【実録】戦っても、焼いても、逃げても ― 甲斐から南信濃・東美濃へ 1泊2日

苗木城 巨岩の上に組まれた天守展望台

城跡を歩くのが好きです。天守が建っていなくても、土塁の高さと堀の深さがあれば、そこに何があったかは想像できます。ところが今回、二日間で八つの城と宿場を回って、帰りの高速道路で運営者の口をついて出たのは、こんな言葉でした。

「遺構は残っていても、建物的なものがあまりないのが寂しかった」

寂しかった。そう感じたのは、たしかです。しかしこの二日間は、最後の最後で、その感想をひっくり返してきました。甲斐から南信濃、東美濃へ。武田氏が滅んだ道を、そのまま南へたどった記録です。

目次

この旅の行程

※時刻は当日撮影した写真の記録によるものです。所要時間は目安で、季節や混み具合で変わります。
時刻 スポット・行程 見どころ・メモ
09:22 新府城(山梨県韮崎市)新府城 武田勝頼が築き、八か月で自ら焼いた城。本丸に長篠戦没者の墓
トイレは本丸跡にあります。石段を登りきった先です。
↓ 車で南へ
10:39 身延山 久遠寺(山梨県身延町)身延山久遠寺 菩提梯二百八十七段。登り八分、下り十五分
↓ 車で伊那谷へ
13:49 高遠城址公園(長野県伊那市)高遠城址公園 仁科盛信が三千で五万を迎え撃った城。問屋門と太鼓櫓
↓ 車で阿智村へ
16:24 昼神温泉(長野県阿智村)昼神温泉 阿知川沿いを散策。夜は竹あかり
↓ 宿泊
06:12 昼神温泉の朝市広場昼神温泉の朝市広場 朝六時から地元の方が店を開けている
07:37 宿の朝食宿の朝食 川の音が部屋まで届く宿
↓ 車で飯田へ
09:27 飯田城跡・長姫神社(長野県飯田市)飯田城跡・長姫神社 「遺構は空堀跡、石積土塁跡、観耕亭の碑のみ」
↓ 車で松川町へ
10:09 大島城跡・台城公園(長野県松川町)大島城跡・台城公園 武田信廉が戦わずに明け渡した城。遺構は良好
↓ 車で県境を越えて中津川へ
11:33 苗木城跡(岐阜県中津川市)苗木城跡 巨岩の上の天空の城。山城ランキング第一位
12:20 中津川駅前で昼食 蕎麦
12:51 桂小五郎隠れ家址(中津川市)桂小五郎隠れ家址 長州が倒幕を決めた「中津川会談」の地
↓ 車で恵那へ
14:01 岩村城下町・岩村藩主邸跡(岐阜県恵那市)岩村城下町・岩村藩主邸跡 日本三大山城。本丸へは登れず
↓ 車で馬籠へ
15:10 馬籠宿(岐阜県中津川市)馬籠宿 中山道の宿場。江戸の建物は一軒も残っていない
16:30 ↓ 中央自動車道で都内へ

一日目 ― 甲斐

1. 新府城 ― 城主が自分で焼いた城

朝いちばんに立ったのは、韮崎の七里岩の上でした。

新府城。武田勝頼が、父・信玄の代からの躑躅ヶ崎館を捨てて築いた、新しい府中です。国道沿いに「新府城跡」の道路標識が出ていて、そこを折れると、すぐに石段と赤い鳥居が見えます。

登り口の説明板に、こうありました。

新府城は武田勝頼によって天正九年二月に築城着手され、その完成したのは同年十二月であった。(中略)天正十年三月三日、織田軍の侵攻を前に自ら城を焼いて落ちた悲劇の城跡である。

着工から完成まで十か月。そして完成から三か月で、城主が自分で焼きました。別の説明板は「築城後八ヶ月余りで廃墟と化した」と書いています。

石垣は使われていません。高さ二メートル半ほどの土塁を巡らせた平山城です。かわりに「出構」という、堀に向かって突き出した構えがあります。説明板によれば、鉄砲という新しい兵器で敵に十字砲火を浴びせるために工夫されたものだそうです。

もうひとつ、見取図の説明板に、思わず二度読んだ一行がありました。

正式には新府中韮崎城といい、(中略)部将 真田昌幸に命じて、築かせた平山城である。

この城を築いたのは、真田昌幸でした。

2. 本丸に立っていた、兄二人の名前

石段を登ると本丸です。杉木立を抜けると、ひらけた芝生に出ます。武田勝頼公霊社と、武田十四将霊碑。そして、その一角に木の標柱が何本も並んでいました。

石碑にはこうありました。「大塚 長篠役陣殁将士之墓」。長篠の戦いで討ち死にした武田の将たちの墓です。

標柱を一本ずつ読んでいきました。山県三郎兵衛昌景。内藤修理亮昌豊。原隼人佐昌胤。土屋右衛門尉昌次。甘利郷左衛門信康。横田十郎兵衛康景。高坂源五郎昌澄。

そして、この二本です。

眞田源太左衛門信綱。眞田兵部丞昌輝。

真田昌幸の、兄二人でした。長篠で二人とも討ち死にしたから、三男の昌幸が真田家を継ぎました。

その昌幸が築いた城の本丸に、兄二人の霊位が立っている。そして、その城は八か月で焼かれました。ここに立って気づいたときは、しばらく標柱の前から動けませんでした。

もうひとつ、この場所で心に残ったものがあります。武田勝頼公霊社の石祠です。説明板によれば、武田氏が滅んだあと、地元の人が旧城主である勝頼を追慕して建てたもので、江戸時代の貞享・元禄の頃と伝えられているそうです。

