【実録】倒れた天守、残った石垣 ― 田中城・高天神城から掛川城・浜松城、吉田城・桑名城・伊賀上野城、津城・松坂城と伊勢神宮・鳥羽城へ 都内発 車2泊3日

東名を西へ走り、二晩泊まって、十四か所をめぐってきました。駿河の田中城から始まり、遠江の小山城・高天神城・掛川城・浜松城、三河の吉田城、尾張の熱田神宮、伊勢に入って桑名城・亀山城・伊賀上野城、そして津城・松坂城・伊勢神宮・鳥羽城。最後は伊勢湾フェリーで伊良湖へ渡り、東名で帰ってきました。
走り終えてから気づいたことがあります。この三日間で見た天守は、ほとんどが建っていないのです。暴風雨で倒れた天守、地震で倒れた天守、火事で焼けた天守、間違えて壊された天守、そして最初から建てられなかった天守。それでも城跡には必ず石垣が残っていました。この記事は、その石垣を三日かけて見て歩いた記録です。写真はすべて運営者が現地で撮影したものです。

1日目|駿河から遠江へ ― 武田がつくった丸い堀を追いかける

目次

田中城 ― まちなかに残る、円い城

朝いちばんに立ったのは、藤枝市の田中城跡です。住宅地のただなかにあって、正直なところ、車を降りるまでは「本当にここが城跡なのか」と思っていました。ところが歩き出してみると、道路そのものがゆるやかに円を描いているのです。田中城は本丸を中心に堀が同心円状にめぐる、日本でも珍しい縄張りの城でした。その堀の形が、埋め立てられて宅地になったあとも、道の形として地面に焼きついている。城が消えてもまちの骨格が残る、という言い方がありますが、それを最初の一か所で実感することになりました。

そして、この城跡でいちばんの収穫は、三日月堀の説明板でした。板にはこう書かれています。諏訪原城(金谷)、小山城(吉田町)など、武田氏の築いた城郭にはみんな馬出曲輪が備えつけられていると。半円形に張り出した曲輪の前に、三日月の形をした堀を掘る。これが武田流の築城の署名のようなもので、田中城もまた、武田に攻め取られて武田の城に造り替えられた城なのだ、ということが板ひとつで分かります。

この一枚の板が、結果としてこの日の行程を決めてくれました。板に名前の挙がっている小山城は、このあと三十分ほど南に走ったところにあります。同じ手つきで掘られた堀を、続けて見に行くことになるわけです。

小山城 ― 三日月堀が、いまも三重に

小山城は、大井川の東岸にある丘の上の城です。武田が遠江へ攻め込むための拠点として整えた城で、田中城の板に書かれていたとおり、ここにも馬出と三日月堀があります。しかもこちらは、堀の形が驚くほどはっきり残っていました。土塁の内側に立って堀を見下ろすと、たしかに弧を描いている。田中城で「読んだ」ものを、小山城で「見た」わけです。この順番で回れたのは幸運でした。

丘の上には天守の形をした建物が建っていて、こちらは郷土資料館の展望台です。史実の天守を復元したものではありませんが、この建物のおかげで遠くからでも城跡の位置がすぐ分かる。城跡めぐりをしていると、こういう「目印としての模擬天守」のありがたさを感じる場面がときどきあります。

堀のそばには鉄製の篝火台が置かれ、赤い橋が架かっていました。観光地としての演出ではあるのですが、朝の光のなかで見ると、これはこれで悪くない。武田の城を二つ続けて見て、この日の背骨が決まった気がしました。

高天神城 ― 「高天神を制する者は遠江を制す」

ここが、この日いちばん体力を使った城でした。麓に立つ木の門をくぐると、目の前には刈り取りの終わった田んぼが広がり、その向こうに緑の濃い山が横たわっています。標高百三十二メートル、鶴翁山。城はその山そのものです。

搦手門跡の説明板に、有名な言葉が引かれていました。戦国時代、遠江の覇権をかけて甲斐の武田氏と三河の徳川氏が激しい争奪戦を繰り広げ、「高天神を制するものは遠江を制す」とうたわれた、と。そして城の構造についてもこう書かれています。中央の井戸曲輪を挟んで、東峰(本丸・御前曲輪・的場曲輪・三の丸)と西峰(西の丸・二の丸・堂の尾曲輪・井楼曲輪)に分かれ、それぞれが単独でも城として機能するつくりになっている。俗に「一城別郭」と呼ばれる形式です。

石段を登りはじめると、すぐに汗が噴き出しました。杉の根が石段のわきを持ち上げていて、足の置き場を選びながら登ることになります。この山を攻めるのか、と息を切らしながら思いました。そして実際、この城は攻められています。

