今回は運営者(佐藤秀信)が妻とともに、都内から車で東へ走った日帰りの記録です。下総の香取神宮にはじまり、小江戸佐原の町並みを歩き、水郷潮来でろ舟に揺られてうなぎの昼。午後は常陸へ渡って鹿島神宮、そして剣聖・塚原卜伝の生誕の地と墓、鹿島城跡をめぐりました。歩いてみてはじめて、この一日が「武の神」という一本の糸でつながっていることに気づかされた旅でした。
下総 ― 香取神宮と小江戸・佐原
香取神宮 ― 剣の源流をたどる、一日のはじまり
まず向かったのは、下総国一之宮香取神宮。祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)で、この日の午後に訪ねる鹿島神宮の武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)とともに、記紀の「国譲り」で大国主神と交渉にあたった武神です。全国およそ四百社の香取神社の総本社にあたり、朱塗りの楼門と黒漆の本殿は元禄十三年(1700)に五代将軍徳川綱吉が造営したもので、いずれも国の重要文化財。杉木立に包まれた参道は、朝の空気がぴりりと引きしまっていました。
佐原 ― 「江戸優り」とうたわれた商都と、伊能忠敬
香取神宮から車ですぐの佐原へ。利根川の舟運で栄えた商都で、小野川沿いには黒塀と蔵造りの商家が今も軒を連ねています。国の重要伝統的建造物群保存地区で、当時の江戸っ子たちが「江戸優り(えどまさり)」と呼んだほどの賑わいだったといいます。
そしてここは伊能忠敬が半生を過ごした町でもあります。佐原の商家の婿となって家業を大きくし、隠居してから江戸へ出て天文暦学を学びはじめたのが五十歳。五十五歳から日本全国の測量に踏み出し、あの『大日本沿海輿地全図』へとつながっていきます。小野川のほとりに残る旧宅(国史跡)を前にすると、「人生は何歳からでも始められる」という言葉が、ただの標語ではなく実在の重みをもって迫ってきました。
水郷 ― 潮来
潮来 ― ろ舟に揺られて、うなぎの昼
県境を越えて茨城へ入り、水郷潮来へ。常陸利根川と前川が縦横に流れるこの町では、ろ舟に乗って水路をめぐることができます。船頭さんが櫓をあやつり、岸の葦をかすめながら進むと、水面すれすれの目線に町がひらけて、車で走ってきた同じ土地がまるで別の場所のように見えてきました。かつては舟が道であり、嫁入りも舟で渡った――「潮来花嫁さん」の唄が生まれた土地です。
お昼は潮来でうなぎをいただきました。水郷はうなぎの名所。舟から上がったあとの香ばしい一膳が、午後への燃料になりました。
常陸 ― 鹿島
鹿島神宮 ― 武甕槌大神と、ご神木で建て直された大鳥居
午後は常陸国一之宮鹿島神宮へ。祭神は武甕槌大神。武の神として朝廷や武家の篤い信仰を集め、境内には二代将軍徳川秀忠が元和五年(1619)に奉納した本殿、水戸初代藩主徳川頼房が寛永十一年(1634)に奉納した楼門(日本三大楼門のひとつ)が残ります。地震を起こす大鯰を押さえていると伝わる要石でも知られる社です。
参道の入口に立つ大鳥居は、見上げるほどの木造。じつはこの鳥居、東日本大震災で倒壊し、境内に育っていた樹齢六百年ほどのご神木の杉を使って建て直されたものです(二〇一四年再建)。自分の森の木で自分の門を建て直す――そう思って見上げると、白木の柱の太さがまた違って見えました。
剣聖 塚原卜伝 ― 生誕の地に立つ像
鹿島神宮からほど近い一角に、「剣聖 塚原卜伝生誕之地」の標柱と、その像が立っています。まわりはマンションや住宅の並ぶごく普通の街角で、そこに戦国最強とうたわれた剣豪が、刀を手に静かに立っている。この落差がなんとも良いのです。
墓所の説明板によれば、卜伝は延徳元年(1489)、鹿島神宮の神職である卜部家・吉川左京覚賢の二男として生まれました。幼名は朝孝。幼くして沼尾の塚原城主・塚原土佐守安幹の養子となり、元服して塚原新右衛門高幹と名乗ります。
鹿島城跡(城山公園)― 鹿島氏四百年の城
続いて鹿島城跡へ。現地の説明板によれば、鎌倉時代初期のおよそ八百年前から、天正十九年(1591)に佐竹氏によって落城するまでの約四百年間、この城は鹿島氏(常陸大掾氏族)の居城でした。別称を吉岡城といいます。永正の終わりごろ(1520年前後)に義幹が城の大改造をおこない、それが「高天原合戦」と呼ばれる一族の内紛につながった、と『鹿島治乱記』は伝えているそうです。
