群馬県太田市から高崎市、富岡市、草津町、そして長野県長野市・上田市、山梨県甲府市へと続く、北関東・信越・甲州エリアの旅。2023年7月、戦国時代に名を残した名将たちの城跡と、日本三名泉のひとつ草津温泉を組み合わせた1泊2日の行程を組みました。1日目は太田・金山城から高崎白衣大観音、箕輪城、世界遺産・富岡製糸場を経て草津温泉で一泊しました。2日目は草津の朝を楽しんだあと長野へ移動し、松代城(海津城)、上田城を巡って、最後は山梨・甲府の武田神社へ。関東と甲信越の戦国史をまとめて味わえる、盛りだくさんの旅になりました。
この旅のルートと日程
- 1日目:金山城(群馬県太田市)→ 高崎白衣大観音 → 箕輪城 → 富岡製糸場 → 草津温泉(泊)
- 2日目:草津温泉 → 松代城・海津城(長野県長野市)→ 上田城(長野県上田市)→ 武田神社(山梨県甲府市)
【1日目】戦国の名城から世界遺産・富岡製糸場、草津温泉へ
金山城(新田金山城、関東随一の「不落の名城」)
最初に訪れたのは、太田市街を見下ろす金山(標高235m)の山頂に築かれた金山城。文明元年(1469年)、上野の豪族・岩松家純が築いたのが始まりとされ、その後実権は家臣の横瀬氏(後の由良氏)に移り、由良成繁・国繁の時代に全盛期を迎えました。関東平野のほぼ中央という要衝にありながら、上杉氏・武田氏・小田原北条氏・佐竹氏といった戦国の雄に幾度も攻められながら、ついに一度も落城しなかったことから「不落の名城」と呼ばれています。天正12年(1584年)、城主由良国繁とその弟・長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に小田原北条氏へ開城し、天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏が滅びるとともに廃城となりました。江戸時代には徳川幕府直轄の「御林」として保護され、昭和9年(1934年)には群馬県内で初めて「史跡」に指定されています。
山道を登っていくと、まず目に入るのが石垣で丸く縁取られた「日ノ池」「月ノ池」と呼ばれる大きな溜め池。戦国時代の山城でこれほど本格的な石造りの池が残っているのは珍しく、実際に歩いてみるとその石積みの精巧さに驚かされます。狭い通路を石垣に挟まれながら進む道は、まさに山城の防御構造そのものです。山頂からは太田市街から関東平野まで一望でき、これだけの眺望を確保できる立地だからこそ、長きにわたって攻め落とされなかったのだと実感できました。











高崎白衣大観音(建立当時世界最大、高さ41.8mの観音像)
金山城から車で移動し、次に訪れたのは高崎市の観音山にそびえる白衣大観音。1936年(昭和11年)10月20日に開眼供養が行われたこの観音像は、実業家で井上工業初代社長の井上保三郎が発起人となって建立したもので、高さ41.8m、重さ5,985トンという規模は建立当時「世界最大の観音像」だったそうです。原型製作は伊勢崎市出身の鋳金工芸作家・森村酉三が手がけ、その原型を運搬する作業には若き日の田中角栄が関わったという逸話も残っています。建立の目的は、高崎に駐屯していた大日本帝国陸軍歩兵第15連隊の戦没者慰霊と、観光地としての発展だったそうです。
胎内には146段の階段が9層を結んでおり、20体の仏像が安置されているというが、今回は外から見上げるだけで次の箕輪城へ向かいました。真っ白な観音像が青空に映える姿は、遠くからでもすぐに見つけられるほど存在感がありました。

箕輪城(長野業政が武田信玄を退け続けた上野の名城)
続いて訪れたのは、高崎市箕郷町にある箕輪城。永正9年(1512年)頃、長野業尚が築いたのが始まりとされ、その子・長野業政の時代に西上野における最大の拠点として整備されました。業政は西上野の国衆を束ねて武田信玄の侵攻を幾度も退け、信玄を最も苦しめた武将のひとりと伝わっています。しかし業政が没した後、跡を継いだ子の業盛の代、永禄9年(1566年)に武田軍の総攻撃を受けて落城し、業盛は城内で自刃しました。その後城は武田氏、織田氏配下の滝川一益、北条氏邦などの手を経て、天正18年(1590年)の小田原征伐後には徳川家康の家臣・井伊直政が12万石で入城しました。直政は城の大改修を行ったが、慶長3年(1598年)に城を高崎に移したことで箕輪城は廃城となりました。
本丸跡は今も広い草地として残り、「本丸」と刻まれた石標や箕輪城跡の碑、当時の歴史を伝える説明碑が点々と建てられています。城内を歩くと、井伊直政ゆかりの赤い旗が土塁のそばに掲げられていて、井伊家の城だった時代を今に伝えていました。丘の上には郭馬出西虎口門という城門が復元されており、木造の重厚な佇まいから、当時の防御の厳しさがしのばれました。







