【実録】関東平野を見ていた者たち ― 宇都宮城と児山城跡、太平山 謙信平の天狗党の碑、上杉謙信の最前線・羽生城跡

この記事は、北関東の城跡を、何度かに分けて訪ねた記録です。一日でまわったものではありません。家族六人で出かけた日もあれば、別の用事のついでに立ち寄った場所もあります。

それでも一本にまとめたのには、理由があります。写真を並べてみたら、四か所が、ひとつのことでつながっていることに気づいたからです。

関東平野を、誰が、どこから見ていたか。これが、この記事の背骨です。

水堀の水面に土塁と櫓が映る宇都宮城址公園の本丸
宇都宮城址公園。堀の水がほとんど動かないので、土塁がまるごと映っていました
目次

宇都宮城址公園 ― 建物ではなく、土と水が戻っている

宇都宮の市街地のまんなかに、その公園はあります。まわりはマンションとビルです。城跡というより街区のひとつという佇まいで、着くまでは正直なところ、あまり期待していませんでした。

車を停めて、堀のふちに立って、考えを改めました。

土塁が、思っていたより、はるかに大きいのです。

宇都宮城址公園の水堀と土塁、背後に市街地のビル
堀の右手はすぐ市街地です。土塁の緑とビルが同じ視界に入ります

高さも幅もある土の壁が、堀に沿ってぐるりと続いています。斜面はきれいに芝で覆われていて、上に白い土塀がのっている。石垣はありません。石を積まずに、土を盛って、その高さだけで守る城です。

関東の城をいくつも見てきましたが、土の城は、堀の底に近い側から見上げたときにいちばん迫力が出ます。ここもそうでした。水面のすぐそばまで下りて見上げると、土塁が視界を覆ってしまいます。

この公園でいま見えているものは、平成十九年に復元されたものです。宇都宮観光コンベンション協会の案内によれば、戊辰戦争で焼失した宇都宮城本丸の一部を復元したもので、清明台と富士見櫓の二基の櫓、土塁、堀、それに歴史資料館の清明館が整備されています。

つまり、ここにあるのは「残っていたもの」ではなく、絵図や発掘の成果をもとに、あらためて造り直されたものです。それを承知で見ても、土と水でつくられた城の姿は、じゅうぶんに伝わってきました。

清水門 ― 将軍が通った門は、地面に描かれている

堀に沿って歩いていくと、説明板が立っていました。「清水門」と書かれています。

宇都宮城址公園の清水門の説明板
清水門の説明板。この一枚が、この城の性格を教えてくれました

板には、こう書かれていました。

宇都宮城本丸正面の出入口が清水門です。日光社参の時には、将軍もこの門を通って本丸の御成御殿に向かったのです。清水門の位置・規模は、絵図などに基づいて地面にその位置・規模を表示しています。

読んで、しばらく動けませんでした。

日光社参というのは、徳川将軍が日光東照宮へ参詣する行事です。家康を神として祀った社へ、その子孫が出向いていく。徳川の権威が、いちばん目に見えるかたちをとった行事だと言っていいと思います。江戸から日光へ向かう道中、その行列が泊まる城のひとつが、この宇都宮城でした。

そして将軍は、いまわたしたちが立っているこの場所を通って、本丸の御成御殿へ入っていった。御成御殿というのは、将軍を迎えるためだけに建てられた御殿です。年に何度も使うものではありません。それでも、そのために用意されていた。

平野を南北に貫く道を、徳川はつくったわけです。江戸から日光まで、将軍の行列が通れる道を。その道の途中に、この城が置かれていました。

板にあるとおり、門そのものは建っていません。地面に、門の位置と大きさが示されているだけです。建物を復元せず、あったことだけを地面に記しておく。派手さはありませんが、かえって誠実なやり方だと感じました。

