【実録】那須与一が生まれた城 ― 神田城跡から那須神社、芦野城跡と平家の隠れ里・湯西川へ 車1泊2日〈前編〉

秋のはじめ、妻と二人で栃木の北部へ出かけました。車で一泊二日、那須から湯西川、そして大田原・那珂川へと下る旅です。

目当ては城跡でした。ところが結果として、この二日でたどったのはひとりの武将の一生だったように思います。

那須与一。屋島の合戦で、揺れる舟の上の扇を射落とした人です。

この旅で、与一が生まれた城を見て、与一が屋島の礼に太刀を奉納した社に参り、そして与一が射た平家が逃げ込んだ谷に泊まりました。狙って組んだ行程ではありません。帰ってきて写真を並べてから気づきました。

那須神社の楼門。国指定重要文化財
那須神社の楼門。寛永十九年、黒羽藩主の大関高増が建てたものです
目次

初日は、高速道路で潰れました

正直なところ、この旅は出だしでつまずいています。

出発が久しぶりの土曜日でした。高速道路が朝から混んでいて、思うように進みません。予定では那須町から大田原へ南下しながら何か所も回るはずだったのですが、初日に行けたのは芦野城跡ひとつだけでした。

そのまま宿へ向かうことになりました。結果として、この判断が良かったのですが——それは後で書きます。

芦野城跡 ― 三千石の家が、三百四十年いた場所

那須町の芦野は、旧奥州街道の宿場町です。まず目についたのは、道沿いに立つ古い門でした。

旧平久江家の武家屋敷門
旧平久江家の武家屋敷門。石垣と生垣に挟まれて、道端に立っています

説明板によれば、那須町指定建造物の「武家屋敷門及び構え 旧平久江家」。棟門という形式で、この地域における比較的上級の武家の門構えだそうです。

旧平久江家の武家屋敷門の説明板
説明板。枡形の構えが武家屋敷特有のものだと書かれています

平久江家は、江戸初期から芦野家の重臣と見られる家柄で、本家は、根古家の一段高い地に家屋敷を構えていた。当家は、分家筋にあたり、幕末には家老職を勤めた人物も輩出している。

家老を出した家の、その分家の門が、いまも普通の生活道路に面して立っている。城跡に行く前に、まずこれで気持ちが切り替わりました。

丘の上へ

芦野城跡は、町並みを見下ろす丘の上にあります。「芦野氏陣屋跡」というのが正式な呼び名で、御殿山とも桜ヶ城とも呼ばれるそうです。

芦野城跡の切通しと空堀
登り口の切通し。両側が高く削られていて、ここが城の入口だったと分かります

説明板が二枚ありました。那須町教育委員会のものと、縄張図のついた詳しいものです。

芦野氏陣屋跡の説明板。縄張図つき
縄張図つきの説明板。本丸・二の丸・三の丸の位置が分かります

読んでみると、この城の性格がはっきりしていました。

この城跡は、通称「御殿山」または「芦野城」とよばれ、芦野氏近世の居城(陣屋)跡である。(中略)築城の時期には二説あり、一つは天文年間(一五三二〜五五)、芦野資興の代であり、一つは天正十八年(一五九〇)の芦野盛泰の代である。城の形式から前者の説が妥当と考えられている。明治四年の廃藩置県までの約三百数十年間ここに芦野氏の居城があった。

約三百四十年、同じ家がここにいた。戦国のまんなかに城を築いて、江戸を通り抜けて、明治まで。

そして芦野氏は、大名ではありませんでした。

芦野周辺の村落及び芳賀郡内の六か村を合わせて三〇二六石を領有し無役で参勤交代する旗本(交代寄合という)として、居館を陣屋としてここを支配の拠点とした。

三千石あまりの旗本が、参勤交代をしていた。これが「交代寄合」という身分です。一万石に満たないので大名ではない。それでも江戸へ上り下りする。格式だけは大名並みで、実入りはそうではない。維持するのは大変だっただろうと思います。