城は焼けました。それでも、弔いは残りました。このことは、二日間ずっと頭の片隅にありました。

御城印について。新府城の御城印は韮崎市民俗資料館で取り扱われています(韮崎市観光協会の公式サイトに明記)。頒布料は三百円でした。
実物には「続日本百名城 一二七番」「城主 武田勝頼」とあり、左下に「甲斐国 新府中韮崎舘」と刷られています。見取図の説明板にあった「正式には新府中韮崎城といい」と、ぴたりと重なります。城主の欄に一人しか書かれていないのは、一代限りの城だからです。
※韮崎市民俗資料館は入館無料、九時から十六時三十分まで(木曜は十三時開館)。月曜と木曜午前、年末年始が休館です。頒布状況は変わりますので、事前にご確認ください。

3. 久遠寺 ― 二百八十七段を、登り八分・下り十五分

身延山へ回りました。日蓮宗の総本山です。城の旅の途中ですが、ここを外すわけにはいきませんでした。

三門をくぐって杉並木の参道を歩き、南部實長公の銅像を過ぎると、正面に石段が現れます。菩提梯。二百八十七段あります。

下から見上げると、上が見えません。ほとんど壁のように立ち上がっています。

その石段の下に、こんな看板が立っていました。

御参拝御苦労様で御座居ます。
御年配の方、心臓の弱い方、体調の勝れぬ方は右手の女坂か男坂を御利用下さい。
この菩提梯は非常に急階段となっておりますので御注意願います。
    執事

これを読んだ運営者の感想は、「このような人は登らないでください、という看板だな」でした。丁寧な文面ですが、要するにそういうことです。

登りました。

写真の記録が残っています。この看板を撮ったのが十時四十三分。次に石段の上で写真を撮ったのが十時五十一分。八分かかっています。途中で足を止めた記憶はありません。ひたすら登って八分です。

登りきると、本堂と五重塔、祖師堂が並ぶ広い平地に出ます。そして——ベンチで横になっている方がいらっしゃいました。

あの看板は、脅しではありませんでした。

そして、意外だったのはここからです。

下りに、十五分かかりました。上での参拝が十時五十一分から十時五十六分。三門まで戻ってきたのが十一時十一分です。登り八分に対して、下り十五分。倍近くかかっています。

登りは、しんどいけれど前に進めばいい。下りは、一段ずつ足元を確かめないと怖いのです。「非常に急階段」という看板の文句は、下りでこそ効いてきました。

これから登られる方は、上りの所要時間だけでなく、下りに倍の時間がかかることを見込んでおいてください。膝に不安があるなら、下りだけでも女坂か男坂を使うのが賢いと思います。

門前に戻って、おやつをいただきました。歩いたあとの甘いものは、格別でした。

4. 高遠城 ― 五万に、三千

午後は伊那へ抜けて、高遠城址公園に入りました。

ここは、この旅でどうしても来たかった城です。織田軍の甲州征伐で、全滅するまで戦った城は、ここくらいしかありません。

古戦場跡の説明板が、その事情を容赦なく書いていました。

伊那口からの嫡男信忠率いる五万の兵の進攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。

「刃に血塗らずして」。伊那谷の城は、次々と戦わずに開いていったのです。

そこへ、城主・仁科五郎盛信——信玄の五男です——は、こう応えました。

降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか三千の手兵をもってこの大軍を迎え撃った。

結果は、書かれているとおりです。

盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわらず、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、三千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。

公立の観光協会が建てた説明板に、ここまで書いてあります。それだけの戦いだった、ということでしょう。

5. 天守は、はじめから無かった

ところが、本丸跡の説明板を読んで、少し呆気にとられました。

本丸には城主の権威の象徴たる天守閣はなく、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあった。(中略)廃城時、城内の建物は取り壊され、今では明治八年頃に移植された桜の古木が毎年美しい花を咲かせ、幾多の武士が眠るこの地に散華となって降り注いでいる。

天守は、はじめから無かったのです。そして残っていた建物も、廃城のときに全部壊されました。

「建物的なものがあまりない」という運営者の感想は、正しかったわけです。無いものを探していたのですから。

それでも、この城には建物が一つ建っています。問屋門です。桜雲橋を渡った正面にある、堂々とした門。

その説明板を読んで、また立ち止まりました。

この門は、高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門である。(中略)昭和二十年代、問屋役所建物取り壊しの際、他に売却されていたが、歴史ある門が高遠から失われることを惜しんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて現在地に移築したものである。