富岡製糸場(日本の近代化を支えた世界遺産)
午後は富岡市の富岡製糸場へ。明治5年(1872年、旧暦10月4日/新暦11月4日)、明治政府が設立した官営模範工場として操業を開始しました。フランス人技術者ポール・ブリューナの指導のもとで建設され、フランス式の繰糸技術を導入したことで、日本の生糸生産の近代化と輸出産業の発展に大きく貢献した工場として知られます。2014年(平成26年)6月21日には世界遺産に登録され、同年12月10日には繰糸所・東置繭所・西置繭所の3棟が国宝に指定されています。
赤レンガ造りの東置繭所をくぐって構内へ入ると、当時のままの木造窓や煙突、繰糸所の建物が並び、明治初期にこれだけの規模の洋風工場が地方に建てられたことに驚かされます。奥まで進むと国宝の西置繭所や、今も水をたたえる貯水槽が残っていて、製糸業を支えた設備の規模を実感できました。出口付近では富岡市のマスコット「お富ちゃん」が出迎えてくれ、記念に一枚。歴史的な重みと、どこか親しみやすい雰囲気を併せ持つ場所でした。






草津温泉(日本三名泉、湧出量日本一の名湯で一泊)
1日目の最後は、群馬県草津町の草津温泉へ。開湯の由来には日本武尊や行基、源頼朝が発見したという伝説もあるが、いずれも定かではなく、確実な記録としては文明4年(1472年)に温泉の存在を示す史料が残っているのが最古とされます。室町時代の禅僧・万里集九は1502年頃、有馬温泉・下呂温泉とともに草津温泉を「三名泉」と讃えたと伝わり、江戸時代の儒学者・林羅山も1662年頃に「天下三名泉」と記したそうです。泉質はpH2.0前後という強い酸性で、湧出量は毎分3万2300リットル以上と自然湧出量では日本一を誇ります。
町の中心にある湯畑に着いたのは夕方17時台でした。木製の「湯もみ板」が並ぶ湯畑から立ち上る湯気と、そのまわりを囲む旅館の灯りが夕暮れに映えて、いかにも温泉町らしい情緒がありました。日が落ちてからもう一度湯畑を訪れると、ライトアップされた湯畑がまた違った表情を見せてくれました。強行日程で歩き詰めだった体を、この日は宿の温泉でしっかり癒すことができました。



【2日目】草津の朝から、松代城・上田城、そして甲斐・武田神社へ
草津温泉の朝(大滝乃湯前の足湯で一休み)
2日目の朝は、宿を出たあとに大滝乃湯前にある足湯に立ち寄りました。周囲には草津にゆかりのある映画人の名を刻んだ石柱が並んでいて、温泉地としてだけでなく文化的な蓄積のある町だということが感じられました。強酸性の湯に足をつけると、じんわりと温まって、2日目の長距離移動に向けて気持ちを整えることができました。

松代城・海津城(武田信玄が川中島合戦の前進基地として築いた城)
草津から長野市松代へ移動。松代城は、武田信玄が上杉謙信との川中島の合戦に備えた前進基地として築いた「海津城」が始まりで、永禄3年(1560年)頃に普請が完了したとされます。武田氏滅亡後は織田氏、上杉氏などの支配を経て、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後には城主・森忠政のもとで二の丸・三の丸が整備され、土塁だった防御施設が石垣に築き直されました。元和8年(1622年)に真田信之が上田から移封されて以降、明治の廃城まで約250年間、松代藩10万石・真田家の居城として続きました。明治5年(1872年)に廃城となり建物は失われたが、昭和56年(1981年)には本丸を中心とした旧城郭域が新御殿とともに国の史跡に指定されています。
現地の説明板を読みながら本丸跡を歩くと、石垣と土塀、復元された門や橋が広い敷地に配置されていて、武田・上杉の争いの最前線から、江戸時代を通じて真田家10万石の政治の中心地へと役割を変えていった城の歴史の厚みを感じました。背後に広がる山並みも印象的で、川中島合戦の舞台となった土地であることを実感できる眺めでした。





上田城(徳川の大軍を二度も退けた真田昌幸の名城)
続いて上田市の上田城へ。天正11年(1583年)、真田昌幸が築城したのが始まりで、その2年後の天正13年(1585年)に第一次上田合戦が起こります。昌幸が北条氏への領地引き渡しを拒否したことをきっかけに、徳川家康は鳥居元忠らに約7000の兵を率いさせて上田城を攻めさせたが、昌幸は上田城に約1200人で籠城しながら巧みな戦術で応戦。結果、徳川軍は1300人もの戦死者を出して撤退し、真田方の犠牲は40人ほどで済んだと伝わります。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、昌幸と次男・信繁(幸村)が西軍につき、徳川秀忠率いる3万8000という大軍を上田城で足止めしました。秀忠は結局、上田城への攻略を諦めて関ヶ原へ向かったが、この足止めによって本戦への参陣に遅れるという事態を招きました。わずかな兵力で二度も徳川の大軍を退けたこの城は、真田氏の智略を象徴する名城として今も語り継がれています。
現在、本丸跡には真田氏を祀る真田神社が建てられていて、東虎口櫓門をくぐった先には「真田三代の郷」と書かれた記念撮影用のパネルや、青年時代の真田幸村(信繁)の像が置かれています。境内には真田の「赤備え」を象徴する大きな兜のモニュメントもあり、六文銭の家紋とともに真田家らしい世界観を存分に味わえました。西櫓からは境内全体を見下ろすことができ、智将・昌幸が築いた城の縄張りをあらためて実感できました。






