【実録】江戸城本丸を歩く ― 北の丸公園から富士見櫓・天守台、松の大廊下跡、二重橋・大手門まで|都内発 電車日帰り

千代田区・皇居周辺に広がる江戸城跡へ、電車での日帰り旅。北の丸公園から本丸跡へと歩き、富士見櫓・天守台・松の大廊下跡といった徳川将軍家の記憶を残す史跡を巡り、最後は大手門・二重橋まで、江戸城の広大さと歴史の重みを一日でたっぷり味わうルートを歩きました。

目次

この旅のルートとアクセス

  • 北の丸公園(田安門・蕃書調所跡・大山巌像)→ 本丸跡(富士見櫓・天守台)→ 松の大廊下跡 → 二重橋・大手門・特別史跡碑(すべて徒歩、電車日帰り)
  • 最寄り駅:北の丸公園側は東京メトロ東西線・都営三田線・新宿線「竹橋駅」、または東京メトロ半蔵門線・都営新宿線・三田線「九段下駅」。大手門・二重橋側は東京メトロ丸ノ内線・東西線・千代田線・半蔵門線、都営三田線「大手町駅」、または東京メトロ千代田線「二重橋前駅」、JR「東京駅」からも徒歩圏内。

北の丸公園 ― 田安門と蕃書調所跡、大山巌像

出発点は北の丸公園。まず出迎えてくれたのが田安門で、高麗門と櫓門からなる桝形門の構造がそのまま残っています。刻銘から1636年(寛永13年)に建てられたと考えられ、現存する江戸城の遺構としては最古級です。1961年(昭和36年)には国の重要文化財に指定されました。「田安」の名は、門内がかつて田安台と呼ばれ、そこに田安大明神(現在の築土神社)が祀られていたことに由来するそうです。江戸城の門というと大手門のような大きな枡形をイメージしていたが、田安門はこぢんまりとした佇まいで、江戸初期の姿を今に伝える貴重な建物だと感じました。

園内を進むと「蕃書調所跡」の案内板に出会います。ペリー来航後、幕府が海外の文献を翻訳し洋学を研究する必要に迫られて1856年(安政3年)に設置した機関で、後に洋書調所、開成所と改称を重ね、東京大学・東京外国語大学の源流のひとつになったそうです。案内板には勝海舟の肖像も添えられていて、幕末の江戸城周辺が単なる軍事拠点ではなく、洋学研究の最前線でもあったことがうかがえました。

旧江戸城田安門
1636年建立、現存する江戸城最古級の遺構・田安門
田安門の高麗門
高麗門と櫓門からなる桝形の構造
蕃書調所跡の案内板
東京大学の源流のひとつ、蕃書調所跡
北の丸公園の石垣
北の丸公園に残る石垣
北の丸公園の石垣(別角度)
石垣沿いの道を進む
北の丸公園の石垣
北の丸公園に残る石垣
北の丸公園内の石碑
園内に残る石碑

公園内には元帥陸軍大将・大山巌の像も建っています。薩摩藩士の家に生まれた大山は戊辰戦争、西南戦争を経て陸軍の中枢を担い、1904年(明治37年)の日露戦争では満州軍総司令官として指揮を執りました。海軍の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と称された人物で、銅像は大正8年(1919年)に建てられたと伝わる(現在地への再建は昭和39年〔1964年〕とする説もあります)。武骨な軍服姿の像を四方から眺めながら、江戸城の跡地が明治以降は近代日本陸軍の中枢とも重なっていたことを実感しました。

大山巌像
元帥陸軍大将・大山巌の像
大山巌像(別角度)
日露戦争で満州軍総司令官を務めた大山巌
大山巌像
「陸の大山、海の東郷」と称された名将
大山巌像(台座)
台座に刻まれた大山巌の功績

本丸跡 ― 富士見櫓と天守台

北の丸公園から本丸跡へ移動すると、現存する江戸城の櫓の中でも特に印象的な富士見櫓が姿を見せています。かつて江戸城には多くの櫓があったが、現存するのは富士見櫓、伏見櫓、巽櫓の3つのみ。富士見櫓は明暦の大火(1657年)で一度焼失したものの間もなく再建され、天守を失った後は「天守の代用」としても使われたそうです。どの方角から見ても美しいことから「八方正面の櫓」とも呼ばれ、将軍がここから富士山や両国の花火、品川の海を眺めたと伝わります。高さ16m、石垣の高さも約15mという規模を実際の建物で見ると、天守がなくなった後もこの櫓が江戸城のシンボルであり続けた理由がよくわかります。

富士見櫓の案内板
「八方正面の櫓」富士見櫓の案内板
富士見櫓の石標
富士見櫓の石標
富士見櫓
木々の間に見える富士見櫓
富士見櫓の案内板(別角度)
富士見櫓の案内板(別角度から)

そこから少し歩くと天守台に至ります。徳川家康の入城以来、江戸城には慶長度天守(1607年)、元和度天守(1623年)、寛永度天守(1638年)と3度天守が建てられ、最も規模の大きかった寛永度天守は地上からの高さが約58mにも達したそうです。しかしこの寛永度天守も明暦の大火(1657年)で焼失しました。幕府は万治元年(1659年)にこの天守台を築いて再建を目指したが、幕府内で「もう天守は不要」との結論が下され、結局天守は建てられないまま今に至っています。江戸時代の江戸城は、天守があった50年間の後、天守がない状態が210年間も続いたことになります。実際に石垣の上に立つと、確かにこれだけの土台があれば相当な規模の天守が建てられただろうと感じる一方、天守を持たずとも将軍の権威を保てるだけの体制が江戸中期以降には整っていたのだろうと想像しました。天守台だけでもこれほど立派なのだから、もし天守が再建されたらどれほどの迫力だろうかと、つい夢想してしまいました。

