今回は運営者(佐藤秀信)が妻とともに、都内から車で沼津へ走った日帰りの記録です。午前は沼津港深海水族館、お昼は港で海鮮。午後はそこから一気に城跡へまわり、沼津城と三枚橋城の石垣、そして北条早雲が旗揚げした興国寺城へ。最後は雨のなか富士山本宮浅間大社にお参りして帰りました。水族館から戦国の城へという、われながら振れ幅の大きい一日です。
午前 ― 駿河湾の深さを見る
沼津港深海水族館と、港の海鮮
まずは沼津港深海水族館へ。目の前の駿河湾は最深部が約二千五百メートルにおよぶ、日本でもっとも深い湾です。だからこの町には、深海の生きものを見せる水族館が成り立つ。「生きた化石」と呼ばれるシーラカンスの標本を展示していることでも知られます。
お昼は水族館のすぐ近くで海鮮をいただきました。深い海の恵みを見て、食べて、それから城跡へ向かう。同じ「駿河湾に面した土地」という一本の縁で、午前と午後がつながっている一日でした。
午後 ― 沼津の城跡へ
沼津城と三枚橋城 ― ひとつの街に重なる、二つの城
沼津の中心部、狩野川のほとりに沼津城の跡があります。ただし、正直に書いておくと城の遺構はほとんど残っていません。本丸跡は公園などになっていて、石碑と説明板が立つのみです。城跡歩きに慣れていないと、ここが城だったとは気づかずに通り過ぎてしまうでしょう。
面白いのは、この同じ場所に、時代の違う二つの城が重なっていることです。
先にあったのが三枚橋城。現地の石碑によれば、武田勝頼によって天正七年(1579)ごろこの地に築かれた城です。武田が駿河へ進出し、後北条氏と対峙するための最前線でした。徳川の世になると大久保忠佐が城主となりますが、慶長十八年(1613)に忠佐が世を去ると跡を継ぐ者がなく、翌年、城は廃されました。
それから百六十年余りを経て、安永六年(1777)、水野忠友が沼津藩主としてこの三枚橋城の跡に新たに築いたのが沼津城です。以後、水野家が幕末まで城主を務めました。
そしてもう一か所。市街地のビルの脇に、三枚橋城の石垣が復元されていました。説明板によれば、これはアゴラ沼津の北側から発見された本丸入口付近の石垣の一部を移して復元したものだそうです。戦国の城の石が、こうして街なかにぽつんと積み直されている。地味ですが、この一角だけは確かに城の手ざわりがありました。
興国寺城 ― 北条早雲、旗揚げの城
この日いちばん楽しみにしていたのが興国寺城です。国指定史跡。ここは伊勢新九郎盛時――のちの北条早雲が、今川家の家督争いを収めた功によって与えられ、大名への道を歩みはじめた城と伝えられます。関東に百年つづく後北条氏の物語は、この駿東の小さな城から始まりました。本丸跡には「北條早雲公之碑」が立っています。
現地の説明板によれば、興国寺城は愛鷹山から浮島沼に向かって張り出した尾根を利用して造られた、戦国から江戸初期にかけての城郭です。愛鷹山の麓を通る根方道と、浮島沼を縦断して海岸へ至る江道・竹田道との結節点にあたる、交通の要所でもありました。
城は土塁と空堀で区切られた本丸・二ノ丸・三ノ丸の三つの曲輪に、北側の北曲輪、谷を隔てた東の清水曲輪を加えた構成。三方は浮島沼と谷による天然の泥田沼に守られており、古絵図にはその一帯が「深田足入」と記されているそうです。足を取られて進めない湿地が、そのまま堀の代わりだったわけです。
本丸の背後、神社の裏手にそびえる北側の土塁は、西や東より一段高く築かれ、その上面の南側には石垣が施されています。これが「(伝)天守台」。発掘調査では二棟の建物の基礎石が見つかりました。ただし瓦の出土がなかったため、想像されるような天守閣が建っていたわけではないと説明板は慎重に書き添えています。それでも城下から見上げれば、とりわけ高いこの建物は象徴的に映ったことでしょう、と。