想像図の説明板が、その経緯を年代順に書いてくれていました。高天神城は室町時代、駿河の今川氏が遠江侵攻の拠点として築いたとされます。元亀二年(一五七一)には武田信玄が徳川方となった高天神城を攻めましたが、このときは大規模な戦闘は行われませんでした。天正二年(一五七四)五月、信玄の息子の勝頼が攻め寄せ、徳川方の城主・小笠原与八郎長忠(氏助)は一か月ほどの籠城と激しい戦闘の末、開城して武田方に降っています。その後、武田方となった高天神城は徳川家康の攻撃をたびたび受けることになります。そして天正三年(一五七五)五月の長篠の戦い以降、勢力の衰えた武田氏はこの城を支えきれず、天正九年(一五八一)三月二十二日、ついに落城。城はその後すぐに廃城となり、現在に至る、と。

つまりこの山は、十年のあいだに二度、城主が入れ替わっている。しかも二度とも、力ずくで。そのあと廃城になったからこそ、近世の改修が入らないまま、土の削り方や堀切がそのまま残ったわけです。石垣の城ではありませんが、この日いちばん「戦国の城」を感じたのは高天神城でした。

昼食のこと。高天神城を降りてから掛川城へ向かう道すがら、自然薯をいただきました。とろろを麦飯にかけて食べるあれです。値段を見て一瞬手が止まりました。ひとり三千円ほど。決して安くはありません。ただ、山に自生する本物の自然薯は掘るのに手間がかかると聞きますし、粘りの強さも、口に入れたときの香りも、たしかに普段のとろろとは別物でした。城で汗をかいたあとの一膳としては、値段のことを忘れる程度にはおいしかった、と書いておきます。

掛川城 ― 倒れた天守を、平成に建て直した

掛川城は、山内一豊の城です。一豊がここに天守を建て、城下を整え、のちに土佐へ移っていきました。園内には一豊と妻・千代の像があると聞いていたのに、この日は撮り忘れてしまいました。あとになって気づいて、少しばかり悔しい思いをしています。

ただ、像を撮り損ねても掛川城は十分に語れます。というのも、この城の天守そのものが、ひとつの物語だからです。一豊が建てた天守は、安政元年(一八五四)の大地震で倒れました。以後、長らく天守台だけの城でした。それが平成六年(一九九四)に、日本で初めて本格的な木造で復元された天守として建て直されます。この日、天守のまわりにはためいていたのぼりには「開門三十周年」と染め抜かれていました。復元から三十年。つまりこの天守は、平成生まれでありながら、もう三十歳なのです。

実際に登ってみると、木造であることの意味がよく分かります。階段はきしみ、踏み板は少したわみ、上に行くほど傾斜がきつくなる。鉄筋コンクリートの復興天守にはない、体が覚える情報があります。最上階の窓は開け放たれていて、掛川の市街地の向こうまで見渡せました。この日は猛烈に暑い一日でしたが、この窓を通る風だけは涼しかった。

天守から見下ろすと、御殿のほうに工事の足場が組まれているのが見えました。掛川城御殿は現存する数少ない城郭御殿のひとつで、このときは修理の最中だったようです。天守は建て直され、御殿は直され続けている。城が生きているというのは、こういうことなのだろうと思いました。

浜松城 ― 家康が十七年を過ごした城

一日目の最後は浜松城でした。徳川家康が二十九歳から四十五歳までの十七年間を過ごした城で、のちに城主が次々と出世していったことから「出世城」と呼ばれます。公園の入口には、若き日の家康の像が立っていました。

この城で見るべきものは、はっきりしています。野面積の石垣です。加工していない自然石を、大きさも形もばらばらのまま積み上げた古い工法で、掛川城で見たきれいに整えられた石垣とは、まったく表情が違います。隙間が多く、荒く、素朴で、そのぶん力強い。天守曲輪をぐるりと囲むこの石垣が、四百年以上そのまま立っている、というのが素直にすごい。

天守門は近年に復元されたもので、石垣の上に載る門をくぐると天守曲輪に出ます。天守そのものは戦後に建てられた鉄筋コンクリートの復興天守です。ただ、この日はもう夕方に近く、西に傾いた光が石垣の凹凸を強く浮き上がらせていて、天守よりも石垣ばかり撮っていました。

一日目の宿。浜松城を出て、そのまま西へ走り、浜名湖のすぐ近くのビジネスホテルに入りました。観光旅館ではなく、あくまで移動の途中の宿です。ただ、朝いちばんに藤枝を出て、山城をひとつ登り、城を五か所まわったあとでは、シャワーを浴びて布団に入れるというだけで十分にありがたい。二日目は早い時間に出発することになるので、この日は早々に休みました。

