今回は運営者(佐藤秀信)が妻とともに、出羽の国を南から北へ、そして日本海側の庄内へと縦断した2泊3日の車旅の記録です。福島城から上山城・山形城・長谷堂城へ。二日目は山寺(立石寺)から天童城・寒河江城をめぐって銀山温泉に泊まり、三日目は新庄城から最上川を下って清河神社、そして庄内藩の鶴ヶ岡城と藩校致道館へ。歩いてみてはじめて、この三日間が「最上義光」と「戊辰の庄内」という二本の糸でつながっていることに気づかされた旅でした。
1日目
福島城 ― 伊達氏の城から、板倉三万石の城へ
出発してまず向かったのは、福島県庁の建つ一角にある福島城跡。現地の説明板によれば、この地は戦国時代まで大仏城と呼ばれ、応永二十年(1413)に伊達持宗がここに立てこもって関東公方・足利持氏に背いたという記録が残り、戦国末まで伊達氏の居城だったといいます。伊達政宗の一族が拠った城が、この県庁の下にあったわけです。
秀吉の奥羽仕置ののち、木村吉清が文禄元年(1592)ごろ杉目城に移って「福島城」と改称。しかし文禄四年に秀吉の命で取り壊され、以後は上杉氏・本多氏・堀田氏と領主が目まぐるしく替わり、城のない陣屋支配が続きます。ふたたび城が整えられるのは、元禄十五年(1702)に板倉氏が信濃から三万石で入ってからでした。総面積は約25ヘクタール。天守はないものの、三万石の大名の居城としてはかなり大きな城だった、と説明板は伝えています。
上山城 ― 「奥羽の名城」と、二百年つづいた再建の宿願
県境を越えて山形へ入り、上山城(月岡城)へ。「出羽国 上山城沿革」の説明板が、これまた読みごたえのあるものでした。
はじまりは応永年間の初め(1400年前後)、羽州探題にして最上氏の祖・斯波兼頼の曾孫にあたる里見満長が虚空蔵山に築いた山城で、当時は高楯城とも亀ヶ岡城とも呼ばれたといいます。永正十一年(1514)に伊達稙宗に攻略され、いったん返還されたのちふたたび奪われますが、天文四年(1535)に満長の子孫武衛義忠が挙兵して奪還。その年に高楯城を廃し、あらためてこの天神森の地に平山城を築いたのが、月岡城――いまの上山城です。
城主は武衛氏三代、里見氏と替わり、元和八年(1622)の最上氏改易ののちは能見松平氏、蒲生氏などを経て土岐氏へ。土岐氏二代が領した十七世紀後期には城郭としてもっとも整備され、白壁の城壁をめぐらせたその姿は、二万五千石の小藩ながら「奥羽の名城」と称されたと伝わります。
ところが元禄五年(1692)、土岐氏が転封になった直後、幕府の命によって城は跡形もなく破壊されてしまいました。以後、金森氏、そして藤井松平氏三万石の十代・百七十余年にわたり、城の再建は代々の宿願であり続けましたが、一部を修復するにとどまり、明治維新まで、ついに再築されることはありませんでした。現在の三層の天守は、昭和五十七年に旧二の丸跡へ建てられた城郭風の郷土資料館です。それでも石垣の上にすっくと立つ姿は堂々としていて、青空によく映えていました。十代・百七十年の悲願が、こういうかたちで叶ったのだと思うと、少し胸が熱くなります。
山形城 ― 五十七万石の栄華と、お家騒動の幕切れ
午後は山形城(霞城)へ。まず出迎えてくれるのが、二ノ丸東大手門と、鎧兜に身を固めた最上義光の騎馬像です。指揮棒を振り上げて馬を躍らせるその姿には、説明板によれば慶長五年(1600)の長谷堂合戦――上杉方の直江兼続が率いる二万三千余の大軍を相手に、義光みずから陣頭に立って戦った、あの場面が写されているといいます。
復元された二ノ丸東大手門は、櫓門・続櫓・高麗門が枡形をなす堂々たるもので、堀の水と石垣にその姿が映っていました。ここに五十七万石――全国五位の大大名の城があった、という実感がわいてきます。
