近江から越前へ、一泊二日で走ってきました。安土城跡に始まり、彦根城、佐和山城跡、長浜。小谷山の麓に一泊して、翌朝に小谷城跡へ登り、一乗谷を経て、福井の北ノ庄城址で終わる行程です。
走り終えてから気づいたことがあります。この二日間でめぐった城のうち、建物が残っているのは彦根城ただ一つでした。安土は焼けて消え、佐和山は破却されて彦根城の石になり、小谷は廃されて長浜へ運ばれ、北ノ庄は福井城の下に埋もれた。勝った側が、負けた側の城を消して、その上に自分の城を建てる。それが目の前で四回くり返される旅でした。
そしてもう一本、思いがけない線が通っていました。お市の方です。兄・信長の安土、最初の夫・浅井長政と暮らした小谷、二度目の夫・柴田勝家と果てた北ノ庄。彼女が生きた三つの城を、われわれは順番どおりにたどっていたのです。写真はすべて運営者が現地で撮影したものです。
1日目|近江 ― 消された城と、残った城
安土城跡 ― 十年たらずで消えた、天下人の城
朝いちばんに立ったのが安土城跡でした。到着したのは午前九時前。冬のはじめの、空気の冷たい朝です。
受付を過ぎると、いきなりまっすぐな石段が現れます。これが大手道です。幅は広く、傾斜はきつく、そして何より異様に直線的です。ふつう城の登り口は、敵が一気に攻め上がれないように何度も折れ曲がるものですが、安土城のこの道は、麓から山上へ向かって堂々と一直線に伸びている。守るための設計ではありません。見せるための設計です。
そして、この石段の両脇に、石柱が点々と立っています。
羽柴秀吉、織田信忠、武井夕庵――名前を読みながら登っていくと、この城の異常さがだんだん分かってきます。家臣たちの屋敷が、城の中の坂道沿いに並んでいたのです。ふつう家臣は城下町に住みます。ところが信長は、主だった者を城の敷地内に、しかも自分の住む山上へ通じる道の両側に住まわせた。登り降りするたびに、家臣たちの屋敷を見下ろしながら通ることになります。
もう一つ石柱がありました。摠見寺本堂跡です。安土城のなかには寺が建てられていて、大手道を登る者はその境内を通る構造になっていました。城のなかに寺を取り込み、参詣者に城を通らせる。ここまでくると、これはもう軍事施設ではなく、思想を形にした建築だという気がしてきます。
しかし、この城には天守がありません。それどころか、建物がひとつも残っていません。
安土城が築かれ始めたのは天正四年(一五七六)。三年ほどで五層の天主が完成し、信長が移り住みました。ところが天正十年(一五八二)の本能寺の変で信長が斃れると、城は間もなく天主も本丸も焼け落ちます。誰が火をつけたのかは、いまも定説がありません。そして数年後には廃城となり、以後この山に城が建つことは二度とありませんでした。
築城から炎上まで、およそ六年。廃城まで入れても十年たらず。天下人が全力で造った城の寿命が、それだけだったということです。石垣だけが山に残り、大手道だけが山を貫いている。登りながら、この道はいったい誰のために残っているのだろうと考えていました。
彦根城 ― 佐和山を壊してつくられた、国宝
安土から車で四十分ほど、十時過ぎに彦根城に着きました。この日いちばん時間をかけた場所です。
表門橋を渡って坂を登ると、天秤櫓が現れます。真ん中に橋を渡し、その左右に櫓を配した独特の構えで、名前のとおり天秤に見えます。面白いのはここからで、この橋の真下をくぐらされてから、脇の坂を回り込んで登るという順路になっている。攻める側はこの橋の下で頭上から狙われ、しかも有事には橋そのものを落とせる仕掛けです。実戦を想定して造られた城だということが、歩いてみるとよく分かります。
天守は三層三階。決して大きくはありませんが、破風の重ね方が異様に凝っていて、どの角度から見ても表情が違います。国宝に指定されている天守は全国に五つしかなく、そのひとつがこれです。
そして――ここがこの旅の要になるのですが――彦根城をつくるために、佐和山城は壊されました。
関ヶ原のあと、この地に入った井伊家は、石田三成の居城だった佐和山城をそのまま使いませんでした。あえて別の丘に新しい城を築き、佐和山のほうは徹底的に解体した。石垣の石も、建物の材も、佐和山から運び下ろされて彦根城に使われたと伝えられています。いま目の前にあるこの石垣のどこかに、三成の城だった石が混じっているかもしれない、ということです。