土塁の上に立つ、二基の櫓

土塁の上には、白い櫓が建っています。清明台と富士見櫓です。

宇都宮城址公園の土塁の上に続く白い土塀と復元された櫓
土塁の上を土塀が走り、その先に櫓が見えます。下から見上げる角度がいちばん城らしく感じました

土塁の上まで、坂とスロープで上がれるようになっています。階段だけでなくスロープがあるのは、祖母を連れていた身にはありがたいところでした。上まで上がると、櫓のすぐ足元まで近づけます。

間近から見た宇都宮城の復元櫓
櫓の足元まで上がれます。二層の白壁に、黒い瓦がのっています

近づいてみると、思ったより小さな建物です。天守のような見上げるほどの高さはありません。けれど、土塁の高さのぶんだけ、堀の外から見ると十分に高く見える。土の城の櫓というのは、こういう見え方をするのかと納得しました。

堀ごしに見上げた宇都宮城の土塁と櫓
堀のふちから見上げたところ。土塁の斜面がそのまま櫓の台になっています

この城には、もうひとつ有名な話があります。元和八年の、いわゆる宇都宮釣天井事件です。城主だった本多正純が、将軍を暗殺するために御殿に釣天井を仕掛けたと訴えられ、失脚した——という話で、今日では事実ではなかったと考えられています。当サイトでも下野宇都宮氏の城郭と宇都宮城をめぐる日帰りコースで扱っています。

ただ、この日は子どもたちも一緒でしたので、釣天井の話はあまり長くしませんでした。それよりも、堀のまわりを一周して、土塁を見上げて、櫓の足元に立つ。それだけで、じゅうぶんに時間が過ぎていきました。

宇都宮まで来たら、やはり餃子です

この日は、宇都宮餃子も食べました。宇都宮まで来て食べずに帰る手はありません。

お店はみんみんでした。宇都宮餃子といえば、まず名前の挙がる店です。市内にいくつも店舗がありますので、場所や営業時間、定休日は宇都宮餃子会の公式サイトなどでご確認ください。

家族六人ですから、いくつかの種類を頼んで、取り分けて食べました。焼きと水と、それぞれ味が違います。皮の食感がまったく別物だというのが、六人ぶんを並べてみるとよく分かりました。

この日いちばん可笑しかったのは、祖母です。店に入る前から「二人前は食べる」と息巻いていました。ところが、いざ運ばれてくると食べきれず、残ったぶんは孫が引き受けました。餃子は一人前でもそれなりの量があります。張り切るのは、注文してからのほうがよさそうです。

児山城跡(下野市) ― 宇都宮氏が、一族を分けて置いた城

宇都宮から南へ、姿川という川に沿って下っていくと、下野市に児山城跡があります。「こやまじょう」と読みます。

ここは、訪ねる人の少ない城跡です。観光地ではありません。畑と民家のあいだの道を進んでいくと、竹やぶの手前に石柱が立っています。

児山城跡の史跡石柱
「史跡 児山城跡」の石柱。背後はふつうの民家と納屋です

正直に言えば、最初はどこが城なのか分かりませんでした。建物はもちろん、石垣もありません。目に入るのは、落ち葉の積もった平地と、竹やぶだけです。

ところが、説明板を読んでから、もう一度まわりを見渡すと、景色が変わりました。

栃木県指定史跡 児山城跡の説明板と「児山城 山ユリの森」の幟
県指定史跡の説明板。となりの緑の幟には「児山城 山ユリの森」とあります

県の説明板には、こう書かれていました。

この城跡は、姿川東岸の台地上に、谷や丘陵をたくみに利用して築かれた平城で、本丸の堀と土塁がほぼ完全な形で残されています。土塁の四隅は他の部分に比べ、高く築かれていて櫓があったと考えられます。(中略)本城は、鎌倉時代後期(十三世紀後半)に宇都宮頼綱の四男多功宗朝が、その二男(または三男)朝定にこの地を分封し、築城したと伝えられています。

