【実録】黒船と三笠、そしてお龍 ― 記念艦三笠・東郷平八郎像から信楽寺、久里浜のペリー上陸記念碑と横須賀軍港めぐりへ 都内発 車日帰り

これは、運営者が実際に歩いた記録です。友人二人と三人で、都内から車で横須賀へ向かいました。目当ては記念艦三笠、坂本龍馬の妻・お龍が眠る信楽寺、そして黒船が来た久里浜。うだるような暑さの一日でしたが、東京湾の入口という同じ海を、幕末から今日まで一本の線でたどることができました。

横須賀・三笠公園

目次

記念艦三笠と東郷平八郎像

朝の三笠公園は、もう日差しが痛いほどでした。噴水広場の正面に立つのが、連合艦隊司令長官・東郷平八郎の銅像です。像のかたわらには「皇國興廢在此一戦」と刻まれた石碑がありました。日本海海戦の朝に掲げられたZ旗の意味――この一戦に国の興廃がかかっている――を、そのまま石にしたものです。像の背中の先には、三笠が横たわっています。

三笠は明治三十五年にイギリスで竣工した戦艦で、日露戦争の日本海海戦では連合艦隊旗艦を務め、東郷が座乗しました。大正十五年からこの地に固定保存され、イギリスのヴィクトリー、アメリカのコンスティチューションと並ぶ「世界三大記念艦」を名乗っています。艦の横腹には、そう書かれた横断幕が下がっていました。

入口の脇に、白く塗られた大きな砲弾が立っています。三笠のものではなく、戦艦大和型の主砲弾でした。三笠の砲弾と並べて置かれていて、四十年ほどの間に艦砲がどれだけ巨大化したのかが、理屈ではなく大きさで分かる展示になっています。

三笠の甲板を歩く

入口から艦内に入り、展示室から順に見て回りました。日本海海戦の経過を追う展示、士官室や長官室の再現、当時の写真。冷房の効いた艦内から甲板に出ると、熱気が一気に戻ってきます。

甲板でまず目を引いたのが、朝顔のように口を開けた通風筒でした。機関室に外気を送り込むための設備で、これがずらりと並ぶさまは、この船が石炭と蒸気で動いていた時代のものだと教えてくれます。

艦橋に上がると、視界が一気に開けました。真下に前甲板と三十センチ連装主砲、その先に艦首の日章旗。左手には三笠公園の芝生と噴水が広がり、右手は海です。艦隊を率いた場所と、いま家族連れが水遊びをしている広場が、同じ視界に収まっているのが不思議でした。

大津・信楽寺

坂本龍馬の妻・お龍が眠る信楽寺

三笠公園から車で十分ほど、大津の住宅地の坂を上ったところに信楽寺があります。浄土宗の寺で、開山は永正元年。本尊は運慶作と伝える阿弥陀如来で、三浦地蔵尊の第二十七番札所にもなっています。

山門脇の由緒書きに、面白い話が載っていました。この寺の聖観音は行基の作と伝わり、『新編相模国風土記』によれば熊谷直実(熊谷蓮生坊)の守護仏だったといいます。直実が熊谷寺から近江国大津の信楽寺へ移そうとしたものを、使者が間違えて相模国大津のこの信楽寺に納めてしまった、と伝わるのです。同じ「大津の信楽寺」という地名と寺号の重なりが生んだ取り違えですが、おかげでこの寺に観音が残りました。

そして墓地に、坂本龍馬の妻・お龍(龍子)の墓があります。

説明板によれば、お龍は京都下京の医者・楢崎将作の長女。寺田屋にいたころは「お春」と呼ばれ、伏見の寺田屋騒動では彼女の機転が龍馬の危急を救いました。その龍馬が京都・河原町の近江屋で中岡慎太郎とともに斬られたのが慶応三年。三十三歳でした。

読ませるのはその後です。龍馬の遺言により土佐高知の坂本家に入るものの馴染めず、妹が嫁いだ土佐和食村へ身を寄せ、やがて京都に戻り、さらに西郷隆盛を頼って東京へ移ります。神奈川宿の料亭・田中家で仲居をしていた時期もありました。そして横須賀の西村松兵衛と再婚し、「ツル」という名でこの土地に暮らします。京都から母を呼び寄せ、六十六歳で亡くなりました。墓碑が建ったのはその八年後。母が眠るこの寺に、妹たちの手で建てられたものです。

その墓碑に刻まれているのが「龍馬之妻」の四文字でした。龍馬の死から四十年近くを別の名で生きた人が、最後に刻ませたのがその四文字だった。坂の上の静かな墓地で、それが一番こたえました。