もっとも、城内はそんな重い話ばかりではありません。天守の前ではひこにゃんが出てきて、そのあたりだけ空気が一気にやわらかくなりました。四百年の因縁を抱えた城のてっぺんで、みんながゆるいキャラクターを撮っている。この落差も含めて、いまの彦根城です。すぐそばの資料館にも入り、そのあとお茶にしました。
堀端に「琵琶湖八景 月明 彦根の古城」と刻まれた碑が立っていました。彦根城は、景色としても選ばれている。戦うために造られた城が、いつのまにか眺めるものになったという一行が、石に刻まれているように読めます。
帰りぎわ、「重臣 木俣屋敷跡」と刻まれた石柱を見つけました。木俣家は井伊家の筆頭家老です。屋敷は跡形もなく、石柱が一本だけ立っている。
この朝、安土城の大手道で「羽柴秀吉邸址」「織田信忠邸址」という石柱を見たばかりでした。二百年以上へだたった二つの城で、まったく同じ形の「家臣の屋敷跡を示す石柱」を見ている。屋敷が消えたあと、そこに誰が住んでいたかを伝える方法は、結局この一本しかないのだということです。
佐和山城跡 ― 四十分登ってたどりつく、何もない山頂
彦根城から車で数分。佐和山の登り口に着いて、看板を見た瞬間に少し覚悟が要りました。本丸まで、およそ五十分。
妻は「待ってる」と言って車に残りました。ここからは一人です。
登り始めてすぐ分かりましたが、これは散策ではありません。完全な山道で、落ち葉の下に木の根と石が隠れていて、足元を選びながら登ることになります。冬の入口だというのに、十分もしないうちに汗が噴き出しました。上着を脱ぎ、また少し登って、立ち止まって息を整える。その繰り返しです。
ただ、この山には思いがけない気持ちよさがありました。
すれ違うのです。何人も。同じように汗をかいて、同じように息を切らして、城跡目当てに登ってくる人たちと。そしてすれ違うたびに、必ずどちらからともなく挨拶が出る。「こんにちは」「あと少しですよ」「けっこうきついですね」。それだけのやりとりなのですが、これがとてもよかった。
考えてみれば不思議な話です。この山には天守も櫓も石垣も、見るべきものが何ひとつ残っていません。それでも、わざわざ五十分かけて登ってくる人が何人もいる。何を見に来ているのかといえば、たぶん「何も無いこと」を見に来ているのです。同じ物好き同士だという了解が、挨拶に込められている気がしました。
途中の西の丸跡に立っていた説明板に、ぞくりとする一行がありました。
「現在、この曲輪にはたくさんの瓦片が散乱しており」
壊された城の瓦の破片が、四百年たったいまも地面に落ちている、ということです。板はさらに、この曲輪の北面と西面には土塁がめぐり、水の手に向かって竪土塁が築かれていた、と続きます。そして最後に、こう書き添えられていました。「佐和山城跡は民有地です」。
市内に国宝の天守を持つ城があり、その隣の山は私有地のまま草に埋もれている。同じ市の、車で数分の距離で、これほど扱いが違う。勝った城と、負けた城のその後が、この一行に凝縮されていました。
そして本丸跡です。絶景でした。
琵琶湖が光り、彦根の市街が一望できます。四十分かけて登ってきた息が、ここでようやく整いました。そして眼下に見えているのが、まさに、この山の石で建てられた城のある町なのです。三成の城の跡から、三成の城を壊して建てられた城下を見下ろしている。こういう構図は、実際に登った者にしか味わえません。
山頂にあった碑には、こう刻まれていました。「彦根八景 武士(もののふ)の夢 佐和山」。
建物ひとつ残っていない山が、八景のひとつに選ばれている。しかもその名前が「武士の夢」。石田三成という人は、長いあいだ敗者として、ときには悪役として語られてきました。その城跡が、いまは市の景勝として「夢」と名づけられている。この二日間で見たすべての城跡のなかで、いちばん胸に来たのはこの一枚の碑でした。
長浜 ― 秀吉がつくった、年貢のいらない町
佐和山を降りて、次は長浜へ。長浜城は、羽柴秀吉が初めて自分の城として与えられた城です。浅井氏を滅ぼした功で北近江を任され、今浜という地名を、主君・信長の一字をもらって「長浜」と改めました。