芦野城跡の郭。土塁に囲まれた平地
郭のなかは草の広場です。まわりを土塁が囲んでいます

板によれば、ここには間口約二九メートル、奥行き約一一メートルの御殿が建っていました。玄関、客間、奥の間、大広間、宿直間、仲間部屋、広敷台。建物の奥には陰殿、つまりトイレもあったと書かれています。そこまで書いてくれる説明板は珍しい。

芦野城跡の土塁の上を通る細い道
土塁の上を細い道が通っています。左右がすとんと落ちています

樹齢五〇〇年の高野槙

この城跡には、もうひとつ見るべきものがあります。

天然記念物 高野槙の石碑
「天然記念物 高野槙」の碑。栃木県教育委員会が昭和二十六年に指定しています
芦野城跡の高野槙の大木
その木。幹の太さが写真では伝わりきりません

現地の表示によれば、樹齢五〇〇年、幹回り五四〇センチ、樹高二四メートル(昭和五十一年二月調査)。とちぎ名木百選にも選ばれています。

そして、詳しい説明板の最後に、こう書かれていました。

本丸東方の高野槙は築城記念のものといわれている。

ここで、数字が合います。

築城が天文年間(一五三二〜五五)だとすれば、いまからおよそ四九〇年前。そして木の樹齢が五〇〇年ほぼ一致します。

「築城記念に植えた」というのは、よくある言い伝えの形をしています。ところがこの木は、実際にその年代を生きている。伝承が、木の年輪のほうから裏づけられているわけです。説明板の二説のうち「天文年間説が妥当」とされている根拠は城の形式だそうですが、この木も、静かに同じことを言っているように思えました。

那須歴史探訪館の門
城跡のすぐ下にある那須歴史探訪館。ここで芦野城の御城印を頒けていただきました

城跡のすぐ隣に那須歴史探訪館があります。ここで芦野城の登城記念(御城印)を三〇〇円で頒けていただきました。桜と門が描かれた、気持ちのいい一枚です。

湯西川へ ― 平家の隠れ里に泊まる

芦野を出て、山を西へ越えました。この日の宿は湯西川温泉です。

湯西川は、平家の落人が隠れ住んだと伝わる谷です。日光の奥、川に沿って細く開けた土地に、宿と民家が並んでいます。

湯西川の河原と吊り橋
湯西川。夕方の光で、水の色が少し暗くなっていました

宿に着いて、看板を見て少し驚きました。

湯西川の宿の玄関。茅葺きの門と狛犬
宿の玄関。茅葺きの屋根の下に狛犬が控えています

掲げられていたのは「桓武平氏ゆかりの宿 揚羽」という看板と、「一七一八年 享保三年創業」という創業年でした。

宿の入口に掲げられた三つの天狗の面と看板
入口には天狗の面が三つ。その上に宿の名が彫られています

享保三年といえば、八代将軍吉宗の時代です。三百年以上、この谷で宿を続けている。そして紋は揚羽蝶——平家の紋です。

建物のなかも、宿というより武家屋敷のようでした。

宿のロビーに置かれた獅子の彫刻と大壺
ロビーの獅子の彫刻と大きな壺。旅館というより屋敷の座敷です
宿の部屋。壁に打掛が飾られている
部屋には打掛が飾ってありました
宿の部屋から見た山の眺め
窓の外はすぐ山です。谷が深いことがよく分かります

温いお湯と、精進料理のような膳

宿の話を、写真のないところまで書いておきます。

貸切風呂がとても良かったです。少し温めのお湯で、長く浸っていられる感じ。熱い湯に短く入るのとは、疲れの取れ方が違います。運転で固まった体には、こちらのほうがずっと効きました。