ところが、その栄華は長く続きませんでした。義光の死後に家中は二派に分かれて争い、孫の最上義俊の代、元和八年(1622)、幕府から改易を命じられます。いわゆる最上騒動です。五十七万石は近江大森一万石に落とされ、出羽の名家はここで大名としての歴史を終えました。上杉の大軍を退けた城が、二十二年後に身内の争いで消えてしまう。復元された門の大きさを見上げるほどに、その落差が胸に残りました。
長谷堂城 ― 「北の関ヶ原」、千の兵が二万を支えた城
一日目の締めくくりは、山形盆地の南西端に浮かぶ独立丘陵、長谷堂城跡へ。麓からの比高差は約85メートル、幾段もの曲輪が刻まれた、最上随一といわれた堅城です。
現地の「長谷堂城の戦い」の説明板が、実に生々しいものでした。慶長五年(1600)九月、会津の上杉景勝の重臣直江山城守兼続が精兵二万余を率いて最上領になだれこみ、十三日朝に畑谷城を攻め落とし、十四日には菅沢山に本陣を据えて長谷堂城を包囲します。守るのは義光の信頼あつい智将志村伊豆守光安と、豪勇で知られた副将鮭延越前守秀綱。その兵力はわずか千ほどでした。
それでも城は落ちず、攻防は約半月におよびます。そして九月末、関ヶ原で石田方が惨敗したという報が届く。十月一日、兼続は「戦いは、もはやこれまで」と全軍に撤退を命じました。退く直江軍を最上・伊達の軍が追撃し、長谷堂から富神山一帯は修羅の場となります。戦死者は上杉方千六百、最上・伊達方六百、あわせておよそ二千二百――山形の歴史でもまれに見る大激戦でした。
そして戦後、最上義光は二十四万石から五十七万石へ、上杉景勝は会津百二十万石から米沢三十万石へ。同じ一枚の説明板に、勝者と敗者のその後が並べて書かれているのが、なんとも雄弁でした。いまは静かな里山ですが、堀切や土塁の残る斜面に立つと、ここが「北の関ヶ原」と呼ばれる理由がよくわかります。
2日目
山寺 立石寺 ― 「閑さや」の岩山と、最上義光の御霊屋
二日目は、松尾芭蕉の『奥の細道』でおなじみの山寺・立石寺から。参道の入口には「奥の細道 立石寺」の標柱が立ち、そこから先は、切り立った凝灰岩の岩山にへばりつくように堂宇が点在します。
元禄二年(1689)、芭蕉と曾良はここを訪れ、「閑さや巌にしみ入蝉の聲」の一句を残しました。門前には二人の像が並び、参道の途中には、その句をしたためた短冊を埋めたと伝わる「せみ塚」があります。実際に登ってみると、岩と杉と苔ばかりの世界で、鳥の声さえ吸い込まれていく。あの句が「聞こえる音」ではなく「しみ入る音」を詠んだ理由が、体でわかった気がしました。
途中の弥陀洞は、長い歳月の風雨が岩を削って阿弥陀如来の姿を刻んだと伝わる岩壁。仁王門をくぐって最上部まで登ると、岩の上に五大堂と納経堂が並び、そこからは山寺の門前町と山々が一望できました。






天童城 ― 将棋駒のまちと、家老・吉田大八
山寺から北へ、天童城(天童古城)のあった舞鶴山へ。山上の記念碑によれば、足利の流れをくむ奥州斯波兼頼の孫が南北朝期に成生庄に入って里見を名乗り、天授元年・永和元年(1375)に天童山城へ移って天童氏を称したのが始まり。初代頼直から頼泰・頼氏・頼繁・頼尚・頼道・頼長・頼貞・頼久へと、二百九年にわたってこの山城に拠りました。そして天正十二年(1584)十月、頼久の代に最上義光に攻められ、難攻不落といわれた天童古城は落城します。――ここでもまた、義光です。