2日目|三河から伊勢へ ― 輝政・忠勝・高虎、家康が要所に置いた男たち

吉田城 ― 大拡張の途中で、時間が止まった城

二日目は浜名湖のほとりを出て、東へ少し戻る形で豊橋へ入りました。ここで、都内ではなかなか味わえない運転をすることになります。路面電車です。豊橋鉄道の市内線が道路の真ん中を走っていて、電車が来れば当然そちらが優先、右折のタイミングも車線の取り方も、いつもの感覚では通用しません。緊張しました。同時に、これで完全に東三河に入ったのだ、という実感もありました。土地が変われば運転も変わる。車で旅をしていると、こういう形で「移動した」ことを体が知ります。

吉田城は豊橋公園のなかにあります。豊川の流れを背にして本丸を置き、二の丸・三の丸を前面と側面に配した、説明板の言葉を借りれば半輪郭式の「後ろ堅固の城」。城域は約八十四万平方メートル、二十五万五千坪余りというから、相当な規模です。

説明板には、この城の来歴が簡潔にまとめられていました。はじめは今橋城と称し、永正二年(一五〇五)に牧野古白によって築城された。東三河の要衝であったため、今川・武田・徳川といった戦国武将が攻防を繰り返した。そして天正十八年(一五九〇)、池田輝政が入封し、十五万二千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備にかかった――ここまでは、よくある名城の物語です。ところが板は、そのあとをこう続けます。

しかし輝政は在城十年で播磨姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため、輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。

これを読んだとき、少し立ち止まってしまいました。大きく広げた設計図だけが残り、それを完成させる財力を持つ者が二度と来なかった。だから四百年近く、この城は「造りかけ」のままだった。輝政が去った先の姫路には、あの白亜の大天守が建ちます。同じ人物が関わりながら、一方は日本を代表する国宝になり、一方は未完成のまま近代を迎えた。城の運命というのは、結局のところ、そこに誰がどれだけ長くいたか、ということなのだと思わされます。

本丸の隅に建つ鉄櫓は、戦後に再建されたものです。豊川の水面を背にして立つ姿はなかなか凛々しく、この城が「後ろ堅固」と呼ばれた意味が、川べりに立ってみるとよく分かりました。

熱田神宮 ― 信長が、桶狭間の前に祈った社

豊橋から名古屋へ。熱田神宮に着いたのは昼前でした。三種の神器のひとつ、草薙神剣を祀る社です。境内に一歩入ると、外の暑さがふっと遠のきます。楠の大木が空をふさいでいて、参道の砂利の上だけ、別の空気が流れているようでした。

本宮の前に立ったとき、まっさきに頭に浮かんだのは信長でした。永禄三年(一五六〇)、今川義元の大軍が尾張に攻め込んできたとき、信長は清洲を発ってまずこの熱田神宮に立ち寄り、戦勝を祈願しています。そして桶狭間で義元を討ったあと、その礼として築地塀を奉納しました。信長塀と呼ばれて、いまも境内に残っている塀です。

不思議なもので、城をいくつも見てきたあとに神社に立つと、見え方が変わります。城は「守るためにどう土を削り、石を積むか」の話ですが、神社は「勝てるかどうか分からない戦の前に、人が何にすがったか」の話です。信長という人は合理主義者として語られがちですが、その信長でさえ、出陣の前にここへ寄っている。二十七歳の、まだ何者でもなかった男が、この社殿の前でどんな顔をして手を合わせたのか。想像しはじめると、しばらく動けませんでした。

桑名城 ― 焼かれた辰巳櫓と、賊軍とされた藩

桑名に入って最初に会ったのは、本多忠勝でした。九華公園、つまり桑名城跡の一角に立つ騎馬ならぬ立像で、槍を立てて堀のほうを向いています。徳川四天王のひとり、生涯五十七度の合戦で一度も傷を負わなかったと伝えられる男。関ヶ原ののち、この桑名十万石に入って、城と城下町をまとめて造り替えました。像の前に立つと、思っていたよりずっと大きく見えます。この人がここにいた、という手応えのある像でした。

そして、この城でいちばん長く足を止めたのが、辰巳櫓跡の説明板です。書かれていたことを順に追うと、こうなります。

辰巳櫓は、本丸の東南隅にあった三重の櫓でした。桑名城にはもともと天守がありましたが、元禄十四年(一七〇一)に焼失し、以後、再建されませんでした。そのため、この辰巳櫓が桑名城のシンボルとなります。天守の代わりを百六十年以上つとめた櫓、ということです。

ところが板の文面は、そのあと一行で終わってしまいます。明治維新のとき、降伏のしるしとして新政府軍に焼き払われた。

幕末の桑名藩がどういう立場にあったかを思うと、この一行の重さが変わってきます。藩主・松平定敬は京都所司代をつとめ、その兄は会津藩主・松平容保でした。兄弟がそろって幕府の側に立ち、鳥羽伏見のあと、そろって賊軍とされた。会津が鶴ヶ城を砲撃で穴だらけにされたのに対して、桑名は城を明け渡し、そのしるしとして櫓を焼かれた。抵抗の仕方は違っても、負けた側に立たされたという一点で、この二つの藩はつながっています。

