が積み上がったまま残っていました。自然石を組み合わせた荒い積み方で、上のほうは崩れかけていますが、角の積み方までしっかり読み取れます。関東で、山の上で、石垣。これは珍しい取り合わせです。
石柱には「史蹟 笠間城大手門跡」とありました。いまは木と草に埋もれていますが、かつてはここが城の正面だったわけです。山の上まで来てよかった、と思いました。麓の資料だけ見て帰っていたら、この城が石垣の城だということに気づかないままでした。
午後|忠臣蔵は、この町から始まった
大石内蔵助の像と、大石邸址
山を降りて、次に着いた場所で足が止まりました。
大石内蔵助良雄の像が立っていたのです。そのそばには「史蹟 大石邸址」の石柱。
大石内蔵助といえば赤穂です。忠臣蔵の話は、播州赤穂と江戸で完結しているものだと、なんとなく思い込んでいました。なぜ茨城に大石内蔵助がいるのか。
答えは、すぐそばの説明板にありました。
浅野家は、真壁から来て、赤穂へ去った
板には、こう書かれていました。
浅野長重が元和八年(一六二二)に真壁藩から笠間藩へ入り、二代の長直が正保二年(一六四五)に赤穂藩へ転封となった。浅野氏の笠間藩在任は、およそ二十三年。
ここで思わず声が出ました。真壁から来ているのです。
前に歩いた真壁は、車で三十分ほどの隣町です。あの町から笠間へ、そして笠間から赤穂へ。浅野家は、二度の国替えでこの土地を通り過ぎていったことになります。二十三年というのは、人ひとりが生まれて大人になるくらいの長さです。短くはないけれど、腰を据えるには足りない。
そして大石家についても、板は詳しく書いていました。
大石家は近江国栗太郡大石庄——現在の滋賀県大津市——の出身。大石良勝が真岡藩時代の浅野長重に仕え、笠間への移封に従って、千五百石を拝領して家老となった。このころから「内蔵助」を名乗るようになった。そして、大石内蔵助良雄の父・良昭は、笠間藩時代に生まれている。
つまり、こういうことです。近江から出てきた家が、真岡で浅野に仕え、笠間で家老になり、その笠間で内蔵助の父が生まれ、そして一家そろって赤穂へ移っていった。「大石内蔵助」という名乗り自体が、笠間で始まっている。
近江といえば、少し前に安土から北ノ庄までを走ったばかりでした。大石家の出た大石庄は、そのとき通った大津のあたりです。まったく別の旅で歩いた土地の名前が、茨城の説明板に出てくる。こういう不意打ちがあるから、板は最後まで読むに限ります。
四十七士のうち、五人が笠間の人
もう一枚の板が、さらに具体的でした。「赤穂四十七士の笠間(藩)生まれの義士たち」という表題で、五人の名が挙げられています。
堀部弥兵衛金丸、吉田忠左衛門兼亮、間喜兵衛光延、間瀬久太夫正明、小野寺十内秀和。
なかでも目を引いたのが堀部弥兵衛です。板によれば、十九歳まで笠間にいた、唯一の笠間藩士だといいます。討ち入りのとき七十七歳、四十七士のなかで最高齢だった人です。その人が、少年時代をこの町で過ごしている。
四十七士のうち五人。一割以上がこの町にゆかりを持っている計算です。忠臣蔵という物語の登場人物が、赤穂へ行く前にここで暮らしていた。つつじを見に来ただけのつもりだったのに、思いがけないところへ連れて行かれました。
午後|笠間稲荷神社 ― 花と、歌と、稲荷の杜
大鳥居をくぐる
門前の通りでお昼をいただいてから、笠間稲荷神社へ。この町でいちばんの参拝者を集める場所です。
大鳥居をくぐって参道を進むと、正面に拝殿があります。近づいてまず驚くのが彫刻の量で、軒下も、扉のまわりも、隙間なく彫り込まれている。稲荷というと朱塗りの鳥居が並ぶ景色を思い浮かべますが、ここは社殿そのものの重さで見せる神社でした。
四人で並んでお参りしました。母と伯母は、ここでもゆっくり手を合わせています。
生まれは川崎ですが、戦争中に母の実家のあるこの笠間へ疎開していました。そして本人は生涯、「笠間稲荷の神様が自分を救ってくれた」として信仰を続け、のちにこの笠間稲荷神社で結婚式を挙げています。
「上を向いて歩こう」の人が、少年時代をこの町で過ごし、大人になって帰ってきて、この社殿の前で式を挙げた。三百年前に赤穂へ去った人たちと、七十年ほど前に東京へ出ていった歌い手が、同じ町の名前でつながっている。笠間は、出ていった人が戻ってくる町でもあるのだな、と思いました。
笠間城は建物が残っていません。あの石垣を見に山を登る人が、一年にどれだけいるのかは分かりませんが、紙が用意されているということは、来る人がいるということです。
実際に歩いて感じたこと
帰りの車のなかで、この日のことを考えていました。
この町は、出ていった人たちの町でした。
浅野家は真壁から来て、二十三年いて赤穂へ去りました。大石家は近江から来て、笠間で家老になり、笠間で子が生まれ、そして赤穂へついていきました。四十七士のうち五人が、この町から出ていった人たちです。堀部弥兵衛にいたっては、十九歳まで笠間にいた。そして坂本九は、疎開でこの町へ来て、東京へ出ていきました。
誰もここに留まっていません。それなのに、この町には像が立ち、石柱が立ち、説明板が立っている。出ていった人のことを、残った町のほうが覚えているのです。
思えば、前に歩いた真壁も似た構図でした。あちらは主君が秋田へ去り、家臣が残って町をつくりました。笠間は、藩主も家老も赤穂へ去り、それでも町がその名を語り継いでいる。城や殿様は移動するけれど、町は動かない。動かないものが、動いていった人の記憶を保管している。茨城のこのあたりを歩いていると、そればかり見ることになります。
もうひとつ。この日はそもそもつつじを見に来たのでした。母と伯母と妻を連れて、花の斜面を四人でゆっくり登って、写真を撮って。そのあとで討ち入りの話に行き当たったわけです。この落差が、われわれの旅らしいところだと思っています。硬い話をしに行ったのではなく、花を見に行ったら歴史のほうから寄ってきた。城めぐりというのは、たいていこの順番で面白くなります。
最後に、同じルートを走る方へ。笠間城跡は、車で山の上まで上がってください。麓で引き返すと、この城のいちばんの見どころである石垣を見ないまま終わります。関東でこれだけの石垣が山上に残っている城跡は多くありません。そしてつつじの時期に合わせて行くなら、午前のうちに公園を済ませておくのがよいと思います。花は午前の光のほうがきれいですし、そのあと城跡と大石邸址、稲荷神社と回っても、無理なく一日に収まります。
この旅の道のり
- 09:52笠間つつじ公園山の斜面いちめんのつつじ。つつじまつりの時期車で約10分
- 11:09笠間城跡(佐白山)関東では珍しい石垣の残る山城。大手門跡車で約10分
- 11:48大石内蔵助像・大石邸址浅野家は真壁から笠間へ、そして赤穂へ。四十七士のうち五人が笠間ゆかり門前で昼食
- 12:57笠間稲荷神社彫刻の密度が見事な社殿。坂本九ゆかりの社。御朱印・御城印あり
※時刻は当日撮影した写真の記録によるものです。所要時間は目安で、季節や混み具合で変わります。















