朝5時に家を出て、小牧・長久手の戦いの史跡を車で1日かけて回りました。長久手古戦場から始めて、岩崎城、清洲城、岩倉城跡と山内一豊誕生地、小牧山城、蜂須賀・前野の屋敷跡、そして秀吉方の羽黒城址と楽田城跡まで。強行の日帰り史跡ドライブでしたが、予定どおり全部回ることができました。
この記事では、回った順に、現地のようすと説明板の内容、駐車場とトイレ、御城印をまとめます。それぞれの場所は、くわしい現地レポートも書いています。

この日の行程
| 5:00 | 自宅を出発 |
|---|---|
| 8:50ごろ | 長久手古戦場公園(勝入塚・庄九郎塚)、長久手古戦場記念館(長久手市) |
| 9:40ごろ | 長久手城址、武蔵塚(長久手市) |
| 10:00ごろ | 岩崎城址公園(日進市) |
| 11:00ごろ | 昼食(とんかつ定食) |
| 11:50ごろ | 清洲城、清洲古城跡公園、清洲公園(清須市) |
| 13:20ごろ | 岩倉城跡、山内一豊誕生地(神明生田神社)(岩倉市) |
| 14:00ごろ | 小牧山(小牧山城・小牧山歴史館)(小牧市) |
| 15:40ごろ | 蜂須賀家屋敷跡(江南市) |
| 16:00ごろ | 前野家屋敷跡(江南市) |
| 16:30ごろ | 羽黒城址(犬山市) |
| 16:50ごろ | 楽田城跡(犬山市) |
時刻は写真の撮影時刻から書いています。
回る行程というか順番は、AI任せにせず、自分でも確認して地図を見てプランを立てたほうがよいと思います。
小牧・長久手の戦いのおさらい
現地の説明板(長久手古戦場の総合説明板、岩崎城の展示)の内容から、流れをまとめます。
- 天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れ、羽柴秀吉が後継者としての地位を固めていく
- 信長の次男・織田信雄が身の危険を感じ、徳川家康に助けを求める
- 天正12年(1584)3月、秀吉は犬山城から楽田城へ進み、家康は小牧山に本陣を置いてにらみ合う
- 池田恒興の進言で、三好秀次(のちの豊臣秀次)を大将とする別働隊が、家康の本拠・岡崎を突く「中入」作戦に出る
- 4月9日早朝、先鋒の池田恒興が岩崎城を攻め落とすが、そのあいだに家康軍が別働隊に追いつき、長久手で決戦。池田恒興・元助親子、森長可が戦死し、家康・信雄方が勝つ
- のちに秀吉は信雄と和睦し、信長の後継者としての地位を固めた
1. 長久手古戦場と記念館(長久手市)
最初に向かったのは長久手古戦場です。いまは古戦場公園として整備されていて、池田恒興の勝入塚、長男・元助の庄九郎塚が並んでいます。
池田恒興(1536〜84、庄三郎、信輝、勝入斎)の戦死地と伝えられています。恒興は美濃(岐阜県)大垣城主で、小牧・長久手の戦いの時は秀吉に味方しました。この戦いの中、小牧山(小牧市)と楽田(犬山市)で家康と秀吉が対峙した時、家康の本拠地の岡崎攻めを秀吉に進言し、自ら軍を率いて進行しました。しかし、途中で岩崎城(日進市)を攻めるのに手間取り、家康軍先遣隊に追撃の機会を与えてしまいます。結局この地で家康の本隊と会い、仏が根の戦いで戦死しました。
恒興は、天正8年(1580)入道し、勝入斎と名乗りました。塚名はこの法名にちなむものです。この塚の大きな「明治の碑(刻銘:勝入池田公戦死埊)」は、明治24年(1891)に恒興の子孫が建てました。その左横の石柱「明和の碑(刻銘:池田勝入信輝戦死場)」は、明和8年(1771)尾張藩士人見弥右衛門と赤林孫七郎が古戦場を訪れた際に建てたものです。
公園の中の長久手古戦場記念館は、真新しい建物でした。上映映像が斬新で、上から見たような地図の上に各軍の動きと合戦が表示されていて、これだと動きがものすごくよく分かりました。
トイレ:公園なので万全
御城印:記念館の売店で入場券と一緒に。合戦古戦場印500円・長久手城300円
▶ くわしくは 長久手古戦場の現地レポート
2. 長久手城址と武蔵塚(長久手市)
森長可(1558〜84、武蔵守)の戦死の場所と伝えられています。長可は美濃(岐阜県)金山城主で、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いの時は、秀吉に味方しました。舅 池田恒興らとともに、家康の拠点である岡崎を突こうとして失敗し、4月9日の仏ケ根の戦闘で戦死しました。長可は天正10(1582)年の本能寺の変で、信長とともに落命した蘭丸の兄で、勇猛果敢な武将として知られています。塚名は、長可の異名鬼武蔵にちなんで名付けられたものです。