櫓跡には、いまは大砲が一門据えられています。板には「現在大砲が置かれているが由来は不詳」と、はっきり書いてありました。焼かれた櫓の跡に、どこから来たのか分からない大砲が置かれている。この、少しちぐはぐな取り合わせが、かえって幕末という時代の後味を伝えているように思えました。

堀端を歩いて、七里の渡し跡のほうへ出ると、白い二重の櫓が青空を背にして建っていました。蟠龍櫓です。現在の建物は水門の管理所を兼ねて外観復元されたもので、中身は近代の施設ですが、揖斐川からの風が抜けるこの位置に白い櫓が立っていると、東海道を船で渡ってきた人が最初に目にした桑名の姿というのは、こういうものだったのかもしれない、と思えてきます。この日は見事な入道雲が出ていて、写真としてはこの一枚がいちばん気に入っています。

堀端で一服。忠勝の像に挨拶をしてから、城跡のわきでお茶にしました。予定を詰め込んだ二日目のなかで、ここだけは何もせずに座っていた時間です。エアコンの効いた店内から堀を眺めていると、櫓を焼かれた話も、大砲の由来が分からない話も、少し遠くなる。旅というのは、こういう空白の一時間があってはじめて後から思い出せるものになるのだと思います。

亀山城 ― 間違えて壊された天守

桑名から東名阪を南西へ走り、亀山へ。ここには、この旅でいちばん「まさか」と声が出た話が待っていました。

説明板によれば、伊勢亀山城の始まりは文永二年(一二六五)、若山に築かれた城で、元亀四年(一五七三)に織田信長によって関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城でした。天正十八年(一五九〇)に岡本宗憲が入城したのち新たに築城され、本丸・二之丸・三之丸が置かれ、天守も建てられます。ここまではまっとうな城の歴史です。ところが、板は続けてこう書きます。

三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を取り壊すよう命じられた堀尾忠晴が、間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したと伝えられるが、真偽は定かでない。

同じ「亀山城」という名の城が、丹波と伊勢の両方にあった。壊せと命じられたのは丹波のほうなのに、伊勢へ来て壊してしまった――という話です。板自身が「真偽は定かでない」と断っているので、伝説として受け取るべきものではあります。それにしても、天守が消えた理由として、これほど間の抜けた、そしてどこか人間くさい話もありません。城の一生は、戦や火事や地震だけで決まるわけではないのだな、と妙に感心してしまいました。

そのあと、寛永十三年(一六三六)に本多俊次が城主となって大改修が行われ、城は東西七百メートル、南北五百メートルにまで広がります。城主は八家がめまぐるしく入れ替わりましたが、延享元年(一七四四)に石川総慶が入って以降は石川家十一代で明治維新を迎えました。別名を「粉蝶城」といいます。白壁の城を、粉をふいた蝶に見立てた名前でしょう。

明治六年の廃城令でほとんどの建物が取り壊されるなか、この城には多門櫓が残りました。もう一枚の説明板によれば、多門櫓は東西八間(十五・八メートル)、南北六間(十・九メートル)の木造平屋建・入母屋造でL字形。寛永十年(一六三三)の絵図にすでに描かれています。明治以降は旧藩士が落札して失業した士族の授産場として使われ、その後は会議室や展示室になりました。そして――本丸の石垣と多門櫓があわせて残っているのは、三重県下でここだけだそうです。

石垣のほうも面白い。本丸東南隅の現存石垣は、外側(東面・南面)が高さ十三・五メートル、内側(北面)が四メートル。野面積で、よく見ると宝篋印塔などの石造物が転用されているのが分かります。東面と南面は築城時のもの、北面は嘉永七年(一八五四)の大地震で崩れたあとに修復されたもの。石垣一枚のなかに、築城から幕末の震災までの時間が層になって入っているわけです。

城跡の一角には亀山演武場が建っていました。元治二年(一八六五)に心形刀流武芸形の道場として建てられたもので、亀山藩主・石川成之の庇護を受け、以来この地で剣道・居合道の稽古が続いているといいます。昭和六十年に火災に遭い、その後復元されました。城の建物はほとんど消えたのに、そこで行われていた稽古のほうは百六十年続いている。残るものと残らないものの分かれ目を、ここでも考えさせられました。

伊賀上野城 ― 建つことのなかった五層と、三十メートルの石垣

二日目の最後は伊賀上野城でした。そして、この城の説明板が、三日間で読んだなかでいちばん面白かった。

藩祖・藤堂高虎は、慶長十三年(一六〇八)八月、伊予国から伊賀国十万石・伊勢国のうち十万石・伊予国のうち二万石へ移されました(のち三十二万三千九百五十四石余)。高虎は徳川家康の信任が厚く、なにより築城の名手として知られた人です。彼は前の城主・筒井定次が築いた上野城の本丸を、慶長十六年(一六一一)に豊臣方に備えて西へ拡張し、高さ約三十メートルの高石垣をめぐらせました