御朱印:信楽寺では御朱印をいただけます。お参りのあとに寺務所で拝受しました。毎年秋には墓前祭にあわせて「おりょうさんまつり」が催されるそうです。

三崎・久里浜

昼食:足をのばして三浦市の三崎へ。港のそばのお店で海鮮丼をいただきました。とにかく暑い日でしたから、冷たい丼が本当にありがたかったです。

ペリー上陸記念碑 ― 黒船が来た久里浜

三崎から戻って、久里浜のペリー公園へ。芝生の中央に、黒い石柱がすっくと立っています。

正面に刻まれているのは「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」。「伯理」でペリーです。この字を書いたのは、初代内閣総理大臣・伊藤博文でした。碑の総高は五・二五メートルあります。

説明板によれば、ペリーが久里浜に上陸したのは嘉永六年六月九日、西暦でいえば一八五三年七月十四日。そして記念碑が建ったのは、そこから四十八年後の同じ七月十四日でした。

建立のきっかけが良い話です。明治三十三年に開かれた米友協会の式典で、かつてペリーとともに久里浜に上陸した退役海軍少将ビアズリーが――上陸のとき彼は十七歳の少尉候補生でした――「日米最初の接点を示すものが、あの浜には何も無い」と語り、聴衆の心を動かした。会長で明治憲法の起草にも関わった法律家・金子堅太郎が動き、日本とアメリカの双方から費用を募って、わずか八か月で落成にこぎつけたそうです。落成式には桂太郎首相らのほか、ペリーの孫にあたるアメリカ海軍少将ロジャースも参列しました。

ただ、この碑は一度倒されています。太平洋戦争の末期に「敵国を讃えるものだ」として引き倒されました。ところがその半年後には終戦を迎え、同じ年の十一月には復元されている。倒したのも建て直したのも、同じ年の日本人です。日米関係の振れ幅が、この一本の石柱にそのまま刻まれていました。

公園の一角にあるペリー記念館にも入りました。黒船来航のジオラマや当時の資料が並ぶ小さな館ですが、冷房が効いていて、正直に言えばそれもありがたかったです。

横須賀軍港めぐり

いまの海を、海から見る

締めくくりに、汐入から出る横須賀軍港めぐりの遊覧船に乗りました。四十五分ほどで湾内をめぐり、海上自衛隊とアメリカ海軍の艦艇を海側から見せてくれます。

まず目に入ったのが、滑走路のように平らな全通甲板を持つヘリコプター搭載護衛艦でした。とにかく長く、そして低い。横から見ると壁のようです。続いて、艦番号「110」――護衛艦「たかなみ」。前甲板の主砲と、マストに載ったレーダー。朝に見た三笠の主砲とマストと、同じ場所に同じ役割のものが付いています。百二十年で形はまるで変わったのに、船の文法は変わっていないのだな、と思いました。

キャビンの窓ガラスに自分たちの姿が映り込んで、写真はうまく撮れませんでしたが、それも含めて記録です。

実際に歩いて感じたこと

この日たどった場所は、ばらばらのようでいて、全部ひとつの海の話でした。

久里浜に黒船が来て、日本は開くことを迫られた。その激動のただ中を生きた龍馬とお龍がいて、お龍はその後の長い人生をこの横須賀で送った。開国から半世紀後、日本は三笠を旗艦にして、同じ東京湾から艦隊を出した。そしていま、その海には護衛艦が並んでいる。ペリーが上陸した浜から、三笠の艦橋、遊覧船のデッキまで、この日ずっと見ていたのは東京湾の入口という同じ場所でした。

それにしても暑い日でした。三笠の甲板は照り返しがすさまじく、信楽寺の石段はこたえ、久里浜では日陰を探しながら歩きました。三人で何度も自販機の前に立ち止まった一日です。それでも、朝の東郷像から夕方の護衛艦まで、都内から日帰りでこれだけ一気にたどれる場所はそう多くありません。うだるような暑さも含めて、しっかり満喫した一日になりました。

この旅の道のり

  1. 横須賀・三笠公園
  2. 記念艦三笠と東郷平八郎像徒歩すぐ
  3. 三笠の甲板を歩く車で約15分
  4. 大津・信楽寺
  5. 坂本龍馬の妻・お龍が眠る信楽寺三崎で海鮮丼の昼食
  6. 三崎・久里浜
  7. ペリー上陸記念碑黒船が来た久里浜車で約30分
  8. 横須賀軍港めぐり
  9. いまの海を、海から見る

※移動時間は一般的な所要時間の目安です。撮影時刻の記録が残っていないため、時刻は省いています。

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