井伊直政ゆかりの地 ― 箕輪城から高崎城、佐和山城、そして彦根城へ

徳川四天王のひとり、井伊直政(いい・なおまさ)。徳川家康のもとで頭角をあらわし、上野国・箕輪城の城主となり、自ら高崎城を築き、関ヶ原のあとに近江へ移りました。その居城をたどると、箕輪城 → 高崎城 → 佐和山城 → 彦根城という一本の線が引けます。

群馬から滋賀へ。距離は離れていますが、四つの城は前後に連なっています。前の城を捨てて次の城へ移る、その判断のひとつひとつが、いまも土と石のかたちで残っています。

このページでは、運営者が実際に歩いた箕輪城跡・佐和山城跡・彦根城を写真とともに、高崎城址は遺構の情報を中心にまとめました。出典は自治体・観光協会などの公式サイトに限り、確認できなかったことは「記載を見つけられませんでした」と書いています。(確認日:2026年9月)

直政が居城を移した順に見る

できごと 場所
15歳のとき 井伊谷周辺に勢力を広げていた徳川家康の家臣となる 遠江
天正10年(1582) 22歳。家康が旧武田領の甲斐・信濃を領する際、武田旧臣を家康配下に組み入れる取り次ぎを行う。家康は武田旧臣らを直政の配下とし、直政を侍大将に取り立てた 甲斐・信濃
天正18年(1590) 徳川氏の城となった箕輪城に入る(最後の城主) 箕輪城(群馬・高崎)
慶長3年(1598) 家康の命を受け、箕輪城主として高崎城を築城。箕輪城から城を移し、箕輪城は廃城となる 高崎城(群馬・高崎)
慶長5年(1600) 関ヶ原合戦。東軍の目付として武田旧臣らを統率 関ヶ原
関ヶ原の後 敗れた石田三成に代わって佐和山城主となる 佐和山城(滋賀・彦根)
慶長7年(1602)2月1日 佐和山城にて死去 佐和山城
慶長8年(1603) 彦根山に築城することが決定 彦根
慶長9年(1604) 彦根城の工事が始まる(井伊直継・井伊直孝) 彦根城(滋賀・彦根)
慶長11年(1606) 彦根城築城にともない、佐和山城は廃城 佐和山城
1622年 城下町が完成 彦根

出典:彦根城博物館「彦根藩主井伊家」高崎市「箕輪城跡(高崎市の文化財)」高崎市「高崎城址」滋賀県観光情報「佐和山城跡」国宝 彦根城 公式

直政の死因について、彦根城博物館は「合戦で受けた鉄砲傷が悪化したのか」と、推測のかたちで書いています。断定はされていません。石高(箕輪12万石・佐和山18万石などと言われます)も、今回あたった公式ページには記載を見つけられませんでした。数字を確かめないまま書くことは、このサイトではしないことにしています。

1. 箕輪城跡(群馬県高崎市)― 直政が最後の城主になった城

箕輪城跡/群馬県高崎市箕郷町東明屋582-6(史跡箕輪城跡駐車場)

長野氏が1500年前後に築き、4代続いた城です。永禄9年(1566)に武田信玄によって落城し、以後は武田氏(1566〜1582)、織田氏(1582)、北条氏(1582〜1590)と城主が替わり、天正18年(1590)から徳川氏の城となりました。その最後の城主が井伊直政です。

規模は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約36ヘクタール(史跡面積は約21ヘクタール)。北西から南東の尾根の上に、主要な曲輪が直線に並びます。いちばんの見どころは堀で、最大幅40メートル、深さ10メートル。歩くと、これが人の手で掘られたものだということが信じられなくなります。