城の門ではありません。城下町の役所の門です。しかも一度は売られていたものを、町の人がお金を出し合って買い戻し、城跡まで運んできた。

説明板は、こう結んでいます。「現在では、手前の桜雲橋とともに、城跡には欠かすことができない景観シンボルとなっている」。

城が残したのではありませんでした。町の人が残したのです。

6. 太鼓は、学校のチャイムになった

本丸の西南隅に、太鼓櫓が建っています。江戸時代、城下に時を知らせていた櫓です。

廃城の際、有志によって対岸の白山に鼓楼が新設されて時を報じていたが、明治十年頃に本丸、西南隅の現在地に移し、旧制どおり朝六時から夕六時まで偶数時を打つことが昭和十八年まで続いた。戦後、太鼓は三ノ丸にあった高遠高等学校で、授業の開始、終了を知らせていたが、現在は、高遠町歴史博物館に展示されている。

城が廃されたとき、町の人は鼓楼を新しく建てて、時を打ち続けました。それが昭和十八年まで。戦後は、高校のチャイムになりました。

城の太鼓が、町の時計になって、学校のチャイムになった。いまは博物館のガラスケースの中にあります。

建物は無い。でも、音は続いていたのです。

桜雲橋の先にある白兎橋も似た話でした。文政の百姓一揆のとき自家の米蔵を開放して騒ぎを収めたという酒造家がいて、その曾孫が私有地になっていた法幢院曲輪を買い上げて公園として寄付し、そのときに架けた橋だそうです。曾祖父の俳号「白兎」から名づけられました。

7. 会津へ行った少年が、ここで育った

本丸の南に、南曲輪という一画があります。説明板を読んで、思わず声が出ました。

本丸の南に位置する曲輪で、名君保科正之公が幼少の頃、母お静の方と居住したところと言われている。

保科正之です。のちに四代将軍・家綱を支え、幕府の政治を武断から文治へ切り替えた人。そして会津松平家の祖

歴史博物館の前に、お静の顕彰碑が立っていました。そこに全部書いてありました。

お静は二代将軍・秀忠の側室でしたが、正室お江与の嫉妬を避けるため、江戸城内の比丘尼屋敷でひっそりと暮らしていました。そのお静と幼い幸松を助けたのが——

武田信玄の娘、見性院と信松院でした。

幸松は七歳で高遠城主・保科正光の養子となり、母とともに高遠へ来ます。七歳から二十六歳まで、この城で育ちました。お静は五十二歳の生涯を、この高遠で終えています。

そして正之は、のちに高遠藩の人々を伴って、最上藩から会津藩へ移っていきました。

武田を滅ぼした徳川の隠し子を、武田信玄の娘たちが守った。その子が、武田が最後に戦った城で育って、会津へ行った。

この日の朝、新府城で焼け落ちた武田の話を読んで、午後にこれを読む。旅というのは、時々こういうことが起こります。

御城印について。高遠城跡の御城印は高遠町歴史博物館(およびなつかし館)で頒布されています。頒布料は三百円でした。
実物には「登閣記念」「日本百名城」「天下第一櫻」とあり、中央に「髙遠城跡」。朱で桜と建物が刷られています。
——ただ、本丸跡の説明板には「天守閣はなく」とありました。「登閣記念」の閣は、天守閣ではありません。こういうことに気づけるのも、実物を手に取ってみてこそです。
※高遠町歴史博物館は一般四百円、高校生以下は無料。九時から十七時(最終入館十六時三十分)。月曜と祝日の翌日が休館です。駐車場は普通車三十台ほど(観桜期のみ有料)。

8. 昼神温泉 ― 湯屋守様と、六時の朝市

この日の宿は、阿智村の昼神温泉、清風苑さんでした。

湯につかって、まず思ったのは「お湯が少しぬるい」ということです。ただしこれは、まったく不満ではありません。ぬるいから、ずっと入っていられるのです。山城を二つ歩いた脚には、これがありがたい。熱い湯は気持ちがいいけれど、長くは入れません。

食事も良かったです。新鮮な食材をふんだんに使っているのが、食べていてもろにわかる。凝った演出があるわけではなく、素材が良い。そういう料理でした。宿の方も、とても丁寧で親切でした。

そして、部屋にいて気づいたことがあります。

川の音が、部屋まで聞こえてくるのです。

ざあざあという激しい音ではありません。さざ波のような、細かい水音です。宿の前を阿知川が流れていて、その音が窓越しに届いてくる。テレビを消すと、はっきり聞こえます。これが、実に心地よかった。