トイレ:どちらもなし
3. 岩崎城(日進市)
長久手の戦いの朝、秀吉方の池田恒興隊に攻め落とされた城です。大きな空堀がよく残っていて、昭和62年に建てられた展望台もあります。この日は菊の展示会のような催しをやっていて、甲冑体験もありました。
岩崎城は、室町時代末の平山城である。織田信秀(信長の父)により享禄年間(一五二八〜一五三一)に築城され、その後、徳川(松平)方に奪われたのち、天文七年(一五三八)丹羽氏清が本郷城から移ったと言われ、以後、氏識・氏勝・氏次の四代に渉って慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦いの戦功により三河伊保に一万石の小名として転封されるまでの六十二年間居城しました。
天正十二年(一五八四)小牧・長久手の戦いの際に、織田信雄・徳川家康連合軍の後方攪乱を狙った豊臣秀吉方の先鋒池田恒興隊を阻止して、城代丹羽氏重(傍示本城主)以下三〇〇余名が討ち死したことが織田・徳川軍を勝利に導いたと伝えられています。
城郭は、本丸、二の丸、東・西曲輪およびそれらを取り囲む堀や土塁等がよく遺存しており、昭和五十九〜六十一年度までの発掘調査の結果貴重な資料が多数出土しました。
トイレ:あり
御城印:展望台の横の記念館で300円
▶ くわしくは 岩崎城の現地レポート
昼食
11時ごろ、途中でとんかつ定食を食べました。

4. 清洲城・清洲古城跡・清洲公園(清須市)
信長が尾張統一の本拠とし、信長の死後は信雄の居城になった城です。いまの天主閣は平成元年の再建。五条川の対岸には古城跡公園と、信長・濃姫の像が立つ清洲公園があります。
永禄三年(一五六〇)織田信長公が桶狭間へ出陣の途中熱田神宮に戦勝を祈願し、大勝したのでそのお礼に奉納された塀をモデルにしたものです。
トイレ:問題なく、けっこうある
御城印:城から五条川をはさんだ向かい側の、お土産などを売っているところで300円
▶ くわしくは 清洲城の現地レポート
5. 岩倉城跡と山内一豊誕生地(岩倉市)
尾張上四郡を治めた織田伊勢守家の城の跡と、山内一豊が生まれたとされる神明生田神社です。御城印と御朱印は神社の本殿に置いてあって無人。お金を自分で入れる方式でした。
岩倉城は文明十一年(一四七九)頃織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。敏広はこの城によって、尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、下四郡(愛知・智多・海東・海西)を支配する清洲城の織田大和守敏定に対し武威を示し、当時の尾張では清洲城と並んで、もっとも重要な城であった。
城跡は東西約九一m、南北約一七一m、標高一〇m台地にあって、内外二重堀があったといわれ、城跡の南側には外堀とか丸の内といった地名も残されている。
岩倉城は弘治三年(一五五七)織田伊勢守信安が末森城主織田信行(信長の弟)と同盟を結んでいたということで、信長に攻められ、その後、永禄元年(一五五八)の浮野合戦で敗れ、翌二年三月遂に落城した。
本丸跡の「織田伊勢守城址」の碑は安政七年(一八六〇)に建てられたものである。
トイレ:どちらもなし
御城印・御朱印:神明生田神社の本殿に置いてあり無人。どちらも300円
▶ くわしくは 岩倉城跡と山内一豊誕生地の現地レポート
6. 小牧山城(小牧市)
信長が清須から移った城で、小牧・長久手の戦いでは家康・信雄の連合軍が改修して本陣にしました。北駐車場に停めて、本道ではなく脇の登山道のようなところから登り、途中で本道に出ました。けっこう登るのが大変でした。山頂からは平野全体が見渡せて、とても感慨深い眺めです。遠くに小さく岐阜城も見えました。
戦国時代〜織田信長が築いた小牧山城〜永禄期
今から450年ほど前の永禄6年(1563)、織田信長は、美濃攻略の戦略拠点として小牧山城を築き、清須城から居城を移した。また、信長は、小牧山南麓に城下町を計画的に整備した。4年後に美濃の斎藤龍興を攻略して稲葉山城(岐阜)へ移ると、小牧山城は廃城となるが、その間、小牧は城下町として栄えた。
安土桃山時代〜徳川家康が改修した小牧山城〜天正期
