【実録】城は消え、町は残った ― 正月の雨引観音から、真壁城跡と重伝建の町並みへ 都内発 車日帰り

正月の松がとれる前に、妻と、母と伯母を連れて茨城県桜川市へ行ってきました。四人での車の日帰りです。午前は雨引山の観音さまへ初詣、午後は真壁の城跡と町並みを歩くという、車での日帰りです。
この旅には、ほかの記録とちがう事情があります。午後にたずねた真壁城の重臣・市塚家が、筆者の母方の先祖にあたるのです。つまりこれは、城跡めぐりであると同時に、母にとっては先祖の土地を歩く一日でもありました。
そして歩きながら、この土地の答えのようなものが見えてきました。城は消えたのに、家臣の家と町は残っている。その理由が、歩いてみるとよく分かりました。写真はすべて運営者が現地で撮影したものです。

午前|雨引山 ― 正月の観音さまへ

目次

雨引観音 ― 石段を登った先の初詣

朝いちばんに向かったのは、雨引山の中腹にある観音さまでした。正式には楽法寺といい、坂東三十三観音の第二十四番札所です。ただ、地元でも参拝者のあいだでも、まず「雨引観音」と呼ばれます。

正月の四日、境内はまだすっかり松の内でした。しめ縄が渡され、門松が立ち、朱塗りの仁王門の両脇には和傘が開いて置かれています。石段には、こちらと同じように初詣に来た人が絶えず登り降りしていました。

この寺の参道は、けっこうな石段です。踏み面がすり減って丸くなっていて、足を置くとわずかに滑る。何百年ぶんの足が、石を削ったということです。母も伯母も手すりにつかまりながら、一段ずつ登っていきました。妻がうしろから二人の様子を見ながらついていきます。

登る途中で目を奪われたのが、石垣でした。参道の脇に、切石を積み上げた高い石垣があって、その上に建物が載っている。写真だけ見せられたら、寺だとは思わないかもしれません。城の石垣そのものです。山の斜面に堂宇を建てるために、これだけの土木をやったということでしょう。

鐘楼堂も立派でした。二層になった屋根を、下から見上げると、垂木と組物が幾重にも重なって奥行きが出ています。そして本堂は、軒下いっぱいに彩色された彫刻が入っていて、正月の日差しに色が浮いて見えました。

不思議なもので、城跡ばかり歩いてきた目には、こういう「残っている建物」がやけにありがたく映ります。このあと午後に見ることになる城跡には、建物はひとつもありません。同じ一日のうちに、残ったものと残らなかったものを続けて見ることになりました。

お参りのこと。雨引観音は安産と子育ての観音さまとして知られています。境内には、そのお礼参りに来たとおぼしき家族連れがたくさんいました。母と伯母は、それぞれ長いことお参りしていました。何を願っていたのかは聞いていません。こういうものは聞かないのが作法だろうと思って、少し離れて待っていました。

午後|真壁 ― 城は消え、町は残った

真壁城跡 ― 田んぼの中に、土塁だけが残る

午後、車で真壁へ。町に入る手前で、田んぼのわきに四枚の看板が並んでいるのが見えました。「国史跡」「真壁」「城」「跡」。一文字ずつ立てられていて、その向こうに筑波の山なみが横たわっています。

ここが城跡です。そして——見えるのは、土の盛り上がりと、冬枯れの草だけでした。

石垣はありません。天守はもちろん、門も櫓もありません。あるのは土塁です。田んぼと地続きの平地に、細長い土の堤が伸びている。知らずに通りかかれば、ただの畦か、耕作放棄地の草むらにしか見えないと思います。

説明板を読んで、規模に驚きました。

指定面積は、全体で約十二万五千平方メートル。うち本丸だけで一万五千六百二十二平方メートル。種別は「中世城館」、構造は「平城形式、土塁、堀、曲輪、城道、地下遺構」。曲輪の名前も列挙されていて、本丸、二の丸、中城、外曲輪、館、北戸張と続きます。国史跡に指定されたのは平成六年十月二十八日。所在地は桜川市真壁町古城——地名がもう「古城」です。

十二万五千平方メートルというのは、東京ドームがすっぽり二つ以上入る広さです。それだけの城が、いま草の下にある。

城跡には石碑が二基ありました。ひとつは平成六年の国史跡指定を記念した新しいもの。もうひとつは、それよりずっと古い「史蹟 真壁城址」の石柱で、こちらは苔がつき、字も細くなっています。

同じ城跡に、新旧二本の碑が立っている。ということは、国が指定するよりずっと前から、地元の人はここを城跡として大事にしてきたということです。この二本の並びが、そのまま真壁という町の性格を語っている気がしました。

なぜ城は消えたのか ― 慶長七年の国替え

真壁城が終わった理由は、はっきりしています。

慶長七年(一六〇二)、佐竹氏の出羽移封。

関ヶ原で去就をはっきりさせなかった佐竹義宣は、戦後に常陸から秋田へ移されました。真壁氏は佐竹に従う立場にあったため、この国替えでともに国を出ます。桜川市の資料によれば、真壁氏が向かった先は秋田の角館四百三十年、十九代にわたって治めた真壁の地を離れたということです。

主君がいなくなれば、城はいりません。真壁城はこうして役目を終えました。説明板の地名が「古城」になっているのは、この直後から城が「古い城」と呼ばれ始めたからでしょう。