宿の前の川沿いは、ぜひ歩いてみてください。部屋で聞いていたあの音の出どころが、そこにあります。赤い橋が架かっていて、川風が涼しい。夕方、チェックインしてすぐに散歩に出たのは正解でした。温泉に入る前に一度、湯上がりにもう一度歩けるくらいの距離です。

ロビーに、藁で編んだ大きな飾りがありました。人の形にも見えます。何だろうと立て札を読むと——

「湯屋守様」。縁結びの女神だそうです。

散策マップを見ると、昼神温泉には「湯屋権現」という信仰があるようでした。温泉を守る神様がいて、それが縁を結ぶ神様でもある。湯の町らしい神様です。

夜になると、川べりに竹あかりが灯りました。竹に穴を開けて中から照らす、あれです。月をかたどった大きなオブジェが浮かび上がっていました。

そして翌朝、六時

宿のすぐそばに「朝市広場」があります。看板には「六時〜八時」。せっかくなので行ってみました。

朝六時から、人がいるのです。地元の方が野菜やはちみつを並べていて、宿泊客が買い物をしている。観光地の朝市というより、その日の商いが始まっている、という感じでした。

温泉宿に泊まると、朝はどうしても寝坊しがちですが、ここは六時に起きる価値があります。

二日目 ― 南信濃から東美濃へ

9. 飯田城 ― 「陰気だ」と見放された城

宿を出て、伊那谷を南へ下りました。

飯田城跡は、いまは長姫神社になっています。案内どおりに着いて、鳥居をくぐって、正直なところ少し戸惑いました。神社の境内があって、その周りに建物が建っている。城跡らしい景色が、ほとんど見当たらないのです。

説明板を読んで、理由がわかりました。

長姫神社、柳田館、日夏館の用地に当り、東西、南北共に百米土塀で囲まれて本丸御殿を中心として七棟の建家群で、四百余年に及んでいた。

百メートル四方に、七棟。四百年。それだけのものがあった場所です。では、いま何が残っているのか。同じ説明板が、あっさり書いています。

遺構は柳田館と美術館の間の空堀跡、神社裏の石積土塁跡、観耕亭の碑のみである。

「のみである」。飯田市観光協会が、自分でそう書いているのです。

ここで運営者が思ったのは、こういうことでした。

城跡に美術館が建ったり、ホテルや旅館が建ったり。普通は公園にしたりするものなのになあ。

説明板によれば、かつて山伏丸と呼ばれた内郭のあたりは旅館の敷地になっているそうです。この日の午前中に見ることになる大島城が、まるごと公園として残っているのとは、対照的でした。

10. 城主に「陰気だ」と言われた本丸

ただ、この城の説明板には、他ではあまり見ない一行がありました。

大杉が生い茂り陰気で、建物が大き過ぎ、城下町より離れ過ぎることで、堀氏中期以後は公行事以外は桜丸(今の赤門一帯)が使われたと云う。

読み返しました。これは、城主自身が本丸を使わなくなった、という話です。

焼かれたのでも、攻め落とされたのでもありません。暗い。大きすぎる。町から遠い。それで、藩主は別の曲輪へ引っ越してしまった。そのまま本丸は使われなくなり、明治を迎えて、跡地に別の建物が建った。

住んでいる人に見放されて消えた城です。この二日間で見た城の中で、これがいちばん静かな消え方でした。

11. 農民を眺めるために建てた亭の、碑だけが残った

境内に、大きな石碑が立っています。観耕亭碑。安政六年のものです。

飯田城主堀親義侯は、文武の業にはげみ、折を見ては城外に出て山水を賞することを楽としていた名君である。しかし、外出すると働いている農民の邪魔になる。そこで城中に小亭を作り、そこより城外の農民たちが農耕にいそしんでいるのを眺め楽しんだ。賢者の楽と言うべく、まさに仁政の基とすべきである

殿様が出かけると、道を空けたり頭を下げたりで、農作業が止まってしまう。だから城の中から眺めることにした。碑文は、それを「仁政の基」と讃えています。碑文を書いたのは、幕府の学問所・昌平黌の教官だった安積艮斎です。

そして——さきほどの説明板を、もう一度思い出してください。

「遺構は……観耕亭の碑のみである」。

城の建物は何ひとつ残らず、殿様が農民を眺めるために建てた亭の、その碑だけが残りました。

12. 大島城 ― 戦わずに明け渡した城

飯田から北へ戻って、松川町の台城公園へ。ここが大島城跡です。

車を降りて歩き始めて、すぐに印象が変わりました。遺構が、しっかり残っているのです。

馬出し、三の丸、二の丸、二の丸虎口、櫓台跡、堀切、本丸、木戸跡、土塁、井戸跡。標識が順に立っていて、その一つひとつが実際に地形として見てとれます。歩いているうちに、この城の規模の大きさが体でわかってきました。

説明板に、その理由が書いてありました。

元亀二年三月、信玄は来る西上戦に先立ち下伊那郡十九の郷民と二三衆を動員し、武田流築城城術の粋を投入して大島の城の大修築を行い、伊那郡防衛の一大拠点としました。今日残る縄張りはこの時の普請によるものです。

