愛知県小牧市の小牧山城(こまきやまじょう)は、永禄6年(1563)に織田信長が清須から居城を移した城です。信長は4年後に岐阜へ移りますが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康・織田信雄の連合軍がこの城跡を改修して本陣にし、楽田城に本陣を置いた秀吉軍とにらみ合いました。いまは山全体が史跡公園で、山頂には小牧山歴史館が建っています。
この記事は、これから行く方のための現地ガイドです。私たちが北駐車場から歩いて見たことと、現地の説明板に書かれていることをまとめました。

小牧山城の基本情報
| 所在地 | 愛知県小牧市堀の内一丁目1番地(パンフレットによる) |
|---|---|
| 駐車場 | たくさんある。私たちは小牧山北駐車場に停めた。2時間まで無料(その後は30分100円=パンフレットによる) |
| トイレ | たくさんある |
| 小牧山歴史館 | 午前9時〜午後4時30分(最終受付4時15分)。第3木曜休館(祝日の場合は翌日)、12/29〜1/3休館。一般200円(れきしるこまきと共通)、18歳以下無料。1階は無料 |
| 御城印 | 山頂の小牧山歴史館の入口の自販機で、入場券と一緒に。300円 |
行く前に知っておきたいこと
いま小牧山に残る土塁や堀の多くは、小牧・長久手の戦いのときに家康が改修した姿だと考えられています。一方で、山頂の石垣や大手道の下からは、信長の時代の遺構も見つかっています。説明板には「永禄期(信長)」と「天正期(家康)」のどちらの話かが書き分けられているので、そこを意識して読むと面白くなります。
私たちは北駐車場から山に入りました。本道からではなく、脇の登山道のようなところから登って、途中から本道に出ました。けっこう登るのが大変でした。写真の時刻では、北側の説明板から山頂の歴史館まで30分ほどです。
戦国時代〜織田信長が築いた小牧山城〜永禄期
今から450年ほど前の永禄6年(1563)、織田信長は、美濃攻略の戦略拠点として小牧山城を築き、清須城から居城を移した。また、信長は、小牧山南麓に城下町を計画的に整備した。4年後に美濃の斎藤龍興を攻略して稲葉山城(岐阜)へ移ると、小牧山城は廃城となるが、その間、小牧は城下町として栄えた。
安土桃山時代〜徳川家康が改修した小牧山城〜天正期
織田信長が小牧を去って17年後の天正12年(1584)3月に、小牧・長久手の合戦が起こり、犬山方面から南下する豊臣秀吉軍に対抗して、織田信雄・徳川家康連合軍が小牧山城跡を改修し本陣とし、約8か月にわたり対峙した。徳川家康は小牧山城の土塁を高め、堀を深くするなどの防御工事をわずか5日間で完成させている。現在、小牧山に残る城の遺構は全体的に統一のとれた姿で、この時(天正期)の小牧山城の姿と考えられる。
歩き方
北の麓 ― 帯曲輪地区
永禄6年(1563)、織田信長は、清須から小牧山に居城を移し、新しい尾張の政治経済の中心地として城と城下町を整備しました。信長は、小牧山の山頂に2〜3段の石垣を築くとともに、山頂から麓まで多数の曲輪を設けて、山全体を城としました。しかし、その4年後、信長は岐阜へ移り、小牧山城は廃城となり城下町も衰えました。
信長が岐阜へ去った17年後の天正12年(1584)には、小牧・長久手の合戦が起こります。犬山から清須をめざして攻め込もうとする羽柴秀吉の軍勢に対して、徳川家康と織田信雄の軍勢は、信長の城跡に山麓を取り巻く堀や土塁を築くなどの大改造を行い、堅固な陣城を築きました。両軍は、にらみあいを続けましたが、小牧付近では大規模な合戦は起こらず半年後には両軍ともに撤退し、小牧山城は、その後、使われることはありませんでした。
小牧山の北から東の麓は、帯曲輪地区と呼ばれています。山全体を取り巻く土塁のすぐ内側にあたり、細長い平地が分布し、多数の軍勢を収容する機能がありました。これは小牧・長久手の合戦のときの姿で、信長の城であったときは、堀で区画された武家屋敷が配置されていました。整備工事では、小牧・長久手の合戦当時の土塁や曲輪の姿を復元しましたが、信長の時代の武家屋敷の堀や井戸も一部復元しています。
山頂へ ― 岩盤に築いた石垣と花崗岩の巨石
大手道から頂上の主郭(曲輪001)に到る主郭地区の史跡整備に向けて、遺構の遺存状況を確認するため、平成16〜19年度にわたり4次の試掘調査を実施しました。
曲輪001を取り巻くように設けられた上段の曲輪021と曲輪023(現在地)を画する崖状の法面の調査では、小牧山の岩盤層の切り立ちの上に築かれた石垣を確認することができました。
