落ち葉の季節に、妻と二人で下総へ行ってきました。昼に成田で鰻を食べ、成田山にお参りして、そのあと佐倉の臼井城跡へ。日が短い時期なので、城跡に着いたころにはもう夕暮れでした。
正直に書いておくと、臼井城跡を歩きながら思っていたのは「門くらい建っていたらなあ」ということでした。建物が何ひとつ残っていない土の城で、あるのは空堀と土塁だけです。
ところが、帰りぎわに読んだ一枚の説明板で、その考えがひっくり返りました。建物はなくても、土のほうがちゃんと語っていたのです。写真はすべて運営者が現地で撮影したものです。
昼|成田 ― 鰻と、二度目の門
まずは腹ごしらえ
この日はまず食事から始まりました。成田といえば鰻です。
参道には鰻屋が何軒も並んでいて、店先で職人が捌いているところを見られる店もあります。われわれが入ったのは通りから一本入った座敷のある店で、畳に座って窓の障子越しの光を眺めながら待ちました。
運ばれてきた鰻重は、蓋を開けると湯気と一緒に匂いが立ちます。四切れがきっちり並んでいて、皮目に照りがある。関東の鰻は蒸してから焼くので、身がふわりとしています。もう一方は刺身と天ぷらの定食で、マグロと白身と甘えび、それに海老と茄子とインゲンの天ぷら。どちらを頼んでも外れなかった、というのが正直な感想です。
実はこの日、朝からそれほど詰め込んだ行程ではありませんでした。昼に美味しいものを食べて、午後に一つか二つ回れればいい——そういう組み方の日もあっていいと思っています。
成田山、二度目の門
腹ごしらえのあとは、成田山新勝寺へ。
実はこの寺に来るのは二度目です。以前、両親と初詣に来たときにも同じ門をくぐりました。あのときは正月で、境内は人でぎっしり、参道の店も全部開いていて、歩くのもやっとという状態でした。
ところが同じ場所でも、季節が変われば別の顔になります。この日は平日ではありませんでしたが、正月とは比べものにならないくらい落ち着いていて、門の造りをゆっくり見上げることができました。
金色の扁額に「成田山」。その上の欄間には彫刻がびっしり詰まっていて、ネットがかけられているのは鳥よけでしょう。組物が何段も重なって軒を支えている様子は、下から見上げないと分かりません。混んでいるときは足元しか見ていなかったのだ、と気づかされました。
同じ場所に二度行く価値というのは、たぶんここにあります。一度目は「行った」で終わりますが、二度目は見る余裕ができる。初詣で来た門を、静かな日にもう一度くぐる——これはこれで、なかなか良いものでした。
夕|臼井 ― 印旛沼を見下ろす、土の城
臼井城址公園 ― 落ち葉の石段を登る
成田から車で三十分ほど西へ。佐倉市の臼井城跡に着いたころには、すでに日が傾いていました。
「臼井城址公園」と書かれた黒い看板が立っていて、その脇から丸太を渡した階段が上へ伸びています。階段が落ち葉で埋まっていて、段の境目がほとんど見えません。足で探りながら登ることになりました。
登りきると、思っていたよりずっと広い平地が開けます。そして両側に、深く切れ込んだ空堀がある。落ち葉が積もって底は暗く、覗き込むと深さがつかめないほどです。土塁もはっきり残っていて、削り出した稜線がそのまま残っている。
遺構としては、けっこうしっかり残っているのです。それでも歩きながら考えていたのは、やはり同じことでした。門か櫓か、何かひとつでも建っていてくれたらなあ。
土の城を歩く人なら、たぶん誰もが一度は思うことだと思います。ここに何があったのかを、目で見て確かめたい。堀と土塁だけでは、どうしても想像の負荷が大きい。
印旛沼を見下ろす
ただ、木立の切れ間から向こうを見たとき、この城の意味が急に分かりました。
印旛沼です。
眼下に家並みが広がり、その先に枯れた葦原があり、さらに向こうに水面が横たわっている。夕方の白っぽい光を反射して、沼が一枚の板のように見えました。
この高さから沼が見える、ということは、沼を渡ってくる者が全部見えるということです。中世の下総では、この水域が交通路そのものでした。城がここに築かれた理由は、この一望に尽きます。石垣も天守もいりません。見えることが、城の機能だったわけです。
謙信が、この城を落とせなかった
そしてこの城には、有名な話があります。
上杉謙信が、ここを攻めて落とせませんでした。
