【現地レポート】清洲城(清須市)|天主閣と清洲古城跡・清洲公園、駐車場と御城印の買える場所

【現地レポート】清洲城(清須市)|天主閣と清洲古城跡・清洲公園、駐車場と御城印の買える場所

愛知県清須市の清洲城(きよすじょう)は、織田信長が那古野城から移って尾張支配の本拠とし、桶狭間の戦いに出陣した城です。信長の死後は次男・織田信雄の居城となり、小牧・長久手の戦いのころには大改修されたと推測されています。いまの天主閣は平成元年(1989)に再建されたもので、五条川の対岸には清洲古城跡公園と、信長・濃姫の像が立つ清洲公園があります。

この記事は、これから行く方のための現地ガイドです。私たちが歩いて見たことと、現地の説明板・パンフレットに書かれていることをまとめました。

清洲城の天主閣
清洲城の天主閣
目次

清洲城の基本情報

所在地 愛知県清須市朝日城屋敷1番地1(パンフレットによる)
天主閣 AM9:00〜PM4:30(入館は4時15分まで=入口の「定」による)。月曜休館(祝日・振替休日の場合は翌日)、12/29〜31休館
入館料 大人400円、小人200円(小中学生)、幼児無料(パンフレットによる)
駐車場 問題なく、けっこうある
トイレ 問題なく、けっこうある
電車 名鉄名古屋本線「新清洲」駅・JR東海道本線「清洲」駅から徒歩15分(パンフレットによる)
御城印 城から五条川をはさんだ向かい側の、お土産などを売っているところで。300円

行く前に知っておきたいこと

いまの天主閣は、平成元年に旧清洲町の町制百周年記念事業として建てられたものです。信長の時代の清須城がどこにどんな姿で建っていたのかは、正確には分かっていません。館内の展示によると、天主閣のある場所か、五条川の対岸の清洲公園のあたりに主郭があったのではないかと考えられています。天主閣だけでなく、橋を渡って対岸の古城跡と清洲公園まで歩くのがおすすめです。

歩き方

大手門と信長塀

説明板に書かれていること(清洲城 信長塀)
永禄三年(一五六〇)織田信長公が桶狭間へ出陣の途中熱田神宮に戦勝を祈願し、大勝したのでそのお礼に奉納された塀をモデルにしたものです。

天主閣の中

説明板に書かれていること(清洲城 館内展示「信長公の清須城下」)
このイラストは信長公が居城した時代の清須城とその城郭域を想像して描いたものです。信長公時代の清須城がどの位置にあったのか、正確なことはわかっていませんが、当地もしくは、五条川対岸の清洲城公園に主郭に相当する規模の建造物があったのではないかと考えられています。
信長公時代の清須城は、中世の守護の館の造りを踏襲したものであったと考えられています。館の周りには地形を利用して堀や土塁、土塀が巡らされ、屋敷の要所には監視用の櫓が建てられていたようです。このイラストは中世の守護の館や当時の主郭域と推定される場所の地形などを参考に、信長公時代の清須城を想像して描きました。
説明板に書かれていること(清洲城の「定」)
開館時間 午前九時から午後五時まで(天守閣は午後四時十五分までに入館)/休館日 月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は翌日)、十二月二十九日から十二月三十一日まで
文化広場内においては次の行為を禁じます 一、許可なく物品等の販売をすること 一、自転車・オートバイ等で乗り入れること 一、犬をつれて散歩等すること 一、タバコ等を投げ捨てること