ここで、思い当たることがありました。同じ年、筑波山の反対側でも、まったく同じことが起きています。

以前に歩いた小田城跡も、佐竹の城になったあと、この慶長七年の秋田移封で廃城になりました。さらに言えば、先日歩いた近江の小谷城の説明板にも、佐竹氏の秋田移封で城が終わったのと同じ構図がありました。たった一度の国替えが、筑波山の南と北で、同じ年に城を二つ終わらせている。地図の上ではまるで別の場所なのに、同じ一行の命令で消えているわけです。

それでも町は残った ― 家臣たちの選択

ところが、真壁の話にはここから先があります。

桜川市の資料には、こう書かれていました。

「家臣の多くはこの地に残り、現在にいたる真壁の礎を築きました」

主君は秋田へ行った。城は廃された。けれども、家臣たちの多くは、ついていかずにこの土地に残ったのです。そして武士をやめ、土地の者として生き、町をつくり直した。

だから真壁には、いまも城下町の骨格がそのまま残っています。碁盤の目に切られた道、その両側に並ぶ古い建物。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されていて、江戸から明治大正にかけての見世蔵や門が、いまも人の住む家として建ち続けています。城跡を見てから町を歩くと、この対比がはっきりします。城のあった場所は草だけ。町のあった場所は、そのまま町。

七百石の市塚家 ― 母方の先祖をたずねる

そして、この日ほんとうに訪ねたかった場所へ行きました。

町並みのなかに、黒い板塀を長く巡らせた一軒の屋敷があります。門は登録有形文化財で、脇に立つ石柱には「市塚家」の三字と、こう記されていました。

「真壁城重臣(七百石)」

この市塚家が、筆者の母方の先祖にあたります。

母と伯母にとっては、自分たちの家の出どころです。四人で門の前に立って、しばらく何も言わずに見ていました。門柱にはほかにもいくつか刻まれていて、大正天皇に献上した焼き物の生家であること、そしてこの町の初代町長を出した家であることが記されています。

ここで、さっきの話とつながりました。

七百石といえば、けっして小さな家ではありません。それでも市塚家は秋田へは行かなかった。主君について国を出るのではなく、真壁の土地に残るほうを選んだ。だからこそ江戸時代を通じてこの屋敷に住み続け、門が建ち、明治になって町長を出し、大正には焼き物を献上するところまで続いたのだと思います。

——もっとも、これは状況から考えてそうだろう、というところまでです。市の資料が「家臣の多くは残った」と書いていること、そして門柱に刻まれた江戸から大正までの痕跡から、そう読むのが自然だというだけで、この家について直接それを示す史料を筆者が確かめたわけではありません。次に来るときは、資料館か菩提寺で聞いてみようと思っています。

御城印を三枚。この日は御城印を三人ぶん買いました。自分の分、母の分、そして伯母の分です。
城跡には何も残っていません。土塁と草と、石碑が二本きり。写真を撮っても、正直なところ、あとから見ればただの草むらです。それでも紙が一枚あれば、「あの日、家族でここに立った」という事実が手元に残ります。
母と伯母がそれぞれ持ち帰った一枚が、この先どこにしまわれるのかは分かりません。ただ、四百年前にこの土地を選んだ人たちの子孫が、四百年後に家族四人で来て、紙を三枚買って帰った。そういうことが起きたという記録にはなります。

実際に歩いて感じたこと

帰りの車で、ずっと同じことを考えていました。

城というのは、思っていたよりはるかに簡単に消えます。これまで各地の城跡を歩いてきて、焼けた城、壊された城、造りかけで終わった城をいくつも見てきました。真壁城の場合は、戦って落ちたわけですらありません。主君が国替えになった、というだけで終わっている。十二万五千平方メートルの城が、命令ひとつで用済みになるのです。

ところが、町のほうは消えませんでした。城を捨てて土地に残った人たちがいたからです。城は国の都合で建ったり消えたりしますが、町はそこに住む人がいる限り続く。真壁の碁盤目の道を歩いて、そのことが体で分かりました。

そして三つめ。人も消えていませんでした。四百年前にこの土地に残る選択をした家が、そのまま続いて、その血を引く者が正月に家族を連れてやってきた。母と伯母は、自分の家の門の前に立った。

城跡というものを、これまでは「なくなったものを見に行く場所」だと思っていました。この日、少し考えが変わりました。城が消えたあとに何が残ったかを見に行く場所でもあるのだと。真壁の場合、残ったのは町と、人でした。

同じルートを歩く方へ、ひとつだけ。真壁城跡は、先に説明板を読んでから土塁を見てください。順番が逆だと、ほんとうにただの草むらにしか見えません。板で規模と曲輪の名前を頭に入れてから土の高まりを眺めると、そこにあった城の輪郭が急に立ち上がってきます。そして城跡を見たあとで町並みへ行くと、この町がなぜ残ったのかが、いちばんよく分かります。

この旅の道のり

  1. 11:27雨引観音(楽法寺)坂東三十三観音 第二十四番札所。正月の設えの仁王門と石段車で約25分
  2. 13:23真壁城跡国史跡。十二万五千平方メートルの平城。土塁と新旧二本の碑徒歩で町なかへ
  3. 15:11真壁の町並み(重伝建)城は廃されても城下町の骨格が残る。御城印あり徒歩すぐ
  4. 市塚家 表門登録有形文化財。真壁城重臣(七百石)。筆者の母方の先祖

※時刻は当日撮影した写真の記録によるものです。所要時間は目安で、季節や混み具合で変わります。

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