いま建っている天守は、史実の姿を復元したものではなく、歴史博物館としての模擬天守です。それでも琵琶湖のほとりに白い天守が立っている風景は、この町の顔になっています。
ここで見つけた説明板が、この日いちばんの「へえ」でした。旧長浜領境界碑についての板です。
それによれば、長浜は秀吉によって町屋敷の年貢米三百石を納めることを特別に免除されたといいます。しかもこの特権は、徳川幕府になっても認められ続けた。そして、他の地域と区切るための石碑が、江戸時代のはじめに長浜町のまわりに三十数本も建てられたと伝えられ、いま残っているのは十余本だけだ、と。
城は消えても、町にかけられた恩恵のほうは残った。しかもそれを証明する石が、いまも町のあちこちに立っている。この日ずっと「消された城」ばかり見てきたので、ここで初めて「残ったもの」の話に出会った気がしました。
そしてこの湯には由緒があります。浅井長政とお市の方も湯治に通ったと伝えられる湯なのです。翌朝に登る小谷城は、この宿のすぐ目と鼻の先。落城した城の主が浸かったと伝わる湯に、その城の真下で泊まることになったわけで、狙ってもなかなかこうはいきません。宿名は伏せますが、赤みを帯びた、体の芯まで温まる湯でした。
チェックインしてから、宿の周りを少し歩きました。徒歩二分ほどのところに案内板と石碑があるというので、行ってみたのです。
案内板を読んで驚きました。この谷は、片桐且元が生まれ育った里だというのです。
板によれば、小谷城主・浅井久政が築城の折にこの地を家臣の屋敷地と定め、家臣の片桐孫右衛門――且元の父です――が、この山の谷に鴬の巣をかける岩があることから「巣ヶ谷」と改めた。それが今の「須賀谷」だ、と。地名の由来が鴬の巣だというのが、なんとも良い。
そして且元は弘治二年(一五五六)にこの里で生まれ、育ったのち、羽柴秀吉の小姓として仕え、賤ヶ岳の戦功をはじめとして豊臣家の重臣として功績を残し、大坂夏の陣のあと、京都で病死した。六十歳だった、と板は結んでいます。
石碑は二基ありました。一基は「片桐且元公頌徳碑」とはっきり読めます。ところがもう一基は、風化して文字がまったく読み取れませんでした。誰を顕彰した碑なのか、いまとなっては分かりません。
徳を頌えた碑は読めて、隣の碑はもう誰のものか分からない。この二日間ずっと考えていた「残るものと消えるもの」が、宿から徒歩二分の杉林のなかにも転がっていたわけです。日が落ちかけていて、少し寒くなってきたので、そのまま宿に戻りました。
2日目|小谷から越前へ ― お市の方がたどった道
小谷城跡 ― 浅井三代の山城
二日目の朝、宿を出てすぐ小谷城跡に向かいました。宿のすぐ隣が城なので、移動時間はほとんどありません。
ありがたいことに、この城は途中まで車で登れます。前日に佐和山で一人置き去りにしてしまった妻も、今日は一緒です。それでも、車を降りてからの標高はかなりのもので、尾根を歩きながら「攻める側も大変だっただろうな」と何度も思いました。ここを、鎧を着て、何千という兵で登るのです。
説明板によれば、小谷城は大永四年(一五二四)に築かれてから、浅井亮政・久政・長政の三代の居城となり、天正元年(一五七三)までのおよそ五十年余りの城でした。城の構造は典型的な山城で、下から尾根の上へ、番所・お茶屋・御馬屋・馬洗池・桜馬場・黒金門・大広間・本丸・中丸・京極丸・小丸・山王丸と連なっていく。ひとつの尾根がまるごと城なのです。
そして板には、こう書かれていました。この城は、信長の妹お市の方が住み、その娘たちが生まれた地でもあると。
途中の望笙峠からの眺めが見事でした。琵琶湖が広がり、竹生島が浮かんでいる。そして、下に泊まった宿も見えました。ゆうべ湯に浸かっていた場所を、翌朝に城跡から見下ろしている。旅をしていると、こういう瞬間がいちばん記憶に残ります。
登っていく途中に首据石という石がありました。説明板によれば、天文二年(一五三三)、初代の亮政が六角氏との合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知って誅殺し、その首をこの石にさらしたと伝えられている、とのことです。
山道のわきに、ただの大きな石として転がっています。四百九十年前にここで何があったかを知らなければ、素通りする石です。城跡というのは、こういう「知らなければ何でもないもの」でできているのだと思いました。