西上作戦のための、前線基地だったのです。信玄が上洛を目指す、その南信濃側の要。だから、これだけ大きい。

縄張図の説明板も詳しくて、十九項目に分けて解説してありました。そのなかで、思わず笑ってしまった一行があります。

井戸曲輪と井戸 … 城の生命線である井戸がある。井戸の位置は秘密であり、高い土塁で遮蔽されている。

水の場所は、敵に知られてはいけない。当たり前のことですが、四百五十年前の秘密が、いま説明板で公開されているのが可笑しい。

13. なぜ、戦わなかったのか

ところが、この城は戦っていません。

天正十年三月、織田信忠の軍が伊那谷に入ってきたとき、大島城の城将は武田信廉——信玄の実弟です。彼は大した抵抗もせずに城を捨て、甲斐へ退いていきました。

歩きながら、ずっと引っかかっていました。

こんな規模の大きな城では、多くの兵士がいないと支えきれないと感じました。だから、兵が足りなかったのだろうとは思います。

それでも——なぜ交戦もせずに撤退したのでしょうか。だって、あとから信長に斬られているのです。

この疑問には、あとで戻ってきます。

御城印について。ここには、ちょっとした顛末があります。

大島城の御城印は、公園のトイレに、ポケットクリアファイルのようなものに入れて無料で置いてあります。売っているのではありません。置いてあるのです。

そして、補充は不定期だそうです。この日は、ありませんでした。

自治体の公式サイトを探しても、大島城の御城印の「販売場所」は出てきません。当然です。販売していないのですから。

ただ、この話には続きがあります。公園で作業をされていた方々に事情をお話ししたところ、快く引き受けてくださって、後日郵送していただけることになりました。

城は消えました。御城印も、その日はありませんでした。それでも、人がいました。

14. 三人とも、同じ月に死んだ

ここで、この二日間で見てきた三つの城を、並べてみます。天正十年の三月。武田氏が滅んだ月です。

続柄 選んだこと 結末
仁科盛信 信玄の五男 高遠城 戦った 三千で五万を迎え撃ち、討死
武田勝頼 信玄の四男 新府城 自ら焼いて逃げた 天目山で自害(三月十一日)
武田信廉 信玄の弟 大島城 戦わずに逃げた 捕らえられ、三月二十四日に殺害

信廉は、大島城を捨てて甲斐へ帰りました。しかし織田軍の残党狩りに捕らえられ、勝頼の自刃から十三日後、甲斐府中の立石・相川左岸で殺されています。享年五十一。

戦っても、焼いても、逃げても、死にました。

叔父と、甥と、兄弟。血のつながった三人が、同じ月に、それぞれ違う選び方をして、同じ結末を迎えています。

そして、いちばん皮肉なのはここです。

いちばん逃げた信廉が、いちばん長く生きて、いちばん最後に死にました。その差は、勝頼から数えて十三日。高遠の盛信から数えれば、二十二日です。

二十二日。

それだけのために城を捨てたのか、と言うのは簡単です。でも、あのとき伊那谷の城は次々と開いていました。高遠城の説明板が書いていたとおり、「怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど」という状況です。戦わないことのほうが、普通でした。

そのなかで、高遠だけが戦った。だから、あの説明板はあれほど激しい文章なのだと思います。

15. その城を築いたのは、地元の人たちだった

大島城について、もう一つ書いておきたいことがあります。

説明板にあったとおり、この城の大修築には下伊那郡十九の郷民が動員されました。地元の農民が、自分たちの手で築いた城です。

そして天正十年、織田軍が迫ったとき、その土地の人々がどうしたか。自分の家に火をつけて織田軍のほうへ走り寄った、という記録が伝えられています。理由は、勝頼の重い税と、不公平な裁きだったと。(これは現地の説明板にある話ではなく、後世に伝わる記録によるものです。念のため申し添えます。)

もしそのとおりなら、自分たちが造らされた城を、自分たちで見捨てたことになります。

城将が戦わなかった理由を、兵の数だけで説明するのは、たぶん足りないのでしょう。

16. 苗木城 ― 圧巻でした

県境を越えて、岐阜県中津川市へ。

ここまで、消えた城ばかり見てきました。焼かれた城、壊された城、見放された城。そこへ、苗木城です。

いやあ、圧巻でした。天空の城という言葉がふさわしい。そして景観がすごい。人気のある山城の意味が、来てみて分かりました。感動しましたよ。

駐車場に「かつての苗木城」というCGの看板があって、そこに「山城ベストランキング第一位」と書いてありました。着いた時点では「ずいぶん強気な看板だな」と思ったのですが、歩き終わる頃には納得していました。

この城の何がすごいかというと、巨岩をよけずに、そのまま城にしていることです。石垣を積んで、その上に岩がのっている。岩の隙間に道が通っている。人が造ったものと、もとからそこにあったものの境目が、よく分からない。