宇都宮頼綱の四男が、さらに自分の息子にこの土地を分けて、城を築かせた。つまりここは、宇都宮氏の分家の、そのまた分家の城ということになります。

午前中に見てきた宇都宮城が本家の城だとすれば、こちらはその一族が平野に打った布石です。川沿いの台地という、目立たないけれど押さえておきたい場所に、身内を置いていく。中世の武家が領地を広げていくときの、いちばん基本的なやり方だと思います。

下野市教育委員会による児山城跡の説明板と縄張図
下野市教育委員会の説明板。縄張図がついていて、堀と土塁の配置が一目で分かります

下野市教育委員会の板には、もっと具体的な数字が出ています。

児山城は姿川東岸の台地上に立地する平城です。南北約80m、東西約60mの南北に長い方形の本丸を中心に広範囲に堀や土塁が残されています。本丸の堀幅約15m、堀底から土塁上面までの最大比高が現状で約7mあります。(中略)城の範囲は南北1km、東西500mに及ぶと考えられます。

堀の幅が十五メートル、堀底から土塁の上まで七メートル。数字で書かれると、さすがに身構えます。そして実際に堀のところまで歩いてみると、そのとおりでした。

児山城跡に残る土塁と空堀
土塁と堀。右手は生活道路で、その向こうは民家です。この落差が七百年残っています

写真では分かりにくいのですが、手前の高まりが土塁で、そこから右へ落ち込んでいるのが堀です。水は入っていません。空堀です。草が生えているので緩やかに見えますが、下りてみるとしっかり深い。

感心したのは、ここが「児山城 山ユリの森」として整備されていることでした。幟には、とちぎの県民税で整備したこと、「児山城守り隊」という地元の団体が手を入れていることが書かれています。訪ねる人が少ない城跡を、それでも地元が守っている。切り株がたくさんあったのは、竹や木を間引いた跡でしょう。

そしてもうひとつ、説明板の下に「ご城印の販売」という案内が出ていました。こういう小さな城跡でも御城印が用意されているのだと知って、少し嬉しくなりました。御城印については御城印が公式で確認できた城のまとめにも整理していますので、あわせてご覧ください。

太平山 謙信平 ― 上杉謙信が、関東平野を見渡した場所

ここからは、別の日の話です。栃木市の太平山に上がりました。

太平山は、高い山ではありません。ありがたいことに、山頂近くまで車道が通じています。登山の装備はいりません。家族六人、誰も歩かずに展望のきく場所まで行けました。

着いたのは謙信平と呼ばれる一角です。名前のとおり、上杉謙信にちなんだ場所です。

太平山 謙信平の展望地。ベンチと関東平野の眺め
謙信平。ベンチが置かれ、柵の向こうに関東平野が広がります

栃木市観光協会の案内によれば、上杉謙信が太平山に登って兵馬を訓練したのち、山上から南の関東平野を見渡し、あまりの広さに目を見張ったという故事から、この地名が生まれたと伝えられています。

実際に立ってみると、その話に納得がいきます。さえぎるものが、本当に何もないのです。家並みがあって、その先も家並みで、さらにその先が霞んで見えなくなる。山らしい山が視界に入ってきません。

越後から来た人が、この眺めを見てどう思ったか。山に囲まれた土地で育った人間が、地平線まで平らな土地を初めて見たときの感覚——それを想像すると、「目を見張った」という伝わり方も、うなずける気がしました。

そして謙信は、ただ眺めていたわけではありません。この平野の中に、実際に足がかりを持っていました。その話は、最後の羽生城のところで書きます。

その展望地に、天狗党の碑が立っていました

ベンチの並ぶそのすぐわきに、大きな石碑がありました。自然石をそのまま使った、荒々しい碑です。

太平山 謙信平に立つ水戸天狗党の鎮魂碑
謙信平の茶店の南側に立つ碑。風化が進んでいますが、文字は追えます

正直に書きますと、この碑が何なのか、その場では分かりませんでした。文字は読めるのですが、「勤王」「義旗」「此地」といった語が拾えるだけで、全体の意味までは追えません。