本丸跡には石垣が残っていました。崩れかけてはいますが、積まれていた形はしっかり読み取れます。そして城内には浅井氏及び家臣の供養塔が建てられていました。
この城の最期の場所が赤尾屋敷です。板によれば、浅井氏の重臣・赤尾氏の屋敷跡と伝えられ、家臣の屋敷のなかでは最も本丸に近く、また浅井長政の最期の地となったと書かれています。
天正元年、織田軍に攻められた小谷城は落ちました。長政はこの場所で自刃します。妻のお市の方と三人の娘は城を出され、兄・信長のもとへ送られました。お市にとって、これが一度目の落城です。
標柱の脇には、味も素っ気もない「スズメバチ注意」の貼り紙が下がっていました。前日の佐和山にも、この小谷にも、「くま注意」の看板が立っていました。四百年前の悲劇の現場に、いまはハチと熊への注意書きがある。山城めぐりというのは、そういうものです。
一乗谷 ― 百三年つづいた谷が、雪をかぶっていた
小谷城を降りて、車は北へ向かいました。木ノ本を過ぎ、県境を越えて越前に入ります。そして着いた一乗谷で、車を降りた瞬間に息をのみました。
雪が積もっていたのです。
湖北ではただの曇り空だったのに、山をひとつ越えただけで景色が変わっていました。土塁の上にも、堀のふちにも、うっすらと白いものが乗っている。冷たい雨まじりの雪が降り続いていて、傘なしでは歩けません。越前に来たのだと、天気のほうが先に教えてくれました。
説明板に、この谷のことがまとめられていました。一乗谷は、文明三年(一四七一)から天正元年(一五七三)までの百三年間、戦国大名・朝倉氏が領国支配の拠点とした所です。周囲の山には地形をたくみに利用して山城や櫓を配置し、谷の入り口と、その一・七キロ上流の谷幅が最も狭まった所に、上下二つの城戸を設けて防御を固めていた——つまり、谷そのものが城だったということです。
そして昭和四十二年に、この二つの城戸で区切られた「城戸ノ内」と呼ばれる町の中核部を中心に、二百七十八ヘクタールという広大な地域が特別史跡に指定された。板はさらに、これまでの調査で城主の館、一族の居館、家臣団の屋敷、寺院、そして商人や職人が住んでいた町屋が、道路に沿って計画的に配置されていたことが明らかになった、と続けます。
ここで、朝の安土城を思い出しました。あの大手道の両脇にも、家臣たちの屋敷が並んでいた。信長が山の斜面に家臣を住まわせたように、朝倉氏はこの谷の一本道の両側に家臣と町人を並べていたわけです。やり方は違うのに、発想はよく似ています。
朝倉館跡 ― 将軍を迎えた館に、唐門だけが立っている
谷の中ほどに、水をたたえた堀があり、木橋が架かり、その先に唐門が一基だけ立っていました。
屋根の反りが美しく、雪をかぶって黒く濡れています。この門をくぐると——その先には、何もありません。雪の残る平らな地面が広がっているだけです。
説明板によれば、ここには朝倉氏の五代当主・朝倉義景が暮らした館がありました。四方を堀で囲み、西側の山辺を除く三方に土塁をめぐらせたつくりで、土塁の内側の平坦地には十数棟の建物が建ち並んでいたといいます。
そして、板の最後の一文で足が止まりました。
「室町幕府十五代将軍、足利義昭を迎えた際には、中庭(花壇)を取り囲む主殿や会所などの南側の一角で、儀式や宴会が行われました。」
足利義昭は、兄を殺されて流浪していた将軍家の人間です。その義昭が身を寄せ、宴が開かれたのが、この目の前の平地でした。ところが義昭は朝倉義景の腰の重さに見切りをつけ、美濃の織田信長を頼って上洛します。信長は義昭を奉じて天下へ踏み出し、やがて義昭とも決裂し、そしてこの谷を焼きました。
宴を開いてもてなした相手が、次の主を連れてくることになる。しかもその宴の場所は、いま雪の下の更地です。この日いちばん皮肉な立ち位置に、われわれは立っていました。
館跡の隅に、石組の井戸跡が残っていました。四角い石の枠が地面に埋まっていて、なかには苔と草。建物は何ひとつ残っていないのに、水を汲むための穴だけが原形をとどめているというのが、なんとも言えません。
その先には「五代 義景公墓所」の標柱が立っていました。谷を焼かれ、逃れた先で一族に裏切られて自刃した当主の墓が、自分の館の跡地の一角にあります。百三年つづいた家の、最後の当主です。