そして食事です。

年配のわたしたちには、精進料理のような献立で、かえって良かった。山菜と、油の少ない小鉢が並ぶ膳です。若い頃なら物足りなく感じたかもしれません。けれど、胃もたれしませんでした。翌朝の動きがまるで違います。

城跡を歩く旅は、翌日も朝から動くことになります。夜に食べ過ぎない宿というのは、実はかなりありがたい。この年になって、ようやくそれが分かってきました。

宿の広間で朝の休憩
翌朝。出発までの時間を広間で過ごしました

道の駅 那須与一の郷 ― 人形劇を見る

二日目です。宿を出て山を下り、ふたたび那須方面へ戻りました。

まず立ち寄ったのが道の駅「那須与一の郷」です。名前のとおり、ここは与一の里を名乗る場所で、駐車場の一角に大きな像が立っています。

道の駅 那須与一の郷に立つ那須与一の騎馬像
馬上で弓を引きしぼる与一の像。海に向かって射る、あの場面です

敷地内の那須与一伝承館で、からくり人形芝居を見ました。屋島の扇の的の場面を、人形が演じます。

これが思いのほか良かった。与一の話は誰でも知っていますが、「知っている」と「見た」は違います。舟が揺れる、風が吹く、扇が動く。あの一射がどれだけ無理な注文だったかが、人形の動きで分かります。

このあと那須神社と神田城跡へ行くことになるのですが、先にこれを見ておいて正解でした。石碑や説明板を読む前に、話の骨格が頭に入っている状態になります。

那須神社 ― 与一が太刀を奉納した社

道の駅から車で数分、田んぼの中の道を進むと、大きな鳥居が現れます。

那須神社の鳥居と参道
一の鳥居。奥に楼門が小さく見えています

那須神社。もとは金丸八幡宮と呼ばれた社です。

那須神社の説明板
大田原市の説明板。この一枚に、この社の要点がまとまっています

説明板によれば、創建は平安末期。以後、中世・近世を通じて那須氏と大関氏の氏神として祀られてきました。そして、こう書かれています。

社宝として、那須与一が屋島の戦いで扇の的を射落とすことができたのを感謝して、当社に奉納したと言われる「太刀 銘 弘綱」が伝来しています。

与一が、お礼に納めた太刀。さっき人形劇で見たばかりの、あの一射のお礼です。

境内の別の板には、もっと具体的なことが書かれていました。太々神楽の由来です。

文治元年(一一八五)那須与一宗隆が屋島の戦功により、那須の総領となるや、同三年(一一八七)土佐杉をもって社殿を再建し、社領を寄進、京都より神職小泉出雲守並びに伶人をもとめて祭祀を司らしめた。

那須神社の太々神楽と獅子舞の説明板
太々神楽と獅子舞の説明板。県指定の無形民俗文化財です

屋島の二年後に、社殿を建て直して、京都から神職と楽人を呼んでいる。扇を射落として那須の総領になった若者が、真っ先にしたのがこれでした。

芭蕉も、ここへ来ています

参道を進むと、石碑と説明板が並んでいます。

国指定名勝 おくのほそ道の風景地 八幡宮の石碑
「国指定名勝 おくのほそ道の風景地 八幡宮(那須神社境内)」の碑

この境内は、国の名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されています。芭蕉は元禄二年(一六八九)、黒羽に逗留していたときにここへ参詣しました。

そして芭蕉は、与一が扇を射る前に何を祈ったかを書き残しています。説明板の引用によれば、「別しては我が国氏神正八幡」——とりわけ我が故郷の氏神である八幡さま、と念じたというのです。