おもしろいのは、この日の朝までにたどってきた城が、みな同じ血筋だったことです。斯波兼頼は最上氏の祖。前日に訪ねた上山城を開いた里見満長はその曾孫、この天童氏は孫の家系にあたります。義光は、同じ斯波兼頼から分かれた一族を次々に攻め潰して、出羽をまとめあげたことになります。落城後、天童氏は伊達家の家臣・国分氏を頼って多賀城の地へ移り、伊達政宗に準一家として厚遇されたと記念碑は伝えていました。
舞鶴山の一角には巨大な「王将」の碑が立ち、桜の季節には人間将棋が行われる舞台が設けられています。天童といえば将棋駒。その駒づくりを藩士の内職として奨励したのが、幕末の天童織田藩の家老、吉田大八でした。山上には、その大八の像が静かに立っています。
寒河江城 ― 大江広元の子孫、十八代の城
続いて寒河江城跡へ。ここは鎌倉幕府の初代政所別当、頼朝の右腕といわれた大江広元の子孫――寒河江大江氏の居城でした。昭和に建てられた城跡碑には、大江氏が十八代にわたってこの地を治めたこと、そして天正十二年(1584)、最上義光に敗れて滅んだことが刻まれています。天童城が落ちたのと、同じ年です。
説明板によれば、寒河江城は三重の堀と土塁に囲まれた連郭式の方形城館で、南北約550メートル・東西約400メートル。天正四年(1576)の『寒河江大江城古絵図』には、主郭に「最上寒河江城本丸」、二の郭には重臣たちの屋敷と、城主の奥方の屋敷「御北」、そして鬼門を守る惣持寺までが描かれているといいます。城は元和九年(1623)に二の堀・三の堀が埋められて廃城となりました。
銀山温泉 ― 大正ロマンの湯の町に泊まる
二日目の宿は銀山温泉。銀山川の両岸に、木造三層四層の宿がびっしりと向かい合う、大正から昭和はじめの姿をとどめた温泉町です。あいにくの雨模様でしたが、濡れた石畳とガス灯、川の音がかえって町の風情を深くしていました。
夕食をいただいてひと風呂浴び、日が落ちてからもう一度、川沿いに出てみました。ガス灯に灯がともり、宿の窓明かりが川面に落ちる――写真で見て憧れていた景色が、目の前にありました。歴史の旅というのは城跡と説明板の連続になりがちですが、この夜だけは、ただ美しいものを見に来た気分でした。
3日目
銀山温泉の朝 ― 白銀の滝
三日目の朝は、宿を出て温泉街の奥へ。銀山川にかかる白銀の滝が、思いのほかの水量で落ちていました。銀山温泉の名は、かつてこの地にあった延沢銀山に由来します。湯の町の奥に、山を削った鉱山の記憶が残っている――そう思って見上げると、滝の音の聞こえ方も変わりました。
新庄城 ― 最上家改易の年に生まれ、庄内勢に焼かれた城
北へ走って新庄城跡(新庄公園)へ。説明板によれば、寛永二年(1625)に新庄藩初代藩主戸沢政盛が築いた城で、創建時には本丸中央に三層の天守閣、三隅に隅櫓、表御門と裏御門を構え、二の丸には役所や米倉、三の丸には多数の侍屋敷が並んでいたといいます。最上郡一円と村山郡の一部を治める六万石(のちに六万八千二百石)。戸沢氏はここで十一代・二百五十年を重ねました。
ここで年号に目がとまりました。戸沢政盛が新庄に入ったのは元和八年(1622)――前日に山形城で見た、最上家が改易されたその年です。五十七万石が解体されたあとの最上郡を与えられて生まれたのが、この新庄藩でした。山形城の落日が、そのままこの城の誕生だったわけです。
そして幕末。説明板にはこう記されていました。慶応四年(1868)七月、新庄城は庄内勢に攻められ、黒煙を吐いて焼け落ちた――。前日、天童で見た吉田大八の悲劇と、まったく同じ相手です。城内に掲げられていた在りし日の絵図は、郷土画家・尾形芦香が、自分の幼いころの記憶を古老の証言で確かめながら描いたものだそうで、焼ける前の城を知る人の目が入っている、と思うと胸に迫るものがありました。