織田信長が小牧を去って17年後の天正12年(1584)3月に、小牧・長久手の合戦が起こり、犬山方面から南下する豊臣秀吉軍に対抗して、織田信雄・徳川家康連合軍が小牧山城跡を改修し本陣とし、約8か月にわたり対峙した。徳川家康は小牧山城の土塁を高め、堀を深くするなどの防御工事をわずか5日間で完成させている。現在、小牧山に残る城の遺構は全体的に統一のとれた姿で、この時(天正期)の小牧山城の姿と考えられる。
トイレ:たくさんある
御城印:山頂の歴史館入口の自販機で、入場券と一緒に300円
▶ くわしくは 小牧山城の現地レポート
7. 蜂須賀家屋敷跡(江南市)
宮後八幡社の境内を含め、東西六十間・南北八十間(一間は約一・八m)という広大な屋敷であった。この屋敷は旧宮後城で土岐氏が美濃・尾張を領有していた応永(一三九四〜一三九八)のころ尾張を治める要地として安井氏が守っていた城であった。
天文年間の後半、蜂須賀小六は母が安井氏の娘であったので故あって母の在所に住むことになり、木曽川の川並を支配した。尾張国地名考に宮後村は「この村に蜂須賀小六の屋敷跡あり」と記し、昭和四十三年頃までは「小六屋敷」といわれ、外堀・古井戸も残っていたが都市化の波に抗しきれずその跡もない。今は県道江南・犬山線沿いに「蜂須賀家政公生誕地」という石碑が残っているのみである。
蜂須賀氏のほかに、戦国時代の武将浅野長政は安井弥兵衛の長子としてここで生れているという。後に叔父の浅野又右衛門の養子となり、ねね(秀吉の室)の妹ややを妻とした。(武功夜話・張州府志より)
あれだけの人物にしては、ひっそりと石碑と看板だけがありました。
トイレ:なし
▶ くわしくは 蜂須賀家屋敷跡の現地レポート
8. 前野家屋敷跡(江南市)
説明板によると、昭和34年の伊勢湾台風で被害を受けた土蔵の整理中に、『武功夜話』などの文書が見つかったそうです。
前野家の屋敷には、いまも人が住んでいます。おそらくご子孫の方だと思います。写真を撮っても平気かなぁと心配になり、かなり気をつかいながら撮影しました。
トイレ:なし
▶ くわしくは 前野家屋敷跡の現地レポート
9. 羽黒城址(犬山市)
説明板によると、小牧・長久手の戦いの前哨戦「羽黒合戦」で一帯が焼け、その後、秀吉が砦として改修して山内一豊らに守らせた城です。
トイレ:なし
▶ くわしくは 羽黒城址の現地レポート
10. 楽田城跡(犬山市)
楽田城が建てられた正確な時期はわかっていませんが、少なくとも永正14年(1517)には存在していたようです。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、小牧山城を本陣(総大将の陣地)とした徳川家康・織田信雄軍に対抗して、羽柴秀吉軍は楽田城を改修し、本陣として使いました。
江戸時代の記録によれば、楽田城の中心部は南北が54間(約98メートル)、東西が40間(約73メートル)で、周りは土塁と二重の堀で囲まれていました。土塁の高さは最高で4間(約7.2メートル)、堀の幅は最大22間(約40メートル)ありました。
城の中心部は現在、楽田小学校の敷地となっています。周囲は住宅地になっていますが、1960年代までは堀の形に沿って水田が広がっていました。小学校の周りを囲んでいる曲がりくねった道は、かつての堀の形をあらわすもので、楽田城の大きさが感じられます。
トイレ:なし
楽田城、羽黒城は城跡を見に行きましたが、遺構としてはとても規模が小さいお城に見えました。ここに秀吉が本陣を置いたとは、とても思えませんでした。
▶ くわしくは 楽田城跡の現地レポート
御城印・御朱印のまとめ
| 長久手古戦場(合戦古戦場印) | 500円。長久手古戦場記念館の売店で入場券と一緒に |
|---|---|
| 長久手城 | 300円。同上 |
| 岩崎城 | 300円。展望台の横の記念館で |
| 清洲城 | 300円。城から五条川をはさんだ向かい側の、お土産などを売っているところで |
| 岩倉城址 | 300円。神明生田神社の本殿(無人・お金を自分で入れる) |
| 神明生田神社(御朱印) | 300円。同上 |
| 小牧山城 | 300円。山頂の小牧山歴史館入口の自販機で、入場券と一緒に |
まとめ
朝5時に出て、11か所を予定どおり回れました。帰りは奇跡的に渋滞がなく、運転が楽でした。
難しい注文だと思いますが、やっぱり再建するにしても、当時の設計に忠実に、木材を使用して再建してくれたら嬉しいなと思いました。
































