天守跡に、木組みの展望台が建っています。その説明板を読んで、また驚きました。

現在設けられている木造構造物は、この2階部分の床面を想定し復元したもので、岩の柱穴は当時のものを利用しています。

四百年前に岩へ開けた穴に、いまの展望台の柱が立っているのです。

ここからの眺めが、本当に良い。眼下に木曽川、正面に中津川の町並みと恵那山。本丸跡の説明板によれば、標高四三二メートル、木曽川からの比高差は約百七十メートルだそうです。

17. 米で馬を洗い、午後四時で門を閉めた

苗木城は説明板が丁寧で、読んで歩くのが楽しい城でした。いくつか紹介します。

馬洗岩。天守台の南下にある、周囲四十五メートルほどの巨岩です。

かつて苗木城が敵に攻められ、水の手を切られた時に、この岩の上に馬を乗せ、米で馬を洗い水が豊富であるかのように敵を欺いたことが名前の由来となっています。

白米を水に見立てる、という話です。水がないのに、あるように見せる。城の生命線を隠すという点では、大島城の「井戸の位置は秘密」と同じことをしています。やり方は、ずいぶん違いますが。

ちなみに苗木城の千石井戸は、城内でいちばん高い場所にあるのに、どんな日照りでも枯れなかったと伝わります。千人の用を足す、という意味の名前です。

綿蔵門跡。これは実用的な意味でも面白い一枚でした。

本丸へ上る道をさえぎる形で建っていた綿蔵門は、夕方七ツ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進むことができませんでした。年貢として納められた真綿が、門の2階に保管されていたことが名前の由来となっています。

江戸時代にも、門限があったわけです。そして門の名前が「綿蔵」なのは、二階が年貢の真綿の倉庫だったから。城の門が、そのまま倉庫を兼ねている。

もう一つ、坂下門の説明板に気になる名前がありました。別名を久世門といい、三代領主の奥方の実家で、苗木城改修に力添えをした久世家の名からきていると伝えられているそうです。下総の関宿を治めた家です。この二日間、武田と織田の話ばかり読んできたところに、まったく別の土地の名前が出てきて、少し嬉しくなりました。

18. 中津川 ― 長州が倒幕を決めた町

苗木城を下りて、中津川駅前の蕎麦屋さんでお昼にしました。

食べ終わってから、近くに史跡があるのに気づきました。お店から三百メートル。歩いていきました。ものすごく暑い中を。

着いてみたら、住宅地の一角に説明板が立っているだけの場所でした。ただ、書いてある内容が、とんでもないものでした。

桂小五郎隠れ家址
このあたりに昔、料亭「やけ山」があった。
文久二年六月 長州藩士 桂小五郎(木戸孝允)は京都に向かう藩主 毛利慶親公の行列を待つ間、藩吏の目をのがれて中津川の平田門人 間秀矩や市岡殷政の好意で秘かに「やけ山」に隠れ待機した。
やがて「中津川会談」三日の結果、桂の主張によって長州藩は尊王倒幕へと決断した。明治変革の秘史と物語の場所である。

長州が倒幕を決めた場所です。

朝から武田氏の滅亡を追ってきて、昼食のあと三百メートル歩いたら、明治維新が始まった場所に立っていた。同じ谷の、同じ日のうちに。

そして、匿ったのが「平田門人」だという一行。この名前が、この日の最後にもう一度出てきます。

19. 岩村城 ― 本丸に、届かなかった

恵那市の岩村へ。日本三大山城のひとつです。

ここで、正直に書いておかなければなりません。

本丸まで、登れませんでした。

登城口の総合案内図に、距離と時間が書いてあります。本丸まで八百五十メートル、二十分。この日はすでに苗木城を歩いたあとで、時間も体力も残っていませんでした。

山麓の藩主邸跡と城下町を歩いて、引き返しました。悔しかったです。

なぜ悔しかったのか。それは、この城で何があったかを知っていたからです。

20. 一人の男の一生を、なぞっていた

岩村城には女城主がいました。おつやの方。織田信長の叔母にあたる人です。

前の城主が亡くなったあと、この城は武田方に寝返り、おつやの方は武田の武将と婚姻して城を守りました。しかし天正三年、織田信忠に攻められて開城します。城兵の助命を条件に降伏したにもかかわらず、織田勢は城兵を殺しました。そしておつやの方と夫は岐阜へ送られ、長良川の河原で逆さ磔にされています。

その夫の名前が——秋山虎繁といいます。

ここで、この二日間の道のりを振り返ってみてください。

秋山虎繁の身の上 この旅で
弘治二年 伊那郡代となり、大島城の城代を務める この日の午前に歩いた城
永禄五年 勝頼が高遠城主になったのに伴い、飯田城へ移る その少し前に立った城
元亀四年 おつやの方と婚姻し、岩村城に入る いま登れなかった城
天正三年 岩村城で降伏し、長良川で逆さ磔。享年四十九