帰ってから調べて、ようやく分かりました。水戸天狗党の鎮魂碑でした。

栃木市観光協会の案内によれば、碑文は「おもう、むかし勤王の士 義旗をこの地にあげ 方今よりて無事 石に題す」と刻まれており、明治十四年六月、秋月種樹が発起人となって建立されたものだといいます。

碑文は、はっきりと「この地に義旗をあげた」と言っています。つまりここは、天狗党にとって、ただの通り道ではなかったということです。

天狗党については、当サイトでも筑波山を訪ねた記録で書きました。元治元年、藤田東湖の四男である藤田小四郎らが筑波山で挙兵した、幕末の水戸の事件です。筑波山神社のふもとには、右腕を高く挙げた藤田小四郎の像が立っています。

その筑波山と、この太平山は、関東平野をはさんで向かい合う位置にあります。どちらも、平野のどこからでも見える山です。旗を掲げる場所として、人の目につく山が選ばれたのだとすれば、それは理屈に合っています。

そして建立は明治十四年。事が終わってから、十七年が経っています。天狗党の乱に加わった人びとの多くは、敗れ、あるいは処刑されました。すぐには碑を建てられなかったということでしょう。十七年待って、ようやく「勤王の士」と刻めるようになった。碑文の「方今よりて無事」という言い方には、そういう時間の重さがあるように思えます。

羽生城跡(埼玉県羽生市) ― 謙信の最前線は、跡形もなく消えていた

最後は、また別の日に立ち寄った場所です。埼玉県の羽生市に、羽生城跡があります。

着いてみて、少し戸惑いました。そこは神社の境内でした。赤い幟が並び、玉砂利が敷かれ、その手前に石碑が立っています。

羽生城址の石碑と城橋の親柱
「史跡 羽生城址」の碑。左手前の白い柱には「城橋」と彫られています

石碑には「史跡 羽生城址」とあります。そして手前の低い親柱には「城橋」。橋の名前です。いまは水路も橋も見当たりませんが、名前だけが残っている。

説明板を読んで、この城の重みを知りました。

羽生市教育委員会による羽生城跡などの説明板
羽生市教育委員会の説明板。三つの文化財がまとめて説明されています

羽生城跡の項には、こうあります。

羽生城は天文年間の中頃(1540年代)に古河公方(足利晴氏)の配下であった広田直繁・木戸忠朝の兄弟によって築かれました。三方を沼地で囲まれた天然の要害であり、上杉謙信の関東攻略の最前線基地でしたが、天正二年(1574)に落城し、忍城主の支配となりました。徳川家康の関東入国後は大久保忠隣の支配となりましたが、慶長十九年の忠隣の改易に伴い廃城となりました。現在名残りをとどめるものは何もなく、当地は天神廓の推定地です。

上杉謙信の、関東攻略の最前線基地。

太平山の謙信平で「謙信が関東平野を見渡した」という話を聞いてから、この板を読むと、意味が変わってきます。謙信は、あの平野を眺めていただけではありませんでした。平野のただなかに、こうして拠点を持っていた。越後から三国峠を越えて関東へ入り、そのたびにこの城に頼っていたわけです。