その八幡宮が、ここです。

五百年へだてて、芭蕉も同じことを思ったのだと分かると、参道の見え方が変わりました。

那須神社の参道と石灯籠、奥に楼門
参道。両側に石灯籠が並び、正面に楼門が構えています

楼門と本殿 ― 国の重要文化財

那須神社の楼門を正面から。奥に本殿が見える
楼門を正面から。くぐった先に本殿があります

本殿と楼門は国指定重要文化財です。板によれば、本殿は寛永十八年(一六四一)、楼門は同十九年、黒羽藩三代藩主の大関高増によって建てられました。

面白いのは、楼門の修理でわかったことです。

昭和五十六年(一九八一)に解体修理が行われ、部材墨書から、楼門の造営に日光の大工が関わっていたことが判明しました。

日光の大工です。寛永といえば、日光東照宮が今の姿に大造替された直後にあたります。その現場にいた職人が、この山あいの八幡宮にも手を入れていた。極彩色の彫刻を見上げると、たしかに納得のいく話でした。

芦野の石が、ここにありました

境内で、思いがけないものを見つけました。手水舟と石灯籠の説明板です。

那須神社の手水舟の説明板
手水舟の説明板。寸法と銘文まで書かれています

手水舟は寛永十九年(一六四二)、大関高増が所願成就のために奉納したもの。高さ七七センチ、幅一五七センチ、奥行九〇センチ。そして「芦野石を用いており」と明記されていました。

那須神社の石灯篭一対の説明板
石灯篭一対の説明板。こちらも高さ約二九〇センチと大きなものです

石灯籠のほうにも、「石質は芦野石と思われ」とあります。

芦野は、前日に歩いた町です。あの丘の上に三千石の旗本がいて、その足元から切り出された石が、こうして運ばれて、いまも境内に据えられている。

旅の一日目と二日目が、石でつながりました。

那須神社の甲冑(紺糸威)の説明板
甲冑の説明板。奉納されたのは明治四年です

もう一枚、心に残った板があります。紺糸威の甲冑についてのものです。黒羽城主・大関伊予守増興が着用したもので、明治四年八月、黒羽藩知事となっていた大関増勤が、氏神であるこの社に奉納したと書かれていました。

明治四年八月といえば、廃藩置県の直後です。藩がなくなり、藩主が知事になり、その知事もまもなく職を離れる。そのときに、先祖の鎧を氏神に納めている。

ここでは御朱印を三〇〇円で頂きました。「国重要文化財」の朱印が押された一枚です。

神田城跡 ― 与一が生まれた城

那須神社から那珂川町へ。旅の最後から二番目に訪ねたのが那須神田城跡です。

先に正直なことを書きます。がっかりしました。

那須神田城跡の説明板
栃木県指定史跡の説明板。数字が具体的に並んでいます

板には、こう書かれています。

南北162m 東西132m 総面積26,774㎡(中略)土塁は基底部幅10m、上部幅2m、高さ5m(中略)保存状態は極めてよく東国武士の拠点としての面影をしのぶことができる。

「保存状態は極めてよく」。この一文を読んで、期待して歩き出しました。

那須神田城跡の土塁と堀。草木に覆われている
土塁と堀。たしかに残っているのですが、草木で形が追えません

藪でした。

土塁も堀も、たしかに「ある」のです。写真の手前の高まりが土塁で、その向こうが堀。高さ五メートルと書かれた土塁の斜面も、下りてみればちゃんと落差があります。ただ、草と木に覆われていて、城の形として見えません。

那須神田城跡に残る堀の跡
堀の跡。水が溜まっているところもありました

これは季節のせいもあると思います。夏を越えたばかりの時期に来れば、どこの城跡もこうなります。冬に来れば、まったく違う場所に見えるはずです。

それでも、「国指定史跡だから整備されているだろう」と思って行くと、必ず面食らいます。ここは観光地ではありません。案内所も売店もなく、御城印もありません。石碑と説明板と、竹やぶがあるだけです。

那須神田城跡の石碑
城跡の石碑。自然石をそのまま使ったものです

それでも、ここは特別な場所でした

説明板の二行目を読んで、姿勢を正しました。

後に源平屋島の合戦で扇の的を射落とした那須与一宗隆公は、嘉応元年(一一六九)那須資隆の十一男としてこの地で生まれたと伝えられている。

ここが、与一の生まれた城です。

板によれば、那須氏の祖・須藤権守貞信が那須の守護を賜り、本拠である「那須の城」を「神田の城」と名付けたのが始まりだといいます。那須氏の最初の城、ということになります。