天守台の案内板
天守台の案内板。天守再建の経緯が記されている
天守台の石垣
「天守台」の石標と石垣
天守台の石垣(別角度)
天守台の石垣を見上げる

松の大廊下跡 ― 赤穂事件の舞台

本丸御殿があった一帯には「松の大廊下」と呼ばれる、襖戸に松と千鳥が描かれた長さ約55m・幅約4mの畳敷きの廊下がありました。ここは元禄14年(1701年)、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りつけた刃傷事件の現場であり、この事件がのちの赤穂浪士討ち入り、そして「仮名手本忠臣蔵」をはじめとする数多くの舞台芸術・文学・映画・テレビドラマの下敷きとなりました。今は石標と案内板が残るだけの静かな一角だが、忠臣蔵の物語を通じて名前だけは誰もが知るこの場所に実際に立つと、感慨深いものがありました。赤穂の大石神社を訪ねたこともあるが、事件が起きたまさにこの場所に立つと、物語の始まりの重みをあらためて感じます。

松之大廊下下跡の石標
「松之大廊下下跡」の石標
松の大廊下跡の案内板
赤穂事件の舞台となった松の大廊下跡の案内板

二重橋・大手門 ― 江戸城の正門から皇居へ

本丸跡を抜けて濠沿いを歩くと、皇居の象徴として知られる二重橋に出ます。もともと江戸城にあった下乗橋は深い濠を渡すため橋桁を上下二重にした木造トラス橋で、これが「二重橋」の名の由来だそうです。現在よく写真に写る花崗岩の正門石橋(1887年竣工の眼鏡橋)と、その奥の正門鉄橋(現在の橋は1964年架け替え)の二つの橋を合わせて二重橋と呼ぶのが一般的です。伏見櫓を背景に濠に映る姿は、曇り空でもやはり美しく、江戸城が皇居として今も生き続けていることを実感させてくれました。

大手門は江戸城の正門で、諸大名がここから登城しました。大小二つの門に囲まれた枡形構造で、侵入する敵の勢いを止め攻撃しやすい仕組みになっています。大きい方の門は昭和20年(1945年)4月の空襲で焼失し、昭和42年(1967年)に復元されたものです。焼失前の門の屋根に飾られていた鯱は、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火(1657年)の後、江戸城再建のために製作されたと考えられ、今も傍らに展示されています。門の規模の大きさに、ここが将軍の権威を示す正面玄関だったことを実感しました。

すぐそばには「特別史跡江戸城跡」の案内板もあります。江戸城は長禄元年(1457年)に太田道灌によって創築され、天正18年(1590年)に北条氏が滅亡したことで徳川家康が居城とし、家康・秀忠・家光の三代にわたって増設・整備が行われました。明治維新後は皇居となり、昭和24年(1949年)から西の丸下及び現在の皇居外苑の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和38年(1963年)5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定されました。その規模はわが国随一の史的価値があるとされ、政治の中心としてもきわめて大きな存在であり続けてきたことが記されていました。

二重橋
皇居の象徴・二重橋
大手門
諸大名が登城した江戸城の正門・大手門
特別史跡江戸城跡の案内板
「特別史跡江戸城跡」の案内板

実際に歩いて感じたこと

  • 電車だけで手軽に日帰りできる史跡巡り。竹橋駅・九段下駅から大手町駅・二重橋前駅まで、地下鉄の駅を起点に北の丸公園から皇居外苑まで一気に歩けるので、都内在住なら思いつきでも訪れやすい。
  • 松の大廊下跡は小さな史跡だが物語の重みが大きい。赤穂浪士討ち入りの発端となった刃傷事件の現場に立つと、忠臣蔵という物語がここから始まったのだと実感できて感慨深かった。
  • 天守台はいつか天守が再建されたらと夢想してしまう。明暦の大火後、幕府が「もう天守は不要」と判断してから210年間天守のない江戸城が続いたという史実を知ると、あの立派な石垣の上に天守が建つ姿を見てみたい気持ちが湧いてくる。
  • 御城印は当時なかったが、今は集める楽しみもありそう。訪れた時期には御城印を扱っていなかったが、最近は御城印を発行する城も増えているので、事前に確認しておくと旅の記念になりそうだ。
  • 家康が江戸を主城に選んだ理由を考えると面白い。1590年の関東移封は秀吉が家康を京・大坂から遠ざける狙いもあったとされるが、江戸は河川と江戸湾を活かした水運の要衝で、中原街道・鎌倉街道・奥州へ続く街道も通る土地だった。家康はこの立地を生かして道三堀などの基盤整備を進め、家臣団を再編する好機としたともいわれる。一見「辺鄙な土地」に映ったであろう江戸を本拠に選んだ家康の判断が、のちの世界都市・東京の礎になったことを思うと、あらためてすごいことだと感じた。

北の丸公園の田安門から本丸跡の富士見櫓・天守台、松の大廊下跡、そして二重橋・大手門まで、電車だけで日帰りで巡れる範囲に、戦国末期から幕末、明治以降の近代史までがぎゅっと詰まっていました。城跡としてだけでなく、皇居として今も生き続けている江戸城の姿を、歩いてあらためて実感できた旅でした。

この旅の道のり

  1. 北の丸公園田安門と蕃書調所跡、大山巌像徒歩約10分
  2. 本丸跡富士見櫓と天守台徒歩すぐ
  3. 松の大廊下跡赤穂事件の舞台徒歩約15分
  4. 二重橋・大手門江戸城の正門から皇居へ

※移動時間は一般的な所要時間の目安です。撮影時刻の記録が残っていないため、時刻は省いています。

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