ところが慶長十二年(1607)、事件が起こりました。城の修築用の竹木を盗もうとした者を、康景の家臣である足軽が斬ってしまう。その相手が天領の農民だったことから、幕府代官・井出志摩守正次との争いとなり、家康の側近本多正純は康景に足軽を差し出すよう求めます。
しかし康景は足軽をかばい、差し出すことを拒んで城を棄て、出奔してしまいました。このため康景は改易となり、興国寺城も廃城となります。慶長十八年(1613)、相模国で世を去りました。
――部下ひとりの命と引き換えに、一万石の城を捨てた。「彼是偏無し」と呼ばれた人が最後にとった行動として、これほど筋の通った話もありません。早雲が旗揚げした城が、この人の出奔で幕を閉じたというのも、できすぎた終わり方です。
富士山本宮浅間大社 ― 雨のなか、御朱印をいただいて
興国寺城のあたりから雨が降りはじめました。城跡歩きにはつらい天気ですが、そのまま北へ走って富士山本宮浅間大社へ。駿河国一之宮にして、全国に千三百余社あるという浅間神社の総本宮です。祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)。富士山そのものをご神体とし、富士山頂には奥宮が鎮まります。
朱塗りの社殿は、徳川家康が関ヶ原の戦勝を謝して造営したものと伝わります。本殿は下層が五間×四間の社殿、その上に三間×二間の社殿を乗せた「浅間造」という独特の二重構造で、国の重要文化財です。雨に濡れた朱がいっそう鮮やかでした。
境内で足がとまったのが、弓を引きしぼる流鏑馬の騎馬像です。建久四年(1193)、源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際、この社に流鏑馬を奉納したという故事にちなむもので、いまも例祭では流鏑馬が行われます。雨のなかで見上げる馬上の武者は、どこか凛としていました。
大鳥居をくぐって、最後に御朱印をいただいて帰路につきました。水族館に始まり、武田・徳川の城、北条早雲の旗揚げの城、そして富士の神域。一日でよくこれだけ回ったものだと、車に戻ってから笑ってしまいました。
実際に歩いて感じたこと
この日いちばんの収穫は、やはり興国寺城でした。建物はひとつも建っていません。それでも土塁の高さと空堀の深さが当時のまま残っていて、城というものの骨格を、目で確かめられる城跡です。復元天守がある城もいいのですが、こうして骨だけが残っている城には、想像力を働かせる余白があります。北条早雲がここから出発したという事実を胸に置いて本丸に立つと、あの静かな広場が、ずいぶん大きな場所に思えてきました。
もうひとつ、心に残ったのが天野康景です。関ヶ原の戦功で城主になった人が、足軽ひとりを守るために城を棄てて出奔する。しかもその結果、城そのものが廃されてしまう。「彼是偏無し」と呼ばれた公平さを、最後まで曲げなかったということなのでしょう。早雲という「上がっていく人」の物語と、康景という「降りた人」の物語が、同じ城跡に並んで立っている。これを一度に見られたのは、ぜいたくな時間でした。
沼津城のほうは、正直に言えば城の遺構はほとんどありません。それでも「文政の改革」を進めた老中・水野忠成の居城だったと知って歩くと、公園の風景の意味が変わります。何も残っていない城跡ほど、説明板を丁寧に読む価値がある――そう再確認した一日でもありました。水族館で駿河湾の深さを見て、城跡で土の深さを見て、最後は雨の富士の社で手を合わせる。欲ばりでしたが、忘れがたい日帰りになりました。
この旅の道のり
- 午前 ― 駿河湾の深さを見る
- 沼津港深海水族館と、港の海鮮車で約10分
- 午後 ― 沼津の城跡へ
- 沼津城と三枚橋城ひとつの街に重なる、二つの城車で約15分
- 興国寺城北条早雲、旗揚げの城車で約1時間
- 富士山本宮浅間大社雨のなか、御朱印をいただいて
※移動時間は一般的な所要時間の目安です。撮影時刻の記録が残っていないため、時刻は省いています。
この記事で歩いた地域を、都内発の日帰り・1泊で回るコースにまとめています。