境内にはもう一枚、「羽生古城之図」という板がありました。

羽生古城之図の説明板。城の絵図と年表
「羽生古城之図」。左に年表、右に城の絵図があります

この板の年表が、実によく出来ています。羽生城が、どちらの側についていたかの変遷が、一行ずつ追えるのです。

  • 天文の中頃(1540年代)/広田直繁・木戸忠朝の兄弟によって築城される
  • 天文二十三年(1554)/古河公方・足利晴氏が敗れ、小田原北条氏の支配下となる
  • 永禄三年(1560)/広田直繁・木戸忠朝、上杉謙信に属す
  • 永禄四年(1561)/木戸忠朝は皿尾城(現在の行田市)へ移り、広田直繁が羽生城を守る
  • 元亀元年(1570)/広田直繁は舘林城へ移り、木戸忠朝が羽生城を守る
  • 天正二年(1574)/木戸氏は上州の膳城へ移り、羽生城は北条氏に攻められ落城。忍城の支城となる
  • 天正十八年(1590)/大久保忠隣が羽生城主となり、一万石を領す
  • 慶長十九年(1614)/忠隣が徳川家康の不興を買い、城地は没収され羽生城も廃城となる

この年表を、平野の側から読み直すと、ここが関東のどまんなかだったことがよく分かります。古河公方につき、北条につき、謙信につき、また北条に攻め落とされ、最後は徳川に取り上げられる。周りが強いので、ひとところに落ち着けないのです。

絵図のほうを見ると、城のまわりが「蓮池」「小沼」と書かれた水色で囲まれています。説明板にあった「三方を沼地で囲まれた天然の要害」というのは、こういうことでした。堀を掘ったのではなく、もともと沼だった土地を選んで城にしている。

そして、その沼も城も、いまは残っていません。「現在名残りをとどめるものは何もなく」と板に書かれているとおりです。あるのは石碑と、「城橋」という橋の名前と、この二枚の板だけでした。

実際に歩いて感じたこと

四か所、別々の日に訪ねた場所です。それでも並べてみると、ひとつの平野をめぐる話になっていました。

宇都宮氏は、平野の北に本拠を構え、一族を分けて児山城のような城を置いていきました。血のつながりで土地を押さえていくやり方です。

上杉謙信は、越後から山を越えてきて、太平山から平野を見渡しました。そして羽生城という足がかりを持っていた。よそから来て、平野のなかに楔を打ち込むやり方です。

徳川は、平野に道をつくりました。江戸から日光への社参の道です。城を攻めるのではなく、道の途中に泊まる城を用意する。四百年近くその形が続きました。

そして幕末、太平山に義旗が立ちます。徳川がつくった秩序を、終わらせようとした人たちの碑が、謙信が平野を見渡したのと同じ場所に立っている。

残り方も、ばらばらでした。宇都宮城は焼けたあとに復元され、児山城は堀と土塁が七百年ぶんそのまま残り、羽生城は何ひとつ残っていない。同じ平野の城なのに、これだけ差が出ます。

いちばん考えさせられたのは、やはり羽生城でした。「現在名残りをとどめるものは何もなく」と、市の教育委員会が自分で書いている。それでも石碑を立て、板を二枚立てて、年表まで掲げている。残っていないことを、きちんと残そうとしているわけです。

児山城で見た「児山城守り隊」の幟も、同じことだと思います。訪ねる人が多いとは言えない城跡に、地元の人が手を入れて、竹を切って、山ユリを育てている。城が残るというのは、石垣が残ることではなくて、こういうことなのかもしれません。

行くときに知っておくと役に立つこと

宇都宮城址公園(栃木県宇都宮市)

  • 入場は無料です。公園そのものは終日開いていますが、復元された建物の内部は9時から19時までです(宇都宮観光コンベンション協会)。
  • 園内の歴史資料館「清明館」も無料で、開館は9時から19時、休みは12月29日から1月3日までです(とちぎ旅ネット)。
  • 駐車場は無料ですが、台数がとても少ないです。公式の表記で9台から12台。ここは覚えておいたほうがいいところです。週末や桜の時期は、あてにしないほうが安全だと思います。市街地ですので、周囲にコインパーキングはあります。
  • トイレはあります。
  • 車なら鹿沼インターチェンジから約20分。電車なら東武宇都宮駅から徒歩約10分、JR宇都宮駅からは市内バスで約20分「宇都宮城址公園入口」下車すぐです。
  • 坂とスロープが整備されていて、土塁の上まで上がれます。足元に不安のある方を連れていても、無理なく回れました。