清河神社と御殿林 ― 清河八郎と、庄内が官軍を退けた戦場
最上川に沿って庄内へ下り、庄内町清川の清河神社へ。清河八郎を祀る社です。由緒書きによれば、八郎は天保元年(1830)にこの清川村で生まれ、幼名を元司といい、十八歳で江戸に遊学して昌平黌に学び、千葉周作の玄武館で北辰一刀流の免許皆伝を受けました。安政元年(1854)には神田三河町に清河塾を開き、文武不岐の教育を掲げます。のちに幕府に浪士組を建議した――つまり新選組が生まれるきっかけをつくった人物でもあります。社殿の前には、その八郎の座像が静かに座していました。
神社のわきに広がる杉木立が、史跡「御殿林」。ここが戊辰戦争の戦場だった、というのです。説明板の記述はこうでした。奥羽鎮撫総督・九条道孝は庄内追討を布令し、副総督沢為量・参謀大山格之助(薩摩)の率いる政府軍は、四月十四日に岩沼を発し、笹谷峠 — 山形 — 天童 — 尾花沢 — 新庄 — 本合海を経て、二十四日未明に土湯へ上陸、早朝に清川の腹巻岩を占拠した――。
読んでいて、思わず声が出ました。山形 → 天童 → 新庄 → 清川。今回、三日間かけて走ってきた道順そのものです。狙って組んだ行程ではないのに、結果として戊辰の庄内戦争を、軍隊が動いたとおりの順番でたどっていたことになります。天童と新庄が庄内勢に焼かれたのも、この進軍への報復でした。
戦いそのものも生々しく残っていました。政府軍は腹巻岩の山上から清川村へ攻撃を開始。荘内軍は松平甚三郎を総大将、水野弥兵衛を士大将としてこの御殿林を中心に応戦し、急襲にいったんは苦戦して婦女子は狩川へ避難したものの、午後に援軍が到着すると奇襲で戦況を逆転、午後三時ごろには腹巻岩を奪還して政府軍を撃退しました。戦死は荘内軍十三名、政府軍十二名。
鶴ヶ岡城 ― 酒井家二百五十年、庄内藩の城
いよいよ庄内の中心、鶴ヶ岡城へ。「鶴ヶ岡城のうつりかわり」の説明板によれば、この城は古くは大宝寺城と呼ばれ、鎌倉期以来、戦国期まで庄内に君臨した武藤氏の居城でした。天正十五年(1587)に武藤氏が滅び、庄内は越後の上杉氏、ついで慶長六年に山形の最上義光の支配下に入ります。――ここでも、また義光です。慶長八年(1603)、大宝寺城は義光の隠居城として修覆され、「鶴ヶ岡城」と改称されました。
そして元和八年(1622)、最上氏が領地没収となると、信州松代から酒井忠勝が入国し、庄内十四万石(幕末十七万石)の居城として整備拡充されます。酒井氏は徳川譜代大名として明治四年まで約二百五十年庄内を治めました。戊辰戦争において新政府軍と戦い、降伏――説明板は、そう静かに結んでいます。
明治八年(1875)に城は解体され、本丸・二の丸は公園となり、本丸跡には荘内神社が建てられました。いまは堀と土塁、そしてお城稲荷の森に、わずかに当時の面影がしのばれるのみ。それでも、菖蒲の植えられた堀のおだやかな水面と、二の丸の隅に残る切り込みハギの立派な石垣を見ると、十七万石の城の骨格ははっきりと残っていました。「本丸御殿御玄関跡」の標柱が立つあたりには、酒井家の家紋を染めた幟が並んでいます。
庄内藩校 致道館 ― 「負けなし」の藩が育てた人
旅の締めくくりは、鶴ヶ岡城の三の丸跡に建つ庄内藩校 致道館。国指定史跡で、東北に現存する唯一の藩校建築です。
説明板によれば、致道館は庄内藩主酒井家九代・忠徳が士風を刷新して藩政の振興を図るために文化二年(1805)に創設した学校で、当初は鶴岡駅前通りにありましたが、文化十三年(1816)に十代・忠器によって鶴ヶ岡城三の丸(現在地)に移されました。徂徠学を基本に、孝悌忠信を重んじて庄内武士道の根源を培い、明治六年(1873)の廃校までのおよそ七十年間、多くの人材を輩出したといいます。
