群馬県高崎市倉渕町水沼の烏川(からすがわ)の河原は、2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公・小栗上野介忠順が、慶応4年(1868年)閏4月6日、取り調べもないまま新政府軍に斬られた場所です。いまは顕彰慰霊碑が建ち、高崎市の史跡「小栗上野介忠順終焉の地」になっています。
この記事は、これから水沼河原を訪ねる方のための現地ガイドです。私たち夫婦が実際に訪ねて確かめた、碑への行き方、車の停め方、足元、そして行く前に知っておいてほしいことをまとめました。

水沼河原(小栗上野介終焉の地)の基本情報
| 所在地 | 群馬県高崎市倉渕町水沼(烏川の河原、水沼橋のたもと) |
|---|---|
| 史跡 | 高崎市指定史跡「小栗上野介忠順終焉の地」 |
| 見学 | 自由・無料 |
| 駐車場 | 2〜3台ほど(水沼橋の途中から土手へ降りる道の先) |
| 道幅 | 普通車で大丈夫。ただしすれ違いは無理。意外と坂になっている |
| 碑まで | 駐車場から歩いて1分ほど。歩きやすい |
| トイレ | なし。東善寺で済ませておくと安心 |
行く前に知っておきたいこと
誰が、なぜ小栗を斬ったのか
小栗上野介は、遣米使節として日本人で初めて世界を一周し、帰国後は勘定奉行などを務めて横須賀製鉄所を造った幕臣です。新政府軍との徹底抗戦を主張して罷免されたあと、領地の権田村へ移り、静かに暮らそうとしていました。武器も新政府軍に差し出し、まったく抵抗していません。
それでも小栗は捕らえられ、慶応4年閏4月6日の朝、この河原で斬首されました。斬首を命じたのは、新政府軍の東山道軍の若い軍監、原保太郎と土佐藩出身の豊永貫一郎だと伝わっています。
そして斬られたのは、小栗一人ではありません。家臣の荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎の三人も、小栗とともにここで斬られました。東善寺には、この三人の墓もあります。
新政府軍がなぜ小栗を斬ったのかは、姉妹サイト「幕末歴史ガイド」の水沼河原とは ― 「罪なくして此所に斬らる」の碑の前で考えた、なぜ小栗は斬られたのかでくわしく考えています。
本当の処刑の場所は、もう少し川の流れのほう
いまの碑は土手のそばに建っていますが、実際に小栗たちが斬られたのは、もう少し川の流れに近いあたりだったそうです。当時は、いまのような土手はありませんでした。碑の前に立ったら、少し川のほうに目を向けてみてください。
「権田村」はいまの高崎市倉渕町
小栗上野介が隠棲し、最期を迎えた「権田村(ごんだむら)」という村は、いまはありません。地図で探すと「群馬県高崎市倉渕町権田」。村の名前は、町の中の地名として残っています。
江戸時代、権田村は上野国群馬郡の村で、旗本・小栗家の知行地(領地)の一つでした。東善寺の説明板によると、小栗家の知行地は合わせて約2,500石あり、そのうち権田村の石高は約370石。小栗はここを、江戸を離れて暮らす土地に選んだのです。
じつは、小栗が斬られた水沼村は、権田村とは郡がちがい、碓氷郡に属していました。江戸時代のはじめの寛永8年(1631年)には幕府の直轄地(幕府領)だったと記録されています。東善寺から終焉の地の河原までは車ですぐですが、江戸時代の感覚では「となりの郡の村」だったわけです。
| 江戸時代 | 上野国群馬郡 権田村(小栗家の知行地)。水沼村は碓氷郡 |
|---|---|
| 明治22年(1889年) | 町村制で村々がまとめられ、西群馬郡倉田村と碓氷郡烏淵村(うぶちむら)ができる |
| 明治29年(1896年) | 西群馬郡と片岡郡が合わさって群馬郡に |
| 昭和30年(1955年)2月1日 | 倉田村と烏淵村が合併して群馬郡倉淵村に。村名は二つの村の名前を組み合わせたもの |
| 平成8年(1996年)7月1日 | 表記を「倉淵村」から「倉渕村」に改める |
| 平成18年(2006年)1月23日 | 箕郷町・群馬町・新町とともに高崎市に編入。いまの「高崎市倉渕町権田」「倉渕町水沼」に |