五条川を渡って清洲古城跡公園へ

朱色の大手橋を渡ると、対岸に清洲古城跡公園があります。信長を祀る小さな社と、清洲城の概要を書いた説明板があります。

説明板に書かれていること(清洲古城跡公園「清洲城の概要」)
清洲城の始まりは、足利政権の尾張守護であった斯波義重が守護所下津城(現稲沢市)の別郭として鎌倉街道と伊勢街道が合流する要衝の清洲に築城されたと伝えられています。その後、文明八(一四七六)年に守護所下津城が戦乱で消失して以降、守護所は清洲城に移ったとされています。この時期には尾張国は守護代の織田氏が力を持つようになり、岩倉の織田氏が尾張の上四郡を、清洲の織田氏が下四郡を分割支配しました。清洲織田家当主信友が守護斯波義統を殺害したのをきっかけに、弘治元(一五五五)年、那古野城にあった織田信長は、清洲城を攻め信友を討ち清洲城に入城し、尾張支配の本拠地とします。永禄三(一五六〇)年に桶狭間の戦いに勝利すると信長は近隣の大名を次々に倒し、着々と天下統一へ歩みを進めますが天正十(一五八二)年本能寺の変により雄図半ばで、その夢は断たれます。
信長没後、天正十(一五八二)年の清洲会議の後は信長の次男信雄が尾張、伊勢、伊賀の領主となります。当初は伊勢長島に居城を構えていましたが、天正地震、木曽川洪水等を契機に本拠を清洲城に移します。この頃、清洲城は大改修が行われたと推測され、天守、居館始め門塀、三重の堀等を築き城郭の規模も東西一・六km南北二・八kmもあったといわれています。信雄以降、豊臣秀次・福島正則・松平忠吉・徳川義直という錚々たる武将が清洲城主となりましたが、慶長十五(一六一〇)年、徳川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、三年後には「清洲越し」が完了し、当時の歌として「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう。」と(…)ています。清洲越しにより清洲城は廃城となり、石垣、橋、武家屋敷などの古材は名古屋城築城に利用され、名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)は清洲城を移築したとも伝えられています。
■再建清洲城 平成元(一九八九)年「美しい歴史のまちづくり」をめざした清洲町の町制百周年記念事業として、十六世紀の戦国の世の郷土の英雄、織田信長公の居城として、かつて「東海の巨鎮」「天下の名城」と称えられた清洲城を再建しました。この清洲城は、日本古来の城郭様式を随所に取り入れ再建されました。城郭の周囲には古(…)の石積みや漆喰塀、大手門の両側には信長塀、大小の自然石を野面積みで構築した石垣、更に(…)三層四階望楼付の天主閣がそびえます。
(各行の下端が写真で少し切れているところは(…)としています)

漢文の碑は、文久二年(1862)五月の年紀がある長い碑文です。摩耗と木漏れ日で、写真から全文を読み取ることはできませんでした。

五条川沿いの石垣

説明板に書かれていること(清洲城の石垣(五条川沿いの銅板))
清洲城は、応永年間(千四百年頃)に、尾張守護職であった斯波(…)により守護所下津城(現稲沢市)の別郭として築城されたといわれて(…)。その後、文明八年(一四七六)守護所が清洲に移されると、津島などと(…)有数の都市として繁栄した。その後、織田信長、織田信雄と城主をかえ、徳川家康の命により、慶長十五年(一六一〇)「清洲越」が始まり、城下の住民や石垣、建物等(…)名古屋城へ移され清洲城は廃城となる。
復元された本石垣は、平成八年に河川事業に伴い実施された(…)により、清洲公園前の五条川右岸(現地は下流二〇〇米に銘板で(…))されたもので、清洲越直前の本丸南側の石垣と考えられる。石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた(…)と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面(積み)」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている。
「石垣の構造」:石垣を築く位置に溝を掘り、縦方向の枕木を約0.9m(半間)間隔で設置します。胴木の中央には2ヶ所臍が切られ、この上に横方向の胴木を置き梯子状に組んでいきます。枕木と胴木の間には拳大の礫を敷き詰め、横方向の胴木の前面には胴木を固定するための杭が打ち込まれています。石垣は五条川に面する軟弱な地盤の上に築かれており、石垣の崩落を防ぐためにこのような強固な基礎構造が用いられたものです。胴木の上に据えられた根石は地中に埋められ、その上に石を積み上げていきます。石垣の奥には水はけをよくし、裏側から石が崩れないように裏込めのグリ(栗)石が詰め込まれています。残存の石組は根石を含め最大で1.8mの高さです。使用されている石は濃尾流域で採れる石材を主とし、ほとんど手を加えることなく自然の石を積み上げ、石と石の間にはやや小さめの礫(間詰石)が詰め込まれています。いわゆる野面積みと呼ばれている技法です。
(銅板は腐食と退色が進んでいて、読み取れない部分は(…)としています)