武田神社(躑躅ヶ崎館跡、武田信虎・信玄・勝頼三代の本拠)
この旅の最後は、山梨県甲府市の武田神社。ここはもともと武田氏の居館・躑躅ヶ崎館があった場所で、永正16年(1519年)に武田信玄の父・信虎がこの地に館を移したことから始まります。以後、信虎・信玄・勝頼と武田家三代、約70年間にわたって本拠として使われました。信玄が没した後も、家臣団を統制する中心地として発展を続けたそうです。館は一辺約200mの正方形の主郭を中心に、いくつかの副郭で構成されていたと伝わり、今もその石垣の一部が境内に残っています。
信玄を祭神とする神社としての創建は比較的新しく、大正4年(1915年)に大正天皇の即位記念として信玄に従三位が追贈されたことをきっかけに、翌1916年(大正5年)に山梨県知事を総裁とする「武田神社奉建会」が発足しました。約3年をかけて社殿が整えられ、1919年(大正8年)に竣工、信玄の命日である4月12日に初の例祭が行われました。境内入口の神橋と鳥居をくぐり、社号標の前で一枚。武田氏館跡の石垣沿いに続く石段を上ると、甲府の町並みが見渡せる高台に出て、戦国時代から現代まで、この地が甲斐国の中心であり続けていることを実感できました。





実際に歩いて感じたこと
- 1泊2日で3県をまたぐ強行日程だった。群馬・長野・山梨と3つの県を1泊2日で移動する行程は、車での移動距離もかなりのものになった。城巡りが好きな人にはたまらない密度だが、移動時間も見込んでゆとりを持った計画がおすすめ。
- 金山城は本格的な登山装備でなくても楽しめる山城。石垣で囲まれた日ノ池・月ノ池の美しさは写真で見るより実際に立つと迫力が違う。「不落の名城」の名にふさわしい堅牢さを肌で感じられた。
- 箕輪城は井伊直政の足跡をたどれる貴重な場所。後に彦根藩を興す井伊家の、関東における最初の拠点だったという事実は意外と知られていないので、訪れる価値が大きい。
- 富岡製糸場は思った以上に広く、じっくり見ると1時間以上かかる。国宝の建物がいくつも並ぶ規模の大きさに驚いた。世界遺産に登録された理由が現地に立つとよくわかる。
- 草津温泉は宿泊地として最高の中継点。群馬から長野方面への移動の途中に位置していて、1日目の疲れをしっかり癒してから2日目に備えることができた。
- 松代城と上田城は、同じ真田家でも異なる時代の顔を見せてくれる。松代城は武田信玄の前進基地として始まり後に真田家10万石の政庁となった歴史、上田城は真田昌幸が徳川の大軍を二度も退けた戦の城という歴史。同じ真田家ゆかりの城でも役割の違いが対照的で面白かった。
- 武田神社は「城」というより「館」の跡であることに納得できた。山城ではなく平地の館だったからこそ、信虎・信玄・勝頼の三代70年にわたって政治の中心として機能できたのだと実感した。
今回の旅で回った金山城・箕輪城は関東の戦国史、松代城・上田城は信州の戦国史、武田神社は甲斐の戦国史と、それぞれ違う立場・時代の武将たちの足跡をたどることになりました。城ひとつひとつは知っていても、こうして1泊2日でまとめて巡ると、関東から信州、甲州へと広がる戦国大名たちの勢力関係が地理的にもつながって見えてくるのが面白いです。草津温泉での一泊も含め、歴史と温泉を両方楽しめる、満足度の高い旅になりました。
この旅の道のり
- 1日目金山城新田金山城、関東随一の「不落の名城」車で約1時間
- 高崎白衣大観音建立当時世界最大、高さ41.8mの観音像車で約30分
- 箕輪城長野業政が武田信玄を退け続けた上野の名城車で約40分
- 富岡製糸場日本の近代化を支えた世界遺産車で約2時間
- 草津温泉日本三名泉、湧出量日本一の名湯で一泊一泊
- 2日目草津温泉の朝大滝乃湯前の足湯で一休み車で約2時間
- 松代城・海津城武田信玄が川中島合戦の前進基地として築いた城車で約40分
- 上田城徳川の大軍を二度も退けた真田昌幸の名城車で約2時間
- 武田神社躑躅ヶ崎館跡、武田信虎・信玄・勝頼三代の本拠
※移動時間は一般的な所要時間の目安です。撮影時刻の記録が残っていないため、時刻は省いています。
この記事で歩いた地域を、都内発の日帰り・1泊で回るコースにまとめています。