復原町並 ― 戦国の町を、そのまま歩く
この遺跡がすごいのは、町がまるごと復原されていることです。
発掘で見つかった建物の礎石と道路の跡をもとに、土塀と町屋が実際に建て直されていて、そのあいだの道を歩けます。両側は土塀。足元は当時と同じ位置の道。雪まじりの雨で路面が光っていて、両脇の石積みが濡れて黒くなっていました。
ここまでの二日間、われわれが見てきたのは「何も残っていない場所」ばかりでした。安土の空白、佐和山の草、小谷の土塁、そして北ノ庄の根石。ところがこの谷では、失われた町のほうが建て直されて、そのなかを歩ける。消された町を、消される前の姿で歩いているわけです。
雪の降る土塀の道を歩きながら、これはこの旅で唯一、「戻された」場所だな、と思いました。
そして、越前を治める拠点はこの谷から福井の平地へ移っていきます。移した人物が、柴田勝家でした。車を出して、われわれも同じ方角へ向かいました。
北ノ庄城址と柴田神社 ― お市と勝家の最期
午後、福井市の中心部に着きました。この日も小雨です。
北ノ庄城址は、驚くほど町のまんなかにあります。ビルとビルのあいだ、商店街のすぐ脇。「柴田神社」の鳥居が路地に立っていて、その奥が城跡です。ここが日本最大級の城の跡だと言われても、最初はにわかに信じられません。
説明板によれば、天正三年(一五七五)に柴田勝家が築城し、九層の天守閣を持つ日本最大級の城であったとの記録が残っているといいます。九層です。安土城の天主が五層でしたから、それを上回る規模だったことになります。
そして――天正十一年(一五八三)、賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は、自ら城に火を放ち、妻のお市とともに最期を遂げた。
秀吉の軍はここまで来たのです。賤ヶ岳から北国街道を北上して、越前の府中へ。湖北で浅井を滅ぼした男が、十年後に同じ道筋をたどって、今度は勝家を滅ぼした。
境内の一角に、石がいくつか並べて展示されていました。説明板を読んで、思わず立ち止まりました。
「ここに展示している石は、勝家築城の北庄城の石垣遺構と考えられます。発掘調査の結果からは、この石垣は本来、高く積まれていたが、江戸時代、結城秀康の福井城築城に際し取り除かれ、石垣の根石のみが残った状態であると考えられます。」
また、です。佐和山の石が彦根城に運ばれたのとまったく同じことが、ここでも起きていた。勝家が高く積んだ石垣は、徳川家康の次男・結城秀康が福井城を築くときに引き剥がされ、地面に埋まった根石だけが残った。いま目の前にあるのは、その「いちばん下の一段」です。
日本遺産の説明板のほうには、こうありました。越前支配の拠点が一乗谷から北庄・福井へ移り、笏谷石の産出地である足羽山に近くなった。そのため勝家の北庄城築城には、石垣や屋根瓦などに笏谷石が使われたと考えられている。現在の福井のまちの発展は北庄城を始まりとし、その後、福井城に受け継がれたのです。
ほぼ同じ場所に、北ノ庄城と福井城がある。これがこの土地の答えです。城は消されたけれど、町のほうは消されなかった。勝家が引いた縄張りの上に、新しい城と町がそのまま重ねられた。安土のように山ごと空白になるのではなく、上書きされて生き続けたわけです。
三姉妹の像 ― 生き残ったほうの物語
境内には三姉妹の像が立っていました。手前に三人の少女、その奥に、槍を立てて座る勝家の像が見えます。
台座の板にはこう書かれていました。天正十年(一五八二年)、三姉妹(茶々・初・江)は、母お市の方が柴田勝家に嫁ぎ、勝家の居城「北ノ庄城」に移り、この地で共にすごした。
共にすごしたのは、一年足らずです。翌年には城が焼け、母は勝家とともに死に、三人だけが城を出されました。お市にとって二度目の落城。そして三姉妹にとっては、小谷に続く二度目の落城でした。
母は死に、娘たちは生き残った。しかし、生き残ったあとの三人の道もまた平坦ではありません。長女の茶々は秀吉の側室となり、大坂城で豊臣秀頼を産み、そして大坂夏の陣で自ら命を絶ちます。三女の江は徳川秀忠の妻となり、その子が三代将軍・家光になりました。次女の初は京極高次に嫁ぎ、大坂の陣では豊臣と徳川のあいだを取り持とうと奔走しています。