表御門をくぐると、講堂には「致道舘」の大扁額。館内には、庄内藩の戊辰戦争をたどる展示がありました。ここで、この旅の三日間がすべてつながりました。
戦場で敗れたのではなく、勝ちながら矛を収めた藩でした。そして降伏後、庄内には寛大な処分がくだされます。その裁定に西郷隆盛の意向がはたらいたと伝えられ、のちに庄内の人々が西郷を深く敬慕することになるのは、よく知られたところです。その武士たちを育てたのが、この致道館でした。
実際に歩いて感じたこと
この三日間には、二本の糸が通っていました。
一本目は最上義光です。山形城の騎馬像に始まり、長谷堂では直江兼続の二万余を千の兵で支えた戦場に立ち、山寺では義光の御霊屋に手を合わせました。天童城も、寒河江城も、同じ天正十二年に義光が落としています。庄内の鶴ヶ岡城でさえ、もとは義光が隠居城として改称した城でした。出羽の土地を歩くというのは、この人の足跡をなぞることなのだと、行程の後半になるほど強く感じました。そしてその最上家が、上杉との死闘を制した二十二年後に、お家騒動で消える。長谷堂で「二十四万石から五十七万石へ」と刻まれた石を見たあとだけに、その幕切れの静かさが忘れられません。
二本目は戊辰の庄内です。天童で家老・吉田大八の切腹を知り、新庄で「庄内勢に攻められ黒煙を吐いて焼け落ちた」という一行を読み、清川で官軍の進軍ルートが自分たちの走ってきた道と同じだったことに気づく。そして鶴ヶ岡城と致道館で、その「勝ち続けた敗者」の側に立ってみる。焼いた側と焼かれた側、どちらの土地にも、それぞれの言い分と犠牲がありました。歴史の教科書では一行で済んでしまう「庄内藩は降伏した」という事実の下に、これだけの重さが積もっている。
そして、この旅がいちばん教えてくれたのは、予定どおりにいかないことが旅を深くするということでした。上山では城の下が工事中で、そのかわりに足湯を楽しみました。清河八郎記念館は休館日で、しかたなく周りを歩いたら御殿林の説明板に出会い、そこでこの旅の背骨を見つけました。閉まっていた扉の外に、いちばん大事なものが立っていた。城跡めぐりというのは、そういう出会いのためにあるのかもしれません。
この旅の道のり
- 1日目福島城伊達氏の城から、板倉三万石の城へ車で約1時間
- 上山城「奥羽の名城」と、二百年つづいた再建の宿願車で約30分
- 山形城五十七万石の栄華と、お家騒動の幕切れ車で約20分
- 長谷堂城「北の関ヶ原」、千の兵が二万を支えた城一泊
- 2日目山寺 立石寺「閑さや」の岩山と、最上義光の御霊屋車で約30分
- 天童城将棋駒のまちと、家老・吉田大八車で約30分
- 寒河江城大江広元の子孫、十八代の城車で約1時間20分
- 銀山温泉大正ロマンの湯の町に泊まる一泊
- 3日目銀山温泉の朝白銀の滝車で約1時間
- 新庄城最上家改易の年に生まれ、庄内勢に焼かれた城車で約40分
- 清河神社と御殿林清河八郎と、庄内が官軍を退けた戦場車で約40分
- 鶴ヶ岡城酒井家二百五十年、庄内藩の城徒歩すぐ
- 庄内藩校 致道館「負けなし」の藩が育てた人
※移動時間は一般的な所要時間の目安です。撮影時刻の記録が残っていないため、時刻は省いています。
運営者が自分の足で歩き、現地で撮影した記録を集めたシリーズです。ほかの地域の記録もあわせてどうぞ。





