清洲公園 ― 信長像と濃姫像

説明板に書かれていること(清洲公園「始まりの地 〜二人の愛と希望の丘〜」)
織田信長公天下統一の第一歩が、ここ清須から始まり、幾多の困難を乗り越え、二人の絆や支えあいにより勝利を収めた歴史の地。
信長像は1936年(昭和11)地元の篤志から寄付されたものです。甲冑をまとい清洲城から桶狭間の戦いに出陣する姿で、視線は桶狭間を向き、首にかけた数珠は、味方を大いに勇気づけたと言われています。また、濃姫像は1992年(平成4)に(株)加藤製作所様より寄贈され、2012年(平成24)の清須市誕生7周年を記念し、清洲城からここ清洲公園に移設されました。
帰蝶(濃姫)織田信長公正室【天文4年(1535)?〜慶長17年(1612)?】美濃国の戦国大名、斉藤道三を父に、明智光継の娘・小見の方を母に誕生。天文17年(1548)、政略結婚で信長公に嫁ぎます。濃姫とは「美濃から嫁入りしてきた姫」という意味です。一般には、知的で気性のしっかりした女性であり、信長公の苛烈さを和らげる良き妻であったとのイメージがありますが、これは後世描かれた小説などの影響によるもので、その実像はほとんどわかっていません。結婚後は歴史の表舞台に一切名を残さなかったせいか、病弱説や離婚説など様々な説が取り沙汰されますが、どれも根拠はありません。戦国の覇者・信長公の正室という立場にあったという事実だけが濃姫という女性の謎めいた魅力となって、人々の想像を掻き立てています。
石碑に刻まれていること(織田信長公 桶狭間出陣乃歌)
人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか
説明板に書かれていること(清洲公園の概要)
この公園は、「清洲村古城地図」(旧尾張藩文庫・名古屋市蓬左文庫蔵)により、清洲城本丸・天守台の地域西四十間半・南北百一間半を包含する約五千坪(一六、五〇〇平方米)を保存し、織田信長公顕彰を目的として大正十一年開園されたものである。
清洲城の沿革は、公園北端(東海道本線北側)天守台址に掲示してあるが、慶長十四年(一六〇九)徳川家康が尾張藩都を清洲から名古屋に遷すことをきめ、名古屋城郭と城下町の造成工事に着手し、同十五年より十八年迄の間に名古屋城の竣工と、清洲城下の町々・家々の新築移転がほぼ完了(清洲越し)清洲城は取り壊された。尾張の中心都市であった清洲は、文明十年(一四七八)以来百三十年に亘る華やかな歴史の幕をひいて名古屋に生まれ変わったのである。当時の臼引歌が残っている。「思いがけない名古屋ができて 花の清洲は野となろう」
やがて清洲の旧市街地は逐次清洲新田として開発され、清洲城天守台址約二百三十三坪(七七〇平方米)の地は、尾張藩が清洲城址として保存し、明治以来宮内省付属地とされ、現在は県有地となっている。明治十九年四月には当公園地内を貫いて東海道本線が敷設された。大正七年(一九一八)織田信長公への贈位を記念して、清洲公園建設が清洲町により計画され、設計を林学博士本多静六・田村剛両氏に依頼し、用地五千六百三十四坪(一八、五九二平方米)を買収、大正九年県費補助事業として着工、同十年工事完了、同十一年開園した。公園樹木は町内有志の寄付によるものであり、公園建設費は四万八百十九円であった。
園内には織田家の木瓜紋を型どった信長池もあり、開園以来西春日井郡随一の公園として、歴史を探訪し、風景を賞する散策の客が多く、公園の内外周辺では、春の摘み草、五條川の舟遊び、魚釣り、夏のほたる狩り、川花火、秋の古城の月見、冬の雪見など風流の余情つきぬものがあった。昭和十一年には、故竹田鍈太郎氏の寄贈により、二十六才桶狭間出陣の雄姿を模した信長公銅像(作者 杉浦藤太郎 考証 関保之助)が園内に建てられ、清洲のシンボルとなった。
その後、清洲公園の姿は、昭和三十八年の東海道新幹線の建設用地にかかったり、昭和四十七年に始まった土地区画整理事業で公園西側が拡張となったり、昭和六十二年には五條川の改修により土地が買収されたりして大きく変化し、現在は一四、三四三平方メートルとなっている。平成九・十年の二カ年の整備事業により、当初の清洲公園の姿を生かしつつ、新しい清洲公園に生まれ変わった。

帰り道に

説明板に書かれていること(清須越400年の記念タイル(銘板の一部))
「関東の巨鎮」と称され繁栄していた(…)清洲城下は、慶長15(1610)年の清須越により名古屋へ遷都され、現在に至っています。清須越から400年を迎えた平成22年、(…)誇りと愛着を理念に掲げ、記念事業を実施しました。また、翌年には清須の歴史と文(化)を広く紹介し、地域活性化を図るドラマ館を設置し、にぎわいの清須を再興しました。この記念タイルは、二年に渡る諸事業に(賛)同し、戦国の覇者となった信長公「下天の夢」に思いを馳せ、夢城主となられた皆様の(…)です。
(各行の下半分が写真に入っておらず、読めた部分だけを書いています)

御城印

清洲城の御城印は300円です。城から五条川をはさんだ向かい側の、お土産などを売っているところで買いました。「登城記念 清洲城」と日付が入っています。

よくある質問

Q.清洲城に駐車場はありますか?
A.あります。問題なく、けっこう停められました。トイレも十分あります。

Q.御城印はどこで買えますか?
A.城から五条川をはさんだ向かい側の、お土産などを売っているところで買いました。300円です。

Q.いまの天主閣は当時のものですか?
A.いいえ。平成元年(1989)に再建されたものです。信長の時代の城の位置や姿は、正確には分かっていません。

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