昭和62年12月17日に国史跡に指定され、平成30年10月15日に追加指定。平成17年には日本百名城にも選ばれています。

箕輪城跡の碑
箕輪城跡の碑
箕輪城跡の碑(別角度)
別の角度から。木立のなかに立っています
箕輪城本丸の石標
本丸の石標。尾根の上に曲輪が並びます
箕輪城の歴史を伝える碑
城の歴史を伝える碑
井伊直政の旗と土塁
井伊直政の旗。土塁を背にはためいています
井伊直政の旗(別角度)
同じ旗を別の角度から
復元された郭馬出西虎口門
復元された郭馬出西虎口門(かくうまだしにしこぐちもん)

見学自由・無料。駐車場があります(当面の間、午後7時から翌午前7時まで閉鎖)。

出典:高崎市「箕輪城跡(観光情報)」高崎市「箕輪城跡(高崎市の文化財)」(2026年9月確認)

2. 高崎城址(群馬県高崎市)― 直政が自分で築いた城

高崎城址/群馬県高崎市高松町 城址公園内

慶長3年(1598)、徳川家康の命を受けた箕輪城主・井伊直政によって築かれた城です。箕輪城の記述と突き合わせると、同じ年に箕輪城は廃城になっています。城を捨てて、平地の新しい城へ移ったわけです。

いま残っているのは、三の丸の外囲の土居と堀、そして乾櫓(いぬいやぐら)と東門。乾櫓は、群馬県内に現存する唯一の城郭建築です。

東門は高崎市指定重要文化財(昭和55年3月11日指定)。もとは出桝形の北側(現在のシンフォニーロード付近)にあった門で、下小鳥町に移築されていたものを、昭和55年に現在の場所へ復元移築したものです。

高崎城址の写真は、運営者がまだ撮っていません。箕輪城には行きましたが、高崎城址は通過しただけでした。撮れ次第、ここに足します。

周辺に有料駐車場があります。

出典:高崎市「高崎城址(観光情報)」高崎市「高崎城東門」(2026年9月確認)

3. 佐和山城跡(滋賀県彦根市)― 三成の城に入る

佐和山城跡/滋賀県彦根市古沢町

天正18年(1590)に石田三成が城主となってからは五層の天守を構え、鳥居本を大手とする立派な城だったといわれます。三成が関ヶ原で敗れたあと、井伊直政が新しい城主になりました。

そして慶長11年(1606)、彦根城の築城にともなって廃城。石垣や建物の多くは彦根城へ運ばれ、ほかにも麓の清凉寺・龍潭寺に移築転用されました。いま佐和山城をしのばせるものは、わずかに残った石垣と、後の時代に建てられた石碑だけです。

直政が死去したのは慶長7年(1602)2月1日、この佐和山城でした。彦根城が着工するのは、その二年後です。

佐和山城趾の石柱
「佐和山城趾」の石柱
佐和山城跡の案内看板
登り口の案内看板
佐和山史跡略図
佐和山史跡略図
東山ハイキングコースの道標
東山ハイキングコースの道標。登山道です
佐和山城の西の丸跡の説明板
西の丸跡の説明板
佐和山城の西の丸(塩櫓)の説明板
西の丸(塩櫓)の説明板
佐和山城本丸跡から見下ろした彦根の市街
本丸跡から見下ろす彦根の市街。ここに五層の天守が建っていました
彦根八景 武士の夢 佐和山の碑と琵琶湖の眺め
「彦根八景 武士(もののふ)の夢 佐和山」の碑

石垣も建物も彦根城へ運ばれた城跡です。天守の跡に石垣はなく、あるのは眺めと、碑と、説明板だけ。それでも本丸まで登る価値があるのは、ここからの眺めが「なぜ彦根へ移ったのか」を教えてくれるからです。

出典:滋賀県観光情報「佐和山城跡」彦根観光協会「佐和山城跡」(2026年9月確認)

4. 彦根城(滋賀県彦根市)― 直政は見ていない城

国宝 彦根城/滋賀県彦根市

ここが大事なところです。彦根城は、井伊直政が築いた城ではありません。

慶長8年(1603)に彦根山へ築城することが決まり、工事が始まるのは慶長9年(1604)。直政が佐和山城で死去したのは慶長7年(1602)2月1日ですから、着工の二年前に亡くなっています。城を築いたのは井伊直継・井伊直孝。城下町まで含めて完成するのは1622年、約20年がかりの工事でした。