近世城郭に多い水堀の底から立ち上がる平城の高石垣は、松の胴木を松丸太留めした上に基礎の根石を据え、間石を詰めながら積み石を組んでいきますが、ここでは、小牧山の自然の地形を活かし、岩盤を基礎としてその上に積み石をしたり、切り立つ露出した岩盤の崖そのものを石垣に見立てていたようです。石垣は、一部で2段の積み石が残っていたのみで、天端石は失われていました。
石垣の上段となる曲輪021の端部は、黒色土と砂礫層(岩盤が2〜5cm大に細かく砕かれたもの)が交互に積まれて造成されていました。曲輪023の崖際では、裏込石として使われていたと考えられる大量の礫(丸礫、角礫とも)の堆積を検出しました。
正面にある花崗岩の巨石は、小牧山城の主郭(山頂部)の大手(表)虎口の開口部にあたるこの位置に、石垣構築時に据えられたもので、小牧山の北側約3kmにある岩崎山から搬入された可能性があります。現在は二石に割れていますが、当初は約2m四方の立方体状の一つの石でした。西側(奥側)の石垣とつながっていたと考えられますが、どのようなつながり方をしていたか不明です。
なお、花崗岩が割られたのは、慶長15年(1610)に始まった名古屋城築城にあたり搬出するために割られたと考えられ、矢穴や○に十字の刻印などが残っています。
山頂の小牧山歴史館と主郭
開館時間 午前9時〜午後4時30分(最終受付 午後4時15分)/休館日 第3木曜日(祝日と重なった場合はその翌日)、年末年始(12月29日から1月3日)/入場料(1階は無料で入場いただけます。)小牧山城史跡情報館(れきしるこまき)との両館共通入場券【一般】200円【団体】(30名以上)100円 18歳以下無料
主郭(城の中心部)のこの場所は、台形状に外側に張り出しています。発掘調査により、この形状は大規模な盛土をして造られたこと、また、この下にある1段目の石垣(石垣Ⅰ)は、他に比べて大きな石材を用いて造られていることがわかったことから、ここには建物があったと考えられています。
この場所から北西方向を見下ろすと、北側から曲輪002へと続く現在の園路があり、曲輪002に差し掛かる部分の園路の両側には石垣が配置されています。その部分は主郭へ至る登城路の虎口(城の出入口)であった可能性があり、登城経路は、現在の園路とやや方向が違い、石垣に沿った経路であったと考えられます。
山頂からの眺望は、平野全体が見渡せて、とても感慨深いものでした。遠くに岐阜城を見ることもできました! 小さかったですが。
大手道を下る
小牧山城の大手道は、南麓の大手口から中腹まで真っ直ぐに延び、東側へ右折れした後、「コ」の字型の屈曲を繰り返して山頂の主郭に至ります。ここは、中腹で右折れした後3回目の屈曲部分で、北側(右側)と東側(後方)は人工的に切り立てられた岩盤とその上に積まれた石垣に、南側(左側)は道下の石垣によって画されています。発掘調査により、この部分の幅員は6〜7mであったこと、路面の一部には、砂礫を主とする土を岩盤面の上に敷き、現代の浸透性舗装のように水はけを考慮していたところがあったことを確認しています。
前方の溝の南側の土盛りは、小牧・長久手の合戦時に築かれた土塁を復元したものです。発掘調査では、主郭下の石垣が崩れた際に流れ出た石垣石材が、この土塁にせき止められている状況を確認しています。
本来の大手道の経路は、緑色の矢印の位置と考えられます。整備では、転落石を現位置で残すこととしたため、本来の経路とは違う位置に園路を設けています。
石垣は、大部分が新しい石材を補充して復元したものですが、石垣下の切り立てられた岩盤面は石垣構築時に加工されたままの面を出しています。
大手道から頂上の主郭(曲輪001)に到る主郭地区の史跡整備に向けて、遺構の遺存状況を確認するため、平成16〜19年度にわたり4次の試掘調査を実施しました。
大手道の調査では、山側(この説明板の後ろ)の土塁が、小牧・長久手の合戦(天正期)の折に城の防御を固めるため、徳川家康によって新たに築かれたものであることを確認しました。また、現在の大手道の下からは、織田信長築城時(永禄期)の大手道が見つかり、天正期の土塁築造に合わせて約1.6m盛土し、整地されたことがわかりました。
永禄期の大手道は、当時の通行によるためか踏み固められており、中央に溝(排水溝)が掘られ、幅約5mを測る道の両側に人頭大の自然石を約3段積んだ石積が配されて大手道の両端を画していました。この永禄期の石積は腰巻状の低垣で、防御施設として築かれたものではなく、盛土整地部の天端を安定させるために設けられた土留め擁壁の機能を持たせたものであると思われます。