小栗が暮らした権田村は、村の名前としては明治22年に消え、倉田村、倉淵村、倉渕村と名前を変えながら、いまは高崎市の一部になっています。それでも「権田」という地名は、150年以上たったいまも、東善寺の住所にしっかり残っています。
出典:群馬県「市町村名変遷一覧」、総務省・e-Stat「市町村の廃置分合」、東善寺の高崎市教育委員会の説明板、コトバンク「水沼村」
碑への行き方
碑は、烏川に架かる水沼橋のたもとにあります。迷う心配はほとんどありません。河原に、遠くからでも目に入る大きな石碑と囲い、そして小栗家の家紋の旗がはためいているので、「あれは何だろう」と自然に目が向きます。
車で行く場合は、水沼橋を渡る途中に、土手へ降りられる道があります。普通車で大丈夫ですが、道は狭く、すれ違いはできません。また、意外と坂になっているので、ゆっくり降りてください。降りた先に2〜3台ほど停められる場所があります。
車を停めれば、碑はもうすぐそこに見えています。歩いて1分ほどで、足元も歩きやすい道でした。
ここは見逃さないで
もちろん、碑に刻まれた文字です。顕彰慰霊碑には「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と刻まれています。風雨で文字はかなり薄れていますが、近づくと読み取れます。手前の白い標柱には「高崎市指定史跡 小栗上野介忠順終焉の地」とあります。
そして、碑のまわりにひるがえる小栗家の家紋の旗。いまもこの地で小栗を大切に思う人たちがいることが伝わってきます。
「罪なくして」と、はっきり刻まれていることにしびれました。大宮の普門院には、首塚と伝わる、何も刻まれていない自然石があります。当時は「賊軍」「逆賊」とされ、名前を刻むことさえできなかったのでしょう。何も刻めなかった石と、「罪なくして此所に斬らる」と刻んだ石。両方を見ると、小栗がどう見られてきたのかがよく分かります。
河原の雰囲気
河原は静かで、烏川の水の音がけっこう聞こえていました。まわりには田んぼと山が広がる、とてものどかなところです。160年近く前にここでそんな惨事があったとは、とても思えません。
私たちは午前の早い時間に行ったので、ほかに人はいませんでした。ただ帰り道、この河原が見える場所で赤信号で止まっていると、若い男性数人のグループが碑を見に来ていました。大河ドラマを前に、訪れる人が増えているのを感じました。
よくある質問
Q.碑の場所はすぐ分かりますか?
A.分かります。水沼橋のたもとの河原に、大きな石碑と囲い、小栗家の家紋の旗があり、遠くからでも目に入ります。
Q.車で行けますか?
A.行けます。水沼橋の途中から土手へ降りる道があり、普通車で大丈夫です。ただし道が狭くすれ違いはできず、意外と坂になっています。駐車は2〜3台ほどです。
Q.トイレはありますか?
A.ありません。近くの東善寺で済ませておくと安心です。
Q.小栗はここで一人で斬られたのですか?
A.いいえ。家臣の荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎の三人も、小栗とともに斬られました。
Q.碑の場所が、実際に斬られた場所ですか?
A.実際の処刑の場所は、いまの碑より少し川の流れに近いあたりだったそうです。当時は今のような土手がありませんでした。
あわせて回るなら
おすすめは、東善寺を先に訪ねてから、水沼河原へ向かう回り方です。東善寺の遺品館で、小栗が最期の朝に乗せられた「捨て駕籠」や、小栗の生涯を知ってからこの河原に立つと、より深く感じるものがあるはずです。私たちは水沼河原 → 姉妹観音 → 東善寺 の順に回りましたが、もう一度行くなら東善寺のあとにここへ来たいと思います。
| 東善寺 | 高崎市倉渕町権田169。小栗が眠る寺。遺品館と裏山の本墓。東善寺の現地レポート |
|---|---|
| 姉妹観音 | 高崎市倉渕町岩氷付近。小栗家の用人・塚本真彦の家の幼い姉妹を悼む観音像。駐車3〜4台・トイレなし。姉妹観音の現地レポート |
| 観音山(小栗邸跡) | 高崎市倉渕町権田3584。小栗が屋敷を建てようとしていた山。山頂に4台ほど・トイレなし。観音山の現地レポート |
| 小栗又一の墓 | 高崎市下斎田町335。翌日に高崎で斬られた養子・又一の墓。駐車2〜3台・トイレなし |