神田城跡の郭内に立つ赤い鳥居と小さな社
郭のなかに神田稲荷神社があります
神田稲荷神社の社殿
社殿。城跡の中心に、こうして小さな社が残っています

城の郭のなかに、いまは稲荷社が祀られています。城が終わったあと、その場所が神社になるというのは、よくある形です。誰も住まなくなっても、土地の記憶だけが別のかたちで残る。

神田城跡から見た田んぼの風景
城域から外を見ると、一面の田んぼです

土塁の外に出ると、田んぼが広がっていました。平地の城です。山に籠もる城ではなく、田を見渡す場所に構えている。八百五十年前、ここで十一番目の男の子が生まれた。

その子が、瀬戸内の海で舟の上の扇を射ることになるとは、この景色からは想像がつきません。

実際に歩いて感じたこと

帰ってきて写真を並べたとき、この二日の順番に気づきました。

与一が生まれた城(神田城跡)。与一が屋島の礼に太刀を納めた社(那須神社)。そして与一が射た平家が逃げ込んだ谷(湯西川)。

一人の武将の、生まれたところと、勝ったあとと、負けた相手のその後を、二日で全部たどっていました。

順番はばらばらです。谷に泊まったのが初日の夜で、生まれた城を見たのは二日目の午後でした。それでも三つ揃うと、話が閉じます。

そして、湯西川の宿のことを思い出しました。あの宿は「桓武平氏ゆかり」を名乗り、紋は揚羽蝶でした。射られた側の紋です。

与一の郷では、人形が扇を射る場面を演じていました。あれは「勝った話」として語られます。けれど、射られた側は山の奥へ逃げて、谷に住み着いて、三百年後に宿を始めて、いまも続けている。

どちらも残っているのが、面白いところです。那須には与一の像が立ち、湯西川には平家の宿がある。八百年たっても、両方が自分の側の話を続けている。

芦野の高野槙のことも、もう一度書いておきたいと思います。樹齢五〇〇年。築城記念に植えられたと伝わる木。石垣も御殿も残っていない城跡で、いちばん確かに「その時代から立っている」のは、あの木でした。

行くときに知っておくと役に立つこと

芦野城跡(芦野氏陣屋跡・栃木県那須町)

  • 見学は自由で、無料です。丘の上まで登りますが、道は整備されています。
  • 説明板は二枚。那須町教育委員会のものと、縄張図つきの詳しいものです。先に縄張図を見てから歩くと、土塁と堀の位置が分かって面白さが違います。
  • すぐ隣に那須歴史探訪館があります。入館料は高校生以上200円、中学生以下は無料(特別展は300円)。9時から17時、月曜休館(月曜が祝日のときは翌日)、年末年始は12月28日から1月4日まで休みです。駐車場は館前に3台、御殿山駐車場に27台
  • ここで芦野城の御城印が1枚300円。那須町の公式サイトには「芦野城・伊王野城」御城印を販売しています(限定300枚)とあり、お一人様2枚まで、なくなり次第終了と書かれています。在庫があるとは限りません。確実に欲しい方は、事前に電話(0287-74-7007)で確認されるとよいと思います。
  • 旧奥州街道の宿場町なので、町並みも歩く価値があります。旧平久江家の武家屋敷門は道沿いです。
  • 足元は土と落ち葉。雨のあとはぬかるみます。

湯西川温泉(栃木県日光市)