その高石垣が、いまも残っています。堀を見下ろす位置に立って下を覗き込むと、率直に足がすくみました。柵はありますが、傾斜がほとんど垂直に近い。これを、大坂にいる豊臣方と戦うために築いた。城づくりの名人が、本気で戦を想定して積んだ石垣というのは、こういうものなのかと思います。

ところが、板の続きがまた効きます。五層の天守閣は、建設中の慶長十七年(一六一二)九月二日、当地を襲った大暴風雨のため倒壊した。

建てている最中に、風で倒れたのです。そして、その先がさらに皮肉でした。慶長十九年(一六一四)の大坂冬の陣と翌年の夏の陣で徳川方が勝ってしまう。豊臣家が滅びれば、この城が備えるべき相手はもういません。幕府は諸大名の城普請を禁じ、この城では天守閣が再建されないまま、城代家老が置かれて伊賀国の城として幕末まで存続した

備えるために積んだ石垣だけが残り、その上に載るはずだった天守は、風で倒れたきり二度と建たなかった。高石垣を見上げてから、この一節をもう一度読むと、少し胸に来るものがあります。

では、いま建っている白い天守は何かというと、これがまた良い話でした。当地出身の政治家・川崎克が、文化産業振興の城として復興を志し、熊野の山林家・奥川吉三郎らの協力を得て私財を投じて資金を調達し、昭和十年(一九三五)十月十八日に落成させたものだそうです。「伊賀文化産業城」と名付けられ、その優雅な姿から「白鳳城」とも呼ばれて親しまれている、と。藩の城ではなく、地元の人が自分の財産を出して建てた天守だということです。三百年建たなかった場所に、まったく別の動機で天守が建った。城の来歴として、これはなかなか他にない部類だと思います。

ひとつだけ心残りがあります。城内で忍者の芝居のようなものが始まりそうな気配があったのですが、この日は宿のチェックインの時刻が迫っていて、見られませんでした。伊賀まで来て忍者を見ずに帰る、というのはなかなかの間の悪さです。公園の出口に立っていた「ようこそ伊賀市へ」の看板には、忍者と芭蕉が並んで描かれていました。せめて看板だけは撮っておこう、と一枚。次に来る理由ができた、ということにしておきます。

二日目の宿。伊賀を出て、湯の山温泉へ。この日の宿は、ふもとの駐車場に車を置いてから、宿専用のケーブルカーに乗り換えて山を登った先にありました。チェックインを急いだのはこのためです。乗り物に乗らないとたどり着けない宿というのは、それだけで旅の気分を押し上げてくれます。
部屋からの眺めが、この旅でいちばんでした。山の上なので視界をさえぎるものが何もなく、暮れていく空と、下に沈んでいく町の灯りが、そのまま窓の外にありました。夕食は一品ずつ運ばれてくる会席で、前菜の皿には季節のものが少しずつ並んでいます。城を五か所まわった日の終わりとしては、これ以上ない締めくくりでした。

3日目|伊勢路を南へ ― 高虎、氏郷、そして海

津城 ― 高虎が、もう一度出てくる

三日目は津から始めました。そして城跡に入ってすぐ、思わず笑ってしまいました。藤堂高虎の騎馬像が立っていたのです。前の日の夕方に伊賀上野で「高虎の高石垣」を見上げたばかりで、翌朝またこの人に会うことになる。

考えてみれば当然のことで、高虎は伊賀と伊勢の両方を与えられた大名でした。伊賀上野城を大坂に備える最前線として固め、この津を居城として城下町ごと整えた。つまり二日目の夕方と三日目の朝は、同じ人物の仕事を、東と西から見ていたことになります。旅の途中でこういう「つながり」に気づくと、行程が急に一本の線になります。

津城跡は、堀と石垣、そして復元された丑寅の三重櫓が残るお城公園です。石垣の隅の積み方が見事で、算木積みの角がすっと立ち上がっている。伊賀上野の荒々しい高石垣とはまた違う、都市のなかの城の顔でした。堀の水面には市街地のビルが映り込んでいて、ここが県庁所在地の真ん中なのだということを思い出させます。

松坂城 ― 氏郷が築き、会津へ去った城

松坂城は、率直に言って、この旅で石垣がいちばん見事な城でした。標高三十八メートルほどの独立した丘(四五百森)の上に築かれた平山城で、丘の斜面という斜面が石垣で固められています。しかも天守付近には、築城時のものと思われる自然石を組み合わせた野面積みの石垣がよく残っていると説明板に書かれていました。浜松城で見た野面積を思い出しながら歩くと、同じ工法でもここまで規模が違うのか、と感心します。

