【現地レポート】岩倉城跡と山内一豊誕生地(岩倉市)|神明生田神社の無人の御城印・御朱印

【現地レポート】岩倉城跡と山内一豊誕生地(岩倉市)|神明生田神社の無人の御城印・御朱印

愛知県岩倉市の岩倉城跡(いわくらじょうあと)は、尾張の上四郡を治めた織田伊勢守家の城の跡です。清洲の織田大和守家と並ぶ尾張の要の城でしたが、永禄2年(1559)に織田信長に攻め落とされました。すぐ近くの神明生田神社は、のちに土佐20万石の大名となる山内一豊の誕生地とされています。どちらも住宅地の中の小さな史跡です。

この記事は、これから行く方のための現地ガイドです。私たちが見たことと、現地の説明板に書かれていることをまとめました。

「山内一豊公誕生地」の碑
「山内一豊公誕生地」の碑
目次

基本情報

所在地 愛知県岩倉市。岩倉城跡と、近くの神明生田神社(山内一豊誕生地)
見られるもの 岩倉城跡の碑と説明板、山内一豊誕生地の碑、「功名が辻」放映記念碑
駐車場 岩倉城跡・神明生田神社とも、ありませんでした
トイレ どちらもありませんでした
御城印・御朱印 神明生田神社の境内、本殿に置いてあり無人。お金を自分で入れる。岩倉城の御城印・神社の御朱印とも300円

行く前に知っておきたいこと

岩倉城跡と神明生田神社は近く、私たちは写真の時刻で7分ほどで移動しました。どちらも駐車場とトイレがないので、事前に済ませておくのがおすすめです。御城印と御朱印は神社の本殿に置いてあり、人はいません。お金を自分で入れる方式なので、小銭を用意して行くと安心です。

岩倉城跡

説明板に書かれていること(岩倉城跡・昭和四九年二月一五日市指定・岩倉市教育委員会)
岩倉城は文明十一年(一四七九)頃織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。敏広はこの城によって、尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、下四郡(愛知・智多・海東・海西)を支配する清洲城の織田大和守敏定に対し武威を示し、当時の尾張では清洲城と並んで、もっとも重要な城であった。
城跡は東西約九一m、南北約一七一m、標高一〇m台地にあって、内外二重堀があったといわれ、城跡の南側には外堀とか丸の内といった地名も残されている。
岩倉城は弘治三年(一五五七)織田伊勢守信安が末森城主織田信行(信長の弟)と同盟を結んでいたということで、信長に攻められ、その後、永禄元年(一五五八)の浮野合戦で敗れ、翌二年三月遂に落城した。
本丸跡の「織田伊勢守城址」の碑は安政七年(一八六〇)に建てられたものである。
説明板に書かれていること(岩倉城(城跡)へのご案内・いわくら塾 観光ボランティア事業)
標高8〜10mの自然堤防上に立地する岩倉城は、文明の頃、織田敏広により築かれ、尾張上半国支配の拠点として約80年間栄えました。永禄2年(1559)に織田信長により攻められ、落城した岩倉城跡からは、城の規模などが、推定ではあるが、一部解明されました。
昭和62年度から3年間にわたり、愛知県埋蔵文化財センターにより発掘調査がされ、6条の堀跡などが、古文書の記述とだいたい一致しました。しかし、調査面積は、城跡推定地からすれば、ほんの一部であり、今後に期待されるところであります。ただ、従来の通説を覆して、五条川東岸まで城跡が広がる遺構も検出され、強固な城であったことがわかりました。堀幅は20mを超え、深さも3m以上もある大規模な堀跡も確認されております。外堀や内堀からは、前述の発掘調査で椀や皿、中国製の青磁や白磁、貯蔵具の常滑焼の瓶や桶などが見つかっております。珍しいものでは、つげの櫛や下駄、茶道具、呪術関係資料として、獅子頭、人形、呪符木簡など、注目されるものも発掘されております。
古文書では、岩倉城攻めの記録で、「信長は二の丸まで押し詰めて‥」と記述されております。城郭の細部については、「北角より古川の水を引き入れ、堀割とし、西口大門には土塁のみ、本丸館は宏大なり。平屋造りで、間口21間(約38m)、奥行13間(約23m)の望楼二重にそびえた大屋根、三里先より望む」と注目すべき記述があります。信長は岩倉城を攻略し、その翌年に桶狭間で戦勝、小牧山城、安土城へと天下統一へと進むことになります。

山内一豊誕生地(神明生田神社)

説明板に書かれていること(山内一豊誕生地・昭和四十九年十一月十五日市指定・岩倉市教育委員会)
山内一豊は天文十四(一五四五)年、岩倉城の家老山内但馬守盛豊の二男として、この地に誕生した。
大正八(一九一九)年二月神明生田神社の遷座式に一枚の棟札が発見され、これが一豊のこの地での誕生の有力な資料となり、山内家では史家沼田頼輔文学博士に調査を行なわせ、岩倉のこの地を一豊誕生の地と認め、ここに贈従三位山内一豊公誕生地の碑を建てた。
父・盛豊は岩倉城落城(永禄二年三月)のとき戦死。一豊十五歳の時であった。その後、一豊は家臣の五藤浄基が供で母や弟妹と共に刈安賀の城主浅井新八郎政高の許に身を寄せ、しばらくして牧村政倫のもとに寄寓。ついで山岡景隆に仕え、永禄十(一五六七)年〜元亀元(一五七〇)年頃織田信長に仕える。天正十二(一五八四)年には近江長浜で五千石の領主となり、同十八(一五九〇)年、遠州掛川に移封六万石の領主となった。秀吉の死後、徳川家康に味方し、慶長五(一六〇〇)年、四国土佐で二十万二千六百石の領主となり、高知城を築城。そして五年後の慶長十(一六〇五)年九月二十一日、一豊没す。享年六十一歳。
記念碑に刻まれていること
NHK大河ドラマ「功名が辻」放映記念碑 放映日 平成18年1月8日〜平成18年12月10日 主演 上川隆也(一豊) 仲間由紀恵(千代) 山内一豊公出生のまち いわくら
説明板に書かれていること(五条川沿いの銘板「山内一豊」・岩倉市)
天文14年(1545)岩倉城主織田伊勢守の家老山内盛豊の第二子として誕生。盛豊死後、15歳で美濃を浪々し、後、豊臣秀吉に従い天正18年(1590)に掛川6万石の城主となった。秀吉の死後は徳川家康に味方し、慶長5年(1600)土佐20万石の領主となって高知城を築城した。慶長10年(1605)没。61歳。

御城印・御朱印

神明生田神社の境内、本殿に置いてあります。無人で、お金を自分で入れる方式でした。岩倉城の御城印も、神社の御朱印も300円です。御城印には「岩倉城主織田伊勢守信安・山内一豊公由縁」と書かれています。

よくある質問

Q.岩倉城跡に駐車場はありますか?
A.ありませんでした。神明生田神社にもありません。トイレもどちらもありませんでした。

Q.岩倉城の御城印はどこで買えますか?
A.神明生田神社の本殿に置いてあり、無人でお金を自分で入れます。300円です。

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