永禄6年(1563)織田信長によって築かれた小牧山城は、美濃攻めのために築かれた一時的な城砦だとする説もありましたが、この調査成果からも長期間の在城を前提として築かれた本格的な城であったことがうかがわれます。
小牧山に城を造った織田信長は、山の南側に城下町を造りました。当時はここから町の様子が見えたことでしょう。町は南北1.3km、東西1kmの広さで、東西、南北に道が通り、町の南側に造った土塁(土を積み上げて造ったかべ)と堀(地面を掘って造った大きな溝)により町が囲まれていたと考えられています。町の中は身分や仕事の種類によって住む場所が分かれており、町の中央から西部には染物をする人や戦いの時に着る鎧の部品や刃物などを作る人などが、町の東部には武士が住み、寺がありました。
城下町の東部にあたる新町遺跡の発掘調査をしたところ、土塁と堀で囲まれた屋敷地の中に建物や井戸が見つかりました。屋敷のある場所の全部は調査できませんでしたが、その大きさは南北19m、東西45mの広さと考えられます。
城下町の西部にあたる上御園遺跡の発掘調査をしたところ、南北6〜7m、東西55〜65mの細長い敷地に、道に面したところに建物、その奥に井戸などがあり、その奥は畑か庭で、一番奥に溝があるという様子がわかりました。溝は、町を区切る境にもなっていました。
麓の土塁と曲輪402
1584(天正12)年に起こった小牧・長久手の合戦で、織田信雄(織田信長の二男)と徳川家康の連合軍は、小牧山に本陣を置き、犬山方面にいた羽柴(のちの豊臣)秀吉軍と戦いました。その時、連合軍は、信長が岐阜城へ移った1567(永禄10)年以降は使われていなかった小牧山城を改修し、新たに土塁(土を積み上げて造ったかべ)や堀(大きな溝)、虎口(出入口)を造りました。今いるところの東西に続く土塁は、改修で山のふもとに造られた二重の土塁のうち、内側の土塁にあたります。
ふもとの土塁(内側の土塁)は、1998(平成10)年までここにあった中学校を建設する時に削られてなくなっていたため、1927(昭和2)年に作られた小牧山の測量図を参考にして復元整備しました。
土塁は堀を掘った土を積み上げて築き、堀と土塁でセットになっているのが普通です。小牧山城の土塁は、堀の底からの高さが5m以上に及び外側が急傾斜になっていて登りにくい構造をしています。一方、内側の傾斜は緩やかで、城兵が土塁上に登りやすくしていました。
目の前の土塁は、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの際、織田信雄・徳川家康連合軍が築いたものです(一部復元しています)。
なお、この出入口部分は、土塁が切れていますが、旧小牧中学校が昭和22年(1947)に建設された際に土塁を削って出入口としたもので、城当時の出入口ではありません。
永禄6年(1563)、織田信長は、小牧山に初めて城を築き、清須城からここに居城を移しました。信長が築いた小牧山城には、山の北麓から東麓にかけて、山を取り巻くように武家屋敷が並んでいました。武家屋敷は主に45m四方の規模で、屋敷境を堀で区画しているところがあります。正面に位置する曲輪402は、75m四方で麓の曲輪の中では最も広く、土塁と堀で囲まれており、信長の居館があったのではないかと推定されています。屋敷内部にあたる部分は、かつてここにあった中学校の運動場造成のために削平を受けており、史跡整備前に行った発掘調査では、堀など深く掘り込まれた跡しか確認しておらず、ここにどのような建物があったかは明らかになっていません。
御城印
小牧山城の御城印は300円です。山頂の小牧山歴史館の入口にある自販機で、入場券と一緒に買いました。「続日本百名城 登城記念」と日付が入っています。
よくある質問
Q.小牧山城の駐車場はどこが便利ですか?
A.私たちは小牧山北駐車場に停めました。2時間まで無料です。駐車場もトイレもたくさんあります。
Q.御城印はどこで買えますか?
A.山頂の小牧山歴史館の入口の自販機で、入場券と一緒に買いました。300円です。
Q.北駐車場から山頂まではどのくらいかかりますか?
A.私たちは脇の登山道のようなところから登って途中で本道に出ましたが、けっこう大変でした。写真の時刻で30分ほどです。
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