築いたのは蒲生氏郷、天正十六年(一五八八)のことです。そして説明板の次の一行で、また前の日の記憶が呼び戻されました。

蒲生氏郷が陸奥黒川(現在の福島県会津若松市)へ移封後――

氏郷はこの城を築いてわずか三年で、会津へ移っていきます。そこで黒川を「若松」と改め、七層と伝わる天守を建て、いまの会津若松のまちの原型をつくった人物です。つまり松坂城は、会津若松のまちをつくった男の、その前の仕事ということになります。

前の日に桑名で「会津と一緒に賊軍とされた藩」の話を読み、翌日には「会津のまちをつくった男が築いた城」に立っている。三重県内を走っているだけなのに、二日続けて会津に行き当たったことになります。旅の縦糸というのは、こうして自分の意図とは関係なく現れてくるから面白い。

その後の松坂城は、天正十九年(一五九一)に服部一忠、文禄四年(一五九五)に古田重勝と城主が変わり、元和五年(一六一九)に徳川頼宣が和歌山藩主となると同時に和歌山藩領となって、以降は明治まで勢州領十八万石を統轄する城代が置かれ続けました。かつては三層の天守と、金ノ間・月見・太鼓といった櫓がそびえていたそうです。ではその天守はどうなったかというと――正保元年(一六四四)の台風で倒壊したと伝えられている

また倒れています。伊賀上野の五層天守は暴風雨で、掛川城の天守は地震で、そしてここは台風で。三日間で、風と地震に倒された天守を三つ見たことになります。天守閣跡と刻まれた石柱の前に立ちながら、この石柱が全国にいくつあるのだろう、とぼんやり考えていました。

もうひとつ、松坂といえば本居宣長です。城跡には宣長の旧宅である鈴屋が移築され、記念館も建っています。宣長は松坂の商家に生まれ、医者を営みながら三十余年をかけて「古事記伝」を書き上げた人です。城を築いた武将たちが去ったあと、このまちに残って全国に名を知られたのは、結局この学者でした。石垣と学問。松坂という土地は、この二つでできているように思います。

雨宿り。松坂城の石垣を歩いている途中で、ぱらぱらと降られました。三日間ずっと晴れていたので油断していて、傘は車のなかです。石垣の陰と木立の下でしばらくやり過ごしました。強い雨ではなく、十分ほどで上がってしまう程度のもので、そのあとに歩いた石垣は雨に濡れて色が濃くなり、かえって表情が良くなっていました。降られたことも含めて、松坂城の印象になっています。

伊勢神宮 ― 二十年に一度、建て替えられるということ

松坂から伊勢へ。三日目の午後は、伊勢神宮の内宮に参りました。

宇治橋の大鳥居をくぐると、空気が変わります。城跡ばかり歩いてきた三日間のなかで、ここだけは種類の違う場所でした。参道の砂利を踏み、五十鈴川のほとりに出ます。御手洗場の石畳から川面を見ると、水の底の石が一つひとつ見えるほど澄んでいて、対岸の杜がそのまま水に映っていました。手を浸すと、ひんやりと冷たい。

参道の高札に、この社のことが簡潔に記されていました。御祭神は天照大御神。御鎮座は垂仁天皇二十六年。約二千年前の崇神天皇の御代に皇居をお出になり、各地をめぐられたのち、この五十鈴川のほとりにお鎮まりになったと書かれています。

そして、この旅の文脈でいちばん響いたのが、そのあとの一節でした。式年遷宮は二十年に一度、神宮をお建て替えするもので、千三百年余り続けられてきた。第六十三回神宮式年遷宮は令和十五年に行われる予定です――と。

三日間、倒れた天守と焼けた櫓と、造りかけで終わった城ばかり見てきました。城というのは、建てたものをできるだけ長く保たせようとするものです。ところが伊勢は逆でした。二十年ごとに、わざわざ建て替える。壊れる前に、まだ立っているうちに、隣に同じものを新しく建てて移る。それを千三百年続けている。

保たせようとした城は消え、建て替え続けた社は残った。この対比に気づいたとき、三日間の行程がひとつの問いに収束したような気がしました。ものを後世に伝えるというのは、いったいどういうことなのか。伊賀上野で「風で倒れた天守」の話を読んだ翌日にここへ来たのは、偶然ですが、この上ない順番だったと思います。

正宮へ続く石段の下まで来て、そこから上は撮影を控えました。石段の上には白い御幌がかかっていて、風が吹くとゆっくり持ち上がります。写真を撮るより、立って見ているほうがふさわしい場所でした。