  • 芦野からは山越えで一時間半ほどかかります。日が暮れてからの山道は避けたいところです。
  • 平家の落人伝説の里として知られています。宿の造りや調度に、その土地柄がはっきり出ています。
  • 食事は山菜と川魚が中心の、油の少ない献立でした。量より質を求める方、胃に自信がなくなってきた方には、むしろ向いています。
  • 運営者が泊まったのは「揚羽(あげは)」という宿です。享保三年(一七一八年)の創業で、桓武平氏ゆかりを名乗っています。建物や調度に、その土地柄がはっきり出ています。
  • 貸切風呂があるかどうかは、どの宿でも確認しておくとよいと思います。温めの湯にゆっくり浸かれると、翌日の動きがまるで違います。

那須神社(栃木県大田原市南金丸)

  • 参拝は無料です。本殿と楼門は国指定重要文化財境内は国指定名勝「おくのほそ道の風景地」。この二つが揃っている神社は多くありません。
  • 御朱印は三〇〇円。「国重要文化財」の朱印が押されます。
  • 説明板が五枚以上あります。太々神楽、獅子舞、甲冑、手水舟、石灯籠。ひとつずつ読むと三十分では足りません。時間に余裕を持ってください。
  • 参道は砂利と土。楼門から先も含めて、段差はさほどありません。
  • すぐ近くに道の駅「那須与一の郷」があります。那須与一伝承館のからくり人形芝居は、神社へ行く前に見ておくと理解が深まります。

那須神田城跡(栃木県那珂川町)

  • 国指定史跡(昭和五十九年七月六日指定)。見学は自由で、無料。
  • 整備された史跡公園ではありません。説明板には「保存状態は極めてよく」とありますが、草木の季節は土塁も堀も見えにくいです。城の形を見たいならをおすすめします。
  • 御城印はありません。案内所も売店もありません。
  • 足元は土と落ち葉、竹やぶ。スニーカー以上の靴で。
  • 周囲は田んぼと民家です。路上駐車は迷惑になりますので、停める場所に気をつけてください。
※料金・時間は訪問後に変わることがあります。お出かけ前に各施設の公式サイトでご確認ください。確認日は2026年9月です。
本文中の史実は、原則として現地の説明板(那須町教育委員会/那須町/大田原市/大田原市教育委員会/栃木県教育委員会/那珂川町教育委員会)の記載によります。御城印・御朱印の価格は運営者が実際に頒けていただいたときのものです。

この旅の道のり(前編)

  1. 14:02芦野 旧平久江家 武家屋敷門(那須町)棟門形式。芦野家重臣の分家、幕末には家老職も徒歩すぐ
  2. 14:05芦野城跡(芦野氏陣屋跡)切通し・土塁・郭、樹齢五〇〇年の高野槙。隣の那須歴史探訪館で御城印車で約1時間30分
  3. 16:48湯西川温泉(日光市)平家の隠れ里。桓武平氏ゆかりの宿に一泊一泊
  4. 10:50道の駅 那須与一の郷(大田原市)与一の騎馬像、那須与一伝承館のからくり人形芝居車で数分
  5. 11:33那須神社(金丸八幡宮)与一奉納と伝わる太刀、国重文の本殿・楼門、おくのほそ道の風景地車で約30分
  6. 14:00那須神田城跡(那珂川町)那須与一の生誕地と伝わる国指定史跡。土塁と堀が残る

※時刻は当日撮影した写真の記録によるものです。実際には那須神社のあと黒羽城跡(12:02)へ寄り、そのあと神田城跡へ向かいました。この記事では与一にまつわる場所をまとめたため、黒羽は後編に回しています。移動時間は目安です。

このコースの城の御城印について

このコースに登場する芦野城は、御城印の頒布情報を那須町の公式サイトで確認できました。

「芦野城・伊王野城」の御城印は限定300枚、お一人様2枚まで、なくなり次第終了と公式に書かれています。

頒布場所と料金は御城印はどこで買える? 公式で確認できた頒布情報まとめに一覧でまとめています。頒布場所や料金は変わることがあるので、お出かけ前に公式サイトでご確認ください。

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