大島城、飯田城、岩村城。

この二日間、運営者は、一人の男が生涯をかけて移っていった順路を、そのままなぞって歩いていたのです。

しかも「勝頼が高遠城主になったから虎繁は飯田へ移った」——高遠城まで、この話に噛んでいます。

そして最後の城の、その頂上に、届きませんでした。

また来ます。今度は朝いちばんに、この二十分を登るために来ます。

21. 失火で全焼した御殿と、二つ目の太鼓櫓

山麓の岩村藩主邸跡には、復元された太鼓櫓と表御門が建っています。石垣も見事です。

ただ、その説明板に、この旅で五つ目の「消え方」がありました。

明治四年、版籍奉還・廃藩置県により藩主邸は空家となったが、明治十四年十月三十日夜、失火により全焼してしまった。御邸屋は東西三十三間、南北三十六間という広大なもので、他に御内家、土蔵、番所など建物が二十三あった。

戦でも、政治でもありません。ただの火事です。約六十メートル×六十五メートルの御殿と、二十三棟の建物が、一晩で消えました。

それから、太鼓櫓の説明板がとても良かったので、引いておきます。

「時」を知らせる為の”櫓”は、庶民と殿様との深い絆を象徴する建物であり(中略)現在各地で造られている鉄筋コンクリート造りの城など偽せ物でなく、あくまで「本物の城復元」を主体に、超長期計画により城全体や城下町を復元・再現する計画である。

この日、二つ目の太鼓櫓でした。朝に高遠で、城の太鼓が町の時計になり学校のチャイムになった話を読んで、夕方に岩村で「庶民と殿様との深い絆を象徴する建物」という文章を読む。時を知らせる櫓は、どこでも同じ意味を持っていたようです。

22. 「老いて学べば則ち死して朽ちず」

歴史資料館の前に、石像と碑がありました。

佐藤一斎。この岩村の生まれで、幕府の学問所・昌平黌の儒官を務めた人です。

幕末最高の思想家佐藤一斎は「志こそが人間のレベルを決める」といい、志を養うべきことを説き、その思想を著書「言志四録」などに書き残しました。

そして、三学戒という言葉が刻まれていました。

少にして学べば則ち壮にして為すこと有り
壮にして学べば則ち老いて衰えず
老いて学べば則ち死して朽ちず

——ここで、朝のことを思い出しました。

飯田城の観耕亭碑。あの碑文を書いたのは、昌平黌の教官だった安積艮斎でした。

同じ日に、同じ谷で、昌平黌の人が関わった石碑を二つ見ていたことになります。そして数時間前には、桂小五郎が倒幕を決めた町に立っていた。

戦国の終わりを追いかけてきた旅が、いつのまにか幕末の思想の中に入り込んでいました。

御城印について。岩村城の御城印は、城下町の「町並みふれあいの館」(岩村観光案内所)で頒布されています。
※岩村歴史資料館は一般三百円・六十五歳以上二百円・高校生以下無料。四月〜十一月は九時〜十七時、十二月〜三月は九時三十分〜十六時。月曜と祝日の翌日が休館です。頒布状況は変わりますので事前にご確認ください。

23. 馬籠宿 ― 本物は、一軒もなかった

この旅の最後は、馬籠宿でした。

結論から書きます。いやあ、ロケーション最高です。雰囲気があるし、お店が両側にあるし、本当に江戸時代の宿場町みたいでした。

石畳の坂道が、尾根に沿ってまっすぐ上っています。両側に格子戸の家が並び、水車が回っていて、店先から抹茶や五平餅の匂いがする。振り返れば山が見える。ここまでの二日間で見てきたどの城よりも、「江戸時代」がそこにありました。

ところが、坂の途中の説明板を読んで、足が止まりました。

馬籠の宿場
(中略)その両側には主だった人の宿泊に備えた「本陣」「脇本陣」、旅人の宿泊する「旅籠」などが並び(中略)
明治二八年と大正四年の二度の大火で江戸時代の建物はすべて消えた。
明治四五年には国鉄中央線が全線開通することにより、宿場としての使命を終えた。
現在の町並みは昭和四〇年代になって復元されたもの。

江戸時代の建物は、一軒も残っていませんでした。

二度焼けて、全部消えて、鉄道が通って宿場の役目も終わって——そのあと、昭和四十年代に、町の人が建て直したものです。

「本当に江戸時代の宿場町みたいだった」という感想は、正確でした。「みたい」だったのです。

24. 藤村と、平田門人

坂を上っていくと、黒い門構えの立派な建物がありました。藤村記念館。島崎藤村宅、馬籠宿本陣の跡です。

島崎藤村が、ここの出身だったとは知りませんでした。『夜明け前』の作者が、この坂道の家に生まれた。

そして、家に帰ってから気づいたことがあります。

『夜明け前』の主人公・青山半蔵は、藤村の父をモデルにしています。その父・島崎正樹は、平田篤胤の国学を学んだ人でした。

——数時間前、中津川で読んだ説明板を思い出してください。桂小五郎を匿ったのは、「平田門人 間秀矩や市岡殷政」でした。

馬籠と中津川は、同じ思想の流れでつながっていたのです。そんなことは何も知らずに、同じ日に両方歩いていました。

25. 石段の猫

坂の途中の石段に、猫がいました。

いわゆる地域猫のようで、観光客みんなからかわいがられていました。通りかかる人が次々にしゃがみ込んで、写真を撮ったり、声をかけたりしている。猫のほうも慣れたもので、動じません。