児山城跡(栃木県下野市)

  • 栃木県指定史跡(昭和三十六年指定)です。見学は自由で、無料。柵で囲われてはいません。
  • 観光施設ではありません。売店も案内所もなく、周囲は民家と畑です。路上駐車は迷惑になりますので、停める場所には気をつけてください。
  • 説明板は二枚あります。県の板と、下野市教育委員会の縄張図つきの板です。先に縄張図を見てから歩くと、土塁と堀の位置が分かって面白さが違います。
  • 足元は落ち葉と土です。雨のあとはぬかるみます。堀の底へ下りるなら、スニーカー以上の靴で。
  • 説明板のそばに「ご城印の販売」の案内が出ていました。ただし、下野市の公式サイトには御城印についての記載がありません(確認日 2026年9月)。ネットで調べてから行くより、現地の案内をその場で読むほうが確実だと思います。

太平山 謙信平(栃木県栃木市)

  • 見学は無料です。山頂近くまで車道が通じていて、謙信平のすぐそばまで車で行けます。登山の格好はいりません。
  • 駐車場もトイレもあります。市営の駐車場があるほか、少し離れた大曲駐車場も使えます(栃木市観光協会)。
  • 太平山神社へは、参道の石段が約1,000段あります。謙信平まで車で上がるのと、下から石段を登るのとでは、まったく別の行程になります。お子さんや年配の方と一緒なら、迷わず車で上まで。
  • 天狗党の碑は謙信平の茶店の南側に立っています。案内板が目立たないので、見落とさないようにしてください。
  • 車の場合、東北自動車道の栃木インターチェンジから約15分です。

羽生城跡(埼玉県羽生市)

  • 羽生市指定史跡(昭和四十六年指定)です。見学は自由で、無料。
  • 城の遺構は残っていません。説明板にも「現在名残りをとどめるものは何もなく」と明記されています。土塁や堀を期待して行くと、必ずがっかりします。石碑と説明板を読みに行く場所だと思ってください。
  • そのぶん、説明板の情報量は相当なものです。羽生市教育委員会の板と、年表・絵図つきの「羽生古城之図」の板。この二枚を読むだけで、関東の戦国史の縮図が頭に入ります。
  • 境内ですので、参拝の方の邪魔にならないように。石碑の撮影は、人の少ない時間帯のほうが気が楽です。
  • 同じ板に、羽生菅公廟梅樹記の碑(撰文と書は江戸時代中期の儒学者・亀田鵬斎)と、天満宮の額(書は黄檗宗の高僧・高泉性潡)の説明もあります。城跡だけのつもりで行くと、思わぬ拾い物があります。
※料金・時間は訪問後に変わることがあります。お出かけ前に各施設の公式サイトでご確認ください。確認日は2026年9月です。
出典:宇都宮観光ナビ(宇都宮観光コンベンション協会)とちぎ旅ネット栃木市観光協会「謙信平」栃木市観光協会「太平山神社」/児山城跡・羽生城跡の記述は現地の説明板(栃木県/下野市教育委員会/羽生市教育委員会)によります。

訪ねた順

  1. 宇都宮城址公園(宇都宮市)堀と土塁、清水門跡、復元された二基の櫓宇都宮餃子
  2. 児山城跡(下野市)宇都宮氏の一族・多功氏の城。堀と土塁がほぼ完全に残る
  3. 太平山 謙信平(栃木市)関東平野の眺めと、水戸天狗党の鎮魂碑
  4. 羽生城跡(埼玉県羽生市)上杉謙信の関東攻略の最前線基地。遺構は残らない

※この四か所は一日でまわったものではなく、何度かに分けて訪ねています。時刻を入れていないのはそのためです。移動の所要時間は地図でご確認ください。

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