御朱印と、参道の食べ歩き。この旅では熱田神宮と伊勢神宮の二社で御朱印をいただきました。どちらも社号と日付だけの、驚くほど簡素なものです。飾りのない墨字を見ていると、かえって背筋が伸びる思いがしました。
昼食は、松坂を出てから伊勢の参道での食べ歩きにしました。腰を落ち着けて一食とるのではなく、歩きながら少しずつ買って口に入れていく形です。三日目ともなると胃のほうも疲れてきますから、この日はこれくらいがちょうどよかった。石畳の両側に店が並ぶ通りは、平日でもかなりの人出でした。

鳥羽城 ― 海に大手門を開いた城と、九鬼嘉隆の最期

三日目の午後遅く、この旅の最後の城跡に着きました。鳥羽城です。

この城の特徴は、説明板の一行に尽きます。大手門(水門)が海側に開かれ、四方を海で囲まれた、全国的にも珍しい特徴をもつ海城。城の正面が、陸ではなく海を向いている。船で乗りつけて、そのまま城に入る。これまで見てきた「土を削り、石を積んで、街道を押さえる城」とは、発想からして別ものです。

築いたのは九鬼嘉隆、文禄三年(一五九四)のこと。九鬼氏は南北朝の動乱以降、志摩地方に勢力を伸ばした一族で、嘉隆は織田信長のもとで力をつけました。板に大きく書かれていたのが、あの戦いです。天正六年の第二次木津川口の戦いで、当時としては異例の大型の鉄甲船を六隻建造し、毛利水軍を破った。石山本願寺への補給路を断つために、信長が嘉隆に造らせた鉄張りの巨船。教科書で名前だけ知っていた船の、造り手の城にいま立っているわけです。

ところが、この人の最期がまた重い。板はこう続けます。嘉隆は家督を子の守隆に譲って隠居しますが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いでは、父の嘉隆が西軍、子の守隆が東軍という形で分かれました。西軍が敗れたあと、嘉隆は答志島へ逃れます。守隆は決死の思いで父の助命を願い出て、それは聞き届けられました。しかし――許されたことを知らないまま、嘉隆は洞泉庵で切腹した

助命の知らせが、間に合わなかった。答志島にはいまも首塚と胴塚が残るそうです。この板の前で、しばらく動けませんでした。父子が敵味方に分かれるという話は戦国には珍しくありませんが、子が命がけで勝ち取った赦免が、届く前に父が死んでいた、というのは救いがなさすぎます。

城のその後についても板がありました。九鬼氏が国替えで鳥羽を去ったあと、寛永十年(一六三三)に内藤忠重が入って二ノ丸・三ノ丸を増設し、近世城郭としての体裁が整います。天守については、延宝八年に作られた鳥羽城の財産目録に「一、天守 三重 内壱重、五間に六間」とあり、三階建てだったことが分かる、と。屋根の構造から「望楼型」と呼ばれる古い型式であったと推定されている、とも書かれていました。目録という事務書類から天守の姿を割り出す、という仕事の手つきに感心します。

いま、その天守跡は草の生えた平地です。三ノ丸跡は長いあいだ小学校の運動場でした。それでも斜面を段々に固めた石垣は堂々と残っていて、曇り空の下で見ると、かえって重量感がありました。三日目のこの時間、空はすっかり鉛色で、海のほうから湿った風が吹いていました。

伊勢湾フェリーで、伊良湖へ

鳥羽から車ごとフェリーに乗り、伊勢湾を渡って伊良湖へ。所要は一時間ほどです。

車を降りて客室に上がり、窓の外を見ると、三日間走ってきた陸地がゆっくり遠ざかっていきました。この旅はずっと運転していた旅です。東名を西へ、遠江の山城へ登り、路面電車のわきを抜け、東名阪を南下し、ケーブルカーで宿へ上がった。それが最後の一時間だけ、自分では何もしなくていい時間になる。ハンドルから手が離れて、船が勝手に運んでくれる。この解放感は、フェリーでなければ得られないものでした。

そして、海の上でようやく気づいたことがあります。九鬼嘉隆が城の正面を海に開いたのは、彼にとっての「道」がここだったからです。陸の城ばかり見てきた三日間の最後に、その海を自分も船で渡っている。行程の組み方としては、これ以上ない終わり方でした。

伊良湖に着いてからは、渥美半島を北へ抜けて東名に乗り、あとはひたすら東へ。日が落ちてからの高速は、行きとは違って静かなものでした。

御城印のこと。この旅では、訪ねた城のほとんどで御城印をいただきました。御朱印の城版で、城の名と家紋、城主の紋などが刷られた一枚です。近年になって各地で頒布されるようになったもので、歴史的な由緒があるわけではありません。ただ、こうして三日間で十以上の城を続けて回ったあとに並べてみると、これが思いのほか効きます。田中城の三日月堀、吉田城の未完成、桑名城の焼かれた櫓、伊賀上野城の建たなかった天守――ひとつずつは別々の話だったものが、一枚ずつの紙になって手元に集まると、たしかに自分がこの順番で歩いたのだという証拠になる。城跡というのは、行ってもモノが手に入らない場所です。だからこそ、持ち帰れる一枚の意味があるのだと思いました。