豊臣家の頂点に立った姉と、徳川将軍家の母となった妹が、大坂の陣で敵味方に分かれた。同じ城で生まれ、同じ二度の落城を生き延びた姉妹が、最後は戦の両側に立つことになったわけです。
すぐそばには「北の庄城 お市の方 殉難将士 慰霊碑」と刻まれた黒い石碑が立っていました。雨に濡れて、文字だけが白く浮かんで見えました。
この旅にかぎっては、これが特別な意味を持ちました。なにしろ建物が残っている城が彦根城しかないのです。あとは石垣か、石柱か、あるいは草の生えた平地しかない。写真を撮って帰るだけでは、どうしても記憶が薄くなります。手元に紙が一枚あるかないかで、あとから思い出せる量がまるで違うということを、この二日間ではっきり実感しました。城跡めぐりをされる方には、心からおすすめします。
実際に走って感じたこと
帰りの車で考えていたことを、三つだけ書いておきます。
ひとつめ。この旅は、ひとつの手つきを四回見せられた旅でした。安土城は焼けたあと廃され、二度と城が建ちませんでした。佐和山城は破却され、その石が彦根城になりました。小谷城は廃され、城下ごと長浜へ移されました。北ノ庄城は焼け落ち、石垣を剥がされて福井城の下に埋まりました。勝った側は、負けた側の城を必ず消す。そして多くの場合、その材料を使って自分の城を建てる。四つの城跡を順に歩くと、これが慣習でも偶然でもなく、意志を持った作法なのだということが分かります。
ふたつめ。それでも、消え方には差がありました。安土は山ごと空白になり、佐和山は私有地のまま草に埋もれ、長浜は町の特権だけが残り、北ノ庄は町ごと上書きされて福井になった。まるごと消えた城と、名前を変えて生き延びた町がある。この差は、たぶんその土地に人が住み続けたかどうかで決まっています。城は消せても、町は消せない。
みっつめ。お市の方のことです。正直に言うと、行程を組んだ時点ではまったく意識していませんでした。ところが歩いてみると、一日目の朝に立った安土は兄・信長の城で、その晩に泊まった湯は彼女が浸かったと伝わる湯で、二日目の朝に登った小谷は最初の夫と暮らして落城した城、そして最後にたどりついた北ノ庄は二度目の夫と果てた城でした。われわれは知らないうちに、彼女の一生をそのままの順番でなぞっていたのです。
城の話は、たいてい男たちの話として語られます。誰が築き、誰が攻め、誰が滅ぼしたか。けれどこの二日間で通って見えたのは、その城が落ちるたびに、外へ出されて次の城へ移っていった女性と、その娘たちの線でした。北ノ庄の三姉妹の像の前に立ったとき、この旅はこの人たちの話だったのだ、とようやく腑に落ちました。
最後に、同じルートを走る方へ二つだけ。ひとつは佐和山城跡で、あれは「城跡見学」ではなく完全な登山です。往復で一時間半は見ておいてください。同行者を車で待たせることになる場合は、その点も含めて相談されることをおすすめします(われわれは一時間以上待たせてしまいました)。もうひとつは宿で、小谷城の麓に泊まると、翌朝そのまま城へ登れて、しかも城跡から自分が泊まった宿を見下ろせます。行程の組み方としては、これが一番きれいでした。
この旅の道のり
- 08:48安土城跡まっすぐな大手道と家臣屋敷の石柱。摠見寺本堂跡車で約40分
- 10:13彦根城国宝天守、天秤櫓と廊下橋。ひこにゃんにも会えた彦根城下で寿司の昼食
- 12:10佐和山城跡本丸まで片道約40分の登山。「彦根八景 武士の夢」の碑車で約20分
- 14:16長浜城秀吉が初めて持った城。旧長浜領境界碑車で約30分
- 16:43須賀谷(小谷山麓)片桐且元の里。宿の近くの頌徳碑まで徒歩2分浅井夫妻も湯治したと伝わる湯に一泊
- 09:40小谷城跡浅井三代の山城。首据石、赤尾屋敷(長政自刃の地)車で約1時間半
- 12:36一乗谷朝倉氏遺跡雪。朝倉館跡の唐門、義景公墓所、復原町並車で約30分
- 14:32北ノ庄城址・柴田神社小雨。勝家像、三姉妹像、北庄城の石垣の根石
※時刻は当日撮影した写真の記録によるものです。所要時間は目安で、季節や道路状況で変わります。
































































