【現地レポート】羽黒城址(犬山市)|小牧・長久手の前哨戦「羽黒合戦」の地と竹林公園

【現地レポート】羽黒城址(犬山市)|小牧・長久手の前哨戦「羽黒合戦」の地と竹林公園

愛知県犬山市の羽黒城址(はぐろじょうし)は、鎌倉時代から約380年続いた梶原氏の居城の跡です。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、前哨戦となった「羽黒合戦」で一帯が焼け、その後、羽柴秀吉が砦として改修し、山内一豊らに守らせました。いまは竹林公園として整備されています。

城跡を見に行きましたが、遺構としてはとても規模が小さい城に見えました。この記事は、これから行く方のための現地ガイドです。

羽黒城址の碑
羽黒城址の碑
目次

基本情報

所在地 愛知県犬山市羽黒
見られるもの 竹林公園、大正6年建立の碑、土塁跡といわれるもの
駐車場 あり。4〜5台くらい
トイレ ありませんでした

行く前に知っておきたいこと

説明板によると、羽黒城は小牧・長久手の戦いで秀吉の本陣になった城ではなく、前哨戦の舞台になり、そのあと秀吉が砦として改修した城です。往時を物語る遺構はほとんど残っていない、と説明板にも書かれています。

歩き方

説明板に書かれていること(羽黒城址)
羽黒城は1201年(建仁元年:鎌倉時代)頃、梶原景親(梶原景時の次男景高の子)が築いたのが始まりといわれており、織田信長に仕えて羽黒3000石の領主となった景義(景親から数えて17代目)の代まで、約380年間梶原氏の居城として栄えてきた。
この城の中核的な部分は、羽黒城古墳(前方後円墳)の墳丘や壕を利用したものともいわれるが、城主が住む館(主殿)は現興禅寺付近にあったとされる。館は梶原屋敷といわれていたが、1582年(天正10年:安土桃山時代)本能寺の変で梶原景義が殉死し、跡目を失った羽黒梶原氏は断絶したため、城も荒廃してしまった。
さらに、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いの際には、前哨戦となった羽黒合戦によって、羽黒一帯は戦火で全てを焼失してしまった。その後、城跡は羽柴秀吉によって砦として改修され、山内一豊らに守らせたが、終戦とともに廃城となり、400年以上経った現在では、往時を物語る遺構はほとんど残っていない。ただ、現在竹林となっている城址内と興禅寺庫裡の裏には、往時の土塁跡といわれるものや屋敷内で祀られていたといわれる五輪塔などが残されている。
2012年(平成24年)におこなわれた発掘調査では、古墳の痕跡を示す遺構を確認することはできなかったが、中世に構築された堀跡や土塁跡を検出した。また、出土遺物の中には、「上(たてまつる)」という墨書のある山茶碗が含まれており、祭祀に使用されたであろうこの山茶碗の存在は、中世段階においてこの地に有力者が存在したことを示す資料として注目される。そのほか、表面に布目痕が残る古代(奈良・平安時代)に属すると考えられる瓦が出土しており、中世以前の段階に瓦葺きの建物が存在した可能性がある。
なお、現在城址に建つ碑は、1916年(大正6年)に地権者の石田市五郎氏が愛知県に働きかけ、県名使用許可を得て建立されたものである。また、2009年(平成21年)より犬山市と地域住民との協働で城址にある竹藪を手入れし、竹林公園として整備された。
(右側の「羽黒城はどのような城だったか?」の要旨)鎌倉時代の城の様子は遺構や発掘調査の事例が少なく、実態は明らかではない。「法然上人絵伝」「一遍上人絵伝」などの絵巻物には、安土桃山時代のような城郭建造物ではなく、公家屋敷に準じた居住機能を重視したお屋敷的な館が描かれている。梶原氏が居城とし「梶原屋敷」とも呼ばれた羽黒城も、同時代の武士の館と同様にお屋敷的な構造であったと考えられる。また、山内一豊の生母法秀院は、この「梶原屋敷」ゆかりの人と伝えられている。

羽黒の戦い ― 小牧・長久手の戦いの前哨戦

天正12年(1584)3月13日、秀吉方の池田恒興と森長可は、家康方だった犬山城を攻め落としました。勢いに乗った森長可は、さらに南の羽黒まで兵を進めます。

これに対して、小牧山に入った家康は家臣の酒井忠次らを送り、3月17日、羽黒で森長可の軍を破りました。これが羽黒の戦い(八幡林の戦いとも呼ばれます)です。説明板にある「前哨戦となった羽黒合戦によって、羽黒一帯は戦火で全てを焼失してしまった」というのは、このときのことです。

この敗戦のあと、森長可は翌月の三河への「中入」の別働隊に加わり、4月9日、長久手で戦死しました(長久手古戦場の武蔵塚の説明板による)。羽黒は、その長可が最初に家康軍に敗れた場所でもあります。

梶原氏と山内一豊

説明板によると、羽黒城は鎌倉時代から約380年、梶原氏の居城でした。最後の城主・梶原景義は本能寺の変で殉死し、羽黒の梶原氏は絶えています。

戦いのあと、秀吉は城跡を砦に改修し、山内一豊らに守らせました。説明板の最後には、一豊の生母・法秀院は、この「梶原屋敷」にゆかりのある人と伝えられると書かれています。一豊が生まれた岩倉については、岩倉城跡と山内一豊誕生地の現地レポートで紹介しています。

参考:長久手市資料(年表:天正12年3月13日 犬山城落城、3月17日 酒井忠次らが羽黒で森長可に大勝)/現地の説明板(犬山市)

雰囲気

城跡を見に行きましたが、遺構としてはとても規模が小さい城に見えました。

よくある質問

Q.羽黒城址に駐車場はありますか?
A.あります。4〜5台くらいです。トイレはありませんでした。

Q.羽黒城は秀吉の本陣ですか?
A.いいえ。説明板によると、羽黒は小牧・長久手の戦いの前哨戦「羽黒合戦」の地で、そのあと秀吉が砦として改修しました。秀吉の本陣は楽田城です。

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