実際に走って感じたこと

三日間、十四か所。走行距離は相当なものになりました。帰ってから写真を並べ直して、はじめて気づいたことを三つだけ書いておきます。

ひとつめ。この旅で見た天守は、ほとんど「無い」ものでした。掛川城の天守は安政の地震で倒れ、桑名城の天守は元禄の火事で焼け、松坂城の天守は正保の台風で倒れ、亀山城の天守は(伝説によれば)間違えて壊され、伊賀上野城の天守は建設中に暴風雨で倒れて二度と建たなかった。鳥羽城の天守も、いまは草の生えた平地です。壮麗な天守を見に行く旅というのは世の中にたくさんありますが、この三日間はその逆で、天守が消えた理由を十四通り集めて歩いた旅だったのだと思います。

ふたつめ。それでも石垣は、どこにも残っていました。浜松城の荒々しい野面積、亀山城の宝篋印塔を巻き込んだ石垣、伊賀上野城の三十メートルの高石垣、松坂城の丘をまるごと包む石垣、鳥羽城の段々。建物は焼けても、倒れても、壊されても、地面に据えた石だけは動かない。城めぐりを始めた頃は天守ばかり見ていましたが、この旅の途中から、明らかに石垣ばかり撮るようになっていました。

みっつめ。行程は、走っているうちに勝手につながっていきました。一日目は田中城の説明板が小山城を教えてくれて、武田の三日月堀という縦糸ができました。二日目は吉田城の池田輝政、桑名城の本多忠勝、伊賀上野城の藤堂高虎と、家康が東海道と伊勢街道の要所に置いた男たちの城が並びました。三日目は津でその高虎にもう一度会い、松坂で会津へ去った蒲生氏郷に出会い、桑名で読んだ「会津と同じ賊軍」の話と思いがけずつながりました。そして最後に伊勢神宮で、二十年ごとに建て替えることで千三百年伝えてきたものを見た。保たせようとしたものは消え、建て替え続けたものが残っている。これが、この三日間の答えのようなものでした。

もし同じルートを走る方がいれば、二点だけお伝えしておきます。ひとつは高天神城の山登りで、真夏は本当にこたえます。飲み物は多めに、靴はしっかりしたものを。もうひとつは時間配分で、一日に城を五か所は正直やりすぎでした。伊賀上野城で忍者の芝居を見られなかったのも、掛川城で一豊と千代の像を撮り忘れたのも、結局は急いでいたからです。次に走るときは、一日四か所にしようと思います。

この旅の道のり

  1. 10:14田中城跡(藤枝)大手二之門跡、復元木橋、三日月堀。武田の丸馬出が残る車で約30分
  2. 11:16小山城跡(吉田町)三日月堀が明瞭に残る。丘の上に模擬天守車で約1時間
  3. 12:25高天神城跡(掛川)標高132mの山城。搦手から本丸へ登る。一城別郭自然薯の昼食(ひとり3,000円ほど)
  4. 14:08掛川城日本初の本格木造復元天守。開門三十周年車で約40分
  5. 15:46浜松城家康の出世城。荒々しい野面積の石垣浜名湖畔のビジネスホテルに一泊
  6. 09:04吉田城(豊橋)豊川を背にした後ろ堅固の城。市内は路面電車が走る車で約1時間半
  7. 11:11熱田神宮信長が桶狭間の前に祈願した社。御朱印あり車で約40分
  8. 11:59桑名城跡(九華公園)本多忠勝像。維新で焼かれた辰巳櫓跡。堀端でお茶車で約40分
  9. 14:04亀山城跡県下で唯一、本丸の石垣と多門櫓が揃って残る車で約1時間
  10. 15:27伊賀上野城高さ約30mの高石垣。忍者の芝居には間に合わず宿専用のケーブルカーで山上へ/湯の山温泉に一泊
  11. 09:59津城跡藤堂高虎の騎馬像と丑寅三重櫓車で約40分
  12. 11:18松坂城跡蒲生氏郷が築いた石垣の城。本居宣長の鈴屋。雨宿り伊勢の参道で食べ歩き
  13. 13:25伊勢神宮 内宮宇治橋の大鳥居、五十鈴川、正宮。御朱印あり車で約40分
  14. 15:37鳥羽城跡九鬼嘉隆の海城。大手門が海に開く伊勢湾フェリーで約1時間
  15. 17:08伊良湖へ渡る渥美半島を北へ抜けて東名で帰路

※時刻は当日撮影した写真の記録によるものです。所要時間は目安で、季節や道路状況で変わります。

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