天守が国宝に指定されたのは昭和27年3月29日です。

彦根城の表門橋
表門橋。ここから登城します
彦根城の天秤櫓と廊下橋
天秤櫓と廊下橋。橋を落とせば道が切れます
彦根城の廊下橋の下から見上げたところ
廊下橋を下から見上げる
彦根城の国宝天守
国宝の天守
彦根城の西の丸三重櫓と石垣
西の丸三重櫓と石垣
彦根城の石垣
石垣。佐和山から運ばれた石も含まれると伝わります
彦根城の内堀と並木
内堀と並木
彦根城の重臣木俣屋敷跡の石柱
重臣・木俣屋敷跡の石柱
琵琶湖八景 月明 彦根の古城の碑
「琵琶湖八景 月明 彦根の古城」の碑
彦根城の天守前でひこにゃんと
天守前にて

佐和山城跡の本丸から彦根の市街を見下ろしたあと、彦根城の石垣の前に立つと、同じ石が場所を変えて積み直されたことの意味が、少しだけ分かる気がします。佐和山と彦根は、車なら十数分の距離です。

直政が家康に仕えるまで ― 遠江・井伊谷

井伊氏は遠江・井伊谷(いいのや。現在の静岡県浜松市)の一族です。直政は15歳のとき、井伊谷周辺に勢力を広げていた徳川家康の家臣となりました。

転機は天正10年(1582)、22歳のときです。家康が旧武田領の甲斐・信濃を領するにあたって、直政は武田の旧臣を家康の配下に組み入れる取り次ぎを行いました。家康は武田旧臣らを直政の配下とし、直政を侍大将に取り立てています。関ヶ原合戦で直政が東軍の目付として統率したのも、この武田旧臣たちでした。

井伊谷(井伊谷城跡・龍潭寺・井伊共保出生の井戸)には、運営者はまだ行っていません。写真もありません。ここは公式の記述だけで書いています。

出典:彦根城博物館「彦根藩主井伊家」(2026年9月確認)

一覧

場所 所在地 直政との関わり 見学 写真
箕輪城跡 群馬県高崎市箕郷町東明屋582-6 天正18年(1590)〜慶長3年(1598)城主 見学自由・無料/駐車場あり(19時〜翌7時閉鎖) あり(7枚)
高崎城址 群馬県高崎市高松町 城址公園内 慶長3年(1598)築城 周辺に有料駐車場 なし
佐和山城跡 滋賀県彦根市古沢町 関ヶ原の後に城主。慶長7年(1602)ここで死去 登山道。ハイキングの装備で あり(8枚)
彦根城 滋賀県彦根市 直政の死後、直継・直孝が築城 有料。詳細は公式で あり(10枚)
井伊谷 静岡県浜松市 井伊氏の本貫地。15歳で家康に仕える 未訪問 なし

開館時間・料金・休館日は変わります。お出かけの前に、それぞれの公式サイトでご確認ください。このページの内容は2026年9月に確認したものです。

このコースを実際に回る記事

群馬側は、運営者が歩いた記録と、都内発のモデルコースがあります。

滋賀側は実録のみです。

直政の出自にあたる遠江は、井伊直虎ゆかりの龍潭寺を含むコースがあります。

おわりに

箕輪城の土の堀は、幅40メートル・深さ10メートル。そこに八年いた直政は、慶長3年に城を捨てて、平地に高崎城を築きました。それから二年後に関ヶ原で戦い、近江へ移り、佐和山城で死にます。彦根城が建ちはじめるのは、その二年後です。

四つの城のうち、直政が実際に立ったのは三つだけ。いちばん有名な彦根城を、本人は見ていません。それでも彦根城の石垣には、佐和山から運ばれた石が混じっているといいます。

群馬と滋賀。遠く離れた二つの県に、ひとりの武将の足跡がつながって残っています。