永禄九年(一五六六)のことです。関東を平定しようと南下してきた謙信の大軍が、この臼井城を包囲しました。守っていたのは千葉胤富の家臣原胤貞。城の規模からいえば、まともにぶつかって勝てる相手ではありません。
ところが謙信は、この城を抜けませんでした。損害の大きさについては史料によってまるで違い、北条方の記録では数千人の死傷、上杉方の記録では三百余人の討ち死にとされています。数字は割り引くとしても、無傷で引いたのではないことは確かです。撤退の背景には、足利義昭から「北条と和睦して上洛せよ」と要請する書状が届いていたことも指摘されていて、上杉勢は四月半ばに引き揚げていきました。
重いのはその後です。この一件のあと、常陸・上野・下野の諸将が謙信から離れていきました。関東平定は行き詰まり、それが北条氏との同盟を受け入れる一因になり、結果として北条が千葉氏を支配下に置くことになります。
つまり——この土の城が、関東の勢力図を動かしたのです。いま自分が立っている、落ち葉に埋もれた平地で。
門はなかったが、土が語っていた
帰ろうとしたところで、説明板が一枚立っているのに気づきました。表題は「土橋」。読んでみて、足が止まりました。
板にはこう書かれています。土橋は、空堀によって区切られたI郭の坂虎口とII郭を結ぶ通路の役目を果たしていた。土橋の幅を狭くすることで、一度に多勢の敵が渡れなくなる。さらに、曲がった坂をつけて敵の進む速度を低下させ、北にあるI郭の土塁上から側面攻撃を受けやすくなるように工夫されている——と。
読み終えて、さっきまで自分が歩いてきた道を振り返りました。
幅を狭くする。坂を曲げる。上から横撃ちする。この三つは、門も櫓もなくても、いま地面に残っているものです。細い通路も、曲がった坂も、その上の土塁も、全部そのまま目の前にある。さっき何も考えずに歩いた場所が、四百五十年前に人を殺すために設計された場所だったということです。
「門くらいあれば」と思っていたのが、少し恥ずかしくなりました。門は無くても、通路の幅と坂の曲がり方が残っていれば、城は語れるのです。むしろ建物があったら、そちらに目を奪われて、足元の設計を読もうとしなかったかもしれません。
板の末尾には「現在は、盛土によって覆い、保存しております」とありました。つまり、いま踏んでいる土の下に、当時の土橋がそのまま埋まっている。掘り返さずに、土をかぶせて守っている。見えないまま残すという保存の仕方があるのだと、これも初めて知りました。
実際に歩いて感じたこと
帰りの車で、二つのことを考えていました。
ひとつは、建物がないことを、もう不満に思わなくてよさそうだということです。これまで関東の城跡をずいぶん歩いてきて、そのほとんどが土の城でした。小田城も、真壁城も、堀と土塁だけです。そのたびに心のどこかで「何か建っていれば」と思っていました。
でも今回、板を一枚読んだだけで景色が変わりました。土の城には、土の城の読み方がある。幅、傾斜、曲がり、高低差。それは建物より前から城の本体であって、建物のほうがむしろ後から載っていたものです。
もうひとつは、この城がやったことの大きさです。天守も石垣もない、印旛沼を見下ろすだけの丘が、上杉謙信の関東経略を止めました。そこから関東の勢力図が変わり、千葉氏は北条の下に入っていきます。歴史を動かすのに、立派な城はいらないのだと、この落ち葉だらけの公園が教えてくれました。
同じ場所を訪ねる方へ、二つだけ。ひとつは説明板を先に読むことです。臼井城跡は、予備知識なしで歩くと本当にただの公園に見えます。土橋の板を読んでから歩き直すと、同じ道がまったく違って見えます。
もうひとつは日の高いうちに行くこと。われわれは夕方に着いてしまい、空堀の底がもう暗くて、深さを写真に収めきれませんでした。印旛沼の眺めも、明るい時間のほうが確実に良いはずです。次はもっと早い時間に来ようと思います。
この旅の道のり
- 13:38成田で昼食鰻重と、刺身と天ぷらの定食車ですぐ
- 14:00成田山新勝寺仁王門。以前 両親と初詣に来た門を、静かな日にもう一度車で約30分
- 16:37臼井城跡(佐倉)印旛沼を見下ろす土の城。空堀と土塁、そして土橋の説明板
※時刻は当日撮影した写真の記録によるものです。所要時間は目安で、季節や混み具合で変わります。