運営者が近づいたら、にゃにゃ〜と鳴かれました。何かを訴えられているようでしたが、何を言いたいのかは分かりませんでした。おそらく食べ物のことだと思います。

四百年前に滅びた一族の最期を、二日間かけて追いかけてきて、いちばん最後がこれでした。

石畳を下って車に戻り、中央自動車道で都内へ帰りました。

26. 実際に歩いて感じたこと

この二日間で見た「城の消え方」を、並べてみます。

消え方
新府城 城主が自分で火を放った
高遠城 戦って全滅し、天守はもともと無く、建物は廃城時に取り壊された
大島城 戦わずに明け渡した
飯田城 城主に「陰気だ」と見放され、遺構は碑だけになった
岩村藩主邸 失火で全焼した
馬籠宿 二度の大火ですべて焼け、昭和に復元された

二日間、ひとつも「当時のまま」を見ていません。だから帰りの車で「建物的なものがあまりないのが寂しかった」と言ったのです。

でも、書き終わってみて、それは違うと思うようになりました。

思い出してみると、この旅で心に残ったものは、こういうものばかりでした。

  • 新府城の勝頼公霊社は、武田が滅んだあと、地元の人が旧城主を弔って建てた石祠でした
  • 高遠城の問屋門は、一度売られたものを町の有志が買い戻し、募金を集めて運んできた門でした
  • 高遠城の太鼓は、廃城のあと町の人が新しい鼓楼を建てて打ち続け、戦後は高校のチャイムになりました
  • 高遠城の白兎橋は、町の人が私有地を買い上げて公園として寄付したときに架けた橋でした
  • 岩村の説明板は、「鉄筋コンクリート造りの城など偽せ物でなく、あくまで本物の城復元を」と書いていました
  • 大島城の御城印は無くて、現地で働いていた方が、郵送してくださることになりました
  • そして馬籠宿は、町の人が、町ごと建て直しました

残ったのは、建物ではありませんでした。残そうとする人でした。

城は焼けます。壊されます。見放されます。火事にもなります。四百年のあいだに、建物はひととおり全部消えました。

それでも、消えるたびに、誰かが石祠を建て、門を買い戻し、太鼓を打ち、土地を寄付し、町を建て直してきました。そうやって、いまここに残っているのです。

そして最後に、その復元された石畳の上に、猫がいました。歴史でも遺構でもない、いま生きているものが、そこにいて、通りかかる人みんなに可愛がられていました。

それでいいのだと思います。

この旅の道のり

  1. 09:22新府城(韮崎市)武田勝頼が八か月で焼いた城。本丸に長篠戦没者の墓車で約1時間
  2. 10:39身延山 久遠寺(身延町)菩提梯二百八十七段。登り八分、下り十五分車で約2時間
  3. 13:49高遠城址公園(伊那市)仁科盛信が三千で五万を迎え撃った城車で約1時間30分
  4. 16:24昼神温泉(阿智村)阿知川沿いを散策。夜は竹あかり宿泊
  5. 06:12昼神温泉 朝市広場朝六時から地元の方が店を開けている宿の朝食
  6. 09:27飯田城跡・長姫神社(飯田市)「遺構は空堀跡、石積土塁跡、観耕亭の碑のみ」車で約30分
  7. 10:09大島城跡・台城公園(松川町)武田信廉が戦わずに明け渡した城車で約1時間10分
  8. 11:33苗木城跡(中津川市)巨岩の上の天空の城。山城ランキング第一位中津川で昼食
  9. 12:51桂小五郎隠れ家址(中津川市)長州が倒幕を決めた「中津川会談」の地車で約1時間
  10. 14:01岩村城下町(恵那市)日本三大山城。本丸へは登れず車で約50分
  11. 15:10馬籠宿(中津川市)江戸の建物は一軒も残っていない。昭和の復元

※時刻は当日撮影した写真の記録によるものです。所要時間は目安で、季節や混み具合で変わります。

このコースの城の御城印について

このコースに登場する新府城は、御城印の頒布情報を自治体や施設の公式サイトで確認できました。

苗木城にあるのは「お城カード」で、御城印とは別のものです(中津川市苗木遠山史料館・350円)。

頒布場所と料金は御城印はどこで買える? 公式で確認できた頒布情報まとめに一覧でまとめています。頒布場所や料金は変わることがあるので、お出かけ前に公式サイトでご確認ください。

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