もう一枚、明治二十六年に建てられた鹿嶋城址記念碑の現代文訳が、この土地の来歴をていねいに語っていました。鹿島氏は鎮守府将軍平貞盛の流れをくむ一族で、その支族の政幹が鹿島三郎と称してはじめて鹿嶋に居を定め、養和元年(1181)、源頼朝の命によって鹿島神宮の総追捕使となった――と。武神の社を守る役目を負った一族が、その社のかたわらに城を築いた。神宮と城が、はじめから一組だったことがよくわかります。
本丸跡は「城山」と呼ばれ、二の丸などは県立高校や町の区域になっています。昭和五十九年の発掘では、治乱記にいう萱葺きの痕跡や地鎮の祭祀的遺物、墨書土器なども出土したとのこと。昭和六十三年から城山公園として整備され、いまは桜やつつじの季節に市民が散策する場になっています。





塚原卜伝の墓 ― 「剣は人を活かす道具なり」
一日の締めくくりは、塚原卜伝の墓へ。「剣聖塚原卜伝先生墓地入口」の石柱から、花の咲く畑のあいだの細い道を上がっていくと、木の柵に囲まれた小さな墓所がありました。花と水が供えられ、賽銭箱まで置かれている。五百年たったいまも、誰かが手を入れ続けている場所でした。
説明板が、卜伝の生涯をていねいにたどっていました。永正二年(1505)、十六歳で廻国修行の旅に出て十四年、真剣勝負と戦場を経験します。帰国すると鹿島神宮に千日籠って精神修養に励み、悟りを得ると大永三年(1523)に二度目の廻国修行へ。天文元年(1532)に戻って塚原城主となり、妙を妻に迎えますが、短い結婚生活で妻を亡くすと、城を養子に譲って三度目の旅に出ます。京では時の将軍足利義輝や伊勢の北畠具教ら多くの大名・武人に剣を教え、十一年後に鹿島へ戻りました。晩年は塚原城近くの草庵に棲んで弟子に剣を指南し、元亀二年(1571)、八十三歳でその生涯を閉じます。
実際に歩いて感じたこと
この一日には、武の神という糸が通っていました。朝に香取神宮で経津主大神を、午後に鹿島神宮で武甕槌大神を拝む。その二社に伝わる剣――香取神道流と鹿島の太刀――を、鹿島神宮の神職の子として生まれた塚原卜伝が一身に受け継いだ。そして城もまた、頼朝から鹿島神宮の総追捕使を命じられた一族が、社のかたわらに築いたものでした。神宮も、城も、剣も、この土地ではすべて同じ根から出ている。何も知らずに組んだ日帰りの順路が、そのまま「鹿島の武」の系図をなぞっていたのだと、最後の説明板を読みながら気づきました。
もうひとつ心に残ったのは、この地の水です。潮来でろ舟に揺られ、鹿島城跡から浪逆浦と田園を見わたして、この一帯が水でつながった世界だったことが体でわかりました。佐原が「江戸優り」と呼ばれるほど栄えたのも、潮来が嫁入り舟の唄を生んだのも、鹿島氏が台地の先端に城を構えたのも、みな水運という一本の背骨があってのことです。車で走れば一時間の距離が、かつては舟の距離だった。
そして卜伝の「剣は人を活かす道具なり」。城跡で空堀の深さに感心してきた直後に、この言葉に出会う順番になったのは、たまたまです。けれど、堀を掘り、城を築き、殺し合った四百年の果てに、この土地が生んだ最強の剣士がそう言い残した――そう並べて読むと、何もない城跡の静けさまで違って感じられました。都内から日帰りで行ける距離に、これだけの厚みがある。忘れがたい一日になりました。
この旅の道のり
- 下総 ― 香取神宮と小江戸・佐原
- 香取神宮剣の源流をたどる、一日のはじまり車で約15分
- 佐原「江戸優り」とうたわれた商都と、伊能忠敬車で約20分
- 水郷 ― 潮来
- 潮来ろ舟に揺られて、うなぎの昼車で約30分
- 常陸 ― 鹿島
- 鹿島神宮武甕槌大神と、ご神木で建て直された大鳥居徒歩すぐ
- 剣聖 塚原卜伝生誕の地に立つ像車で約10分
- 鹿島城跡(城山公園)鹿島氏四百年の城車で約10分
- 塚原卜伝の墓「剣は人を活かす道具なり」
※移動時間は一般的な所要時間の目安です。撮影時刻の記録が残っていないため、時刻は省いています。
この記事で歩いた地域を、都内発の日帰り・1泊で回るコースにまとめています。







