【実録】咸臨丸ではなく、ポーハタン号を ― 小栗上野介ゆかりの地をめぐる1泊2日 築地・普門院から伊香保温泉、倉渕の東善寺へ

ついに、念願だった小栗上野介ゆかりの地をめぐる旅に出かけました。妻と二人、車で1泊2日の旅です。

小栗上野介忠順は、2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公です。遣米使節として日本人で初めて世界を一周し、帰国後は横須賀製鉄所をはじめ、日本の近代化の土台を築いた幕臣です。それなのに、新政府軍に取り調べもなく斬られ、長く歴史の表舞台から遠ざけられてきました。

1日目は東京の築地、靖国神社、雑司ヶ谷霊園を回り、大宮の普門院を経て伊香保温泉へ。2日目は小栗が最期を迎えた高崎市の倉渕町をじっくり歩き、高崎市街へと向かいました。水沼の河原ではやりきれなさを、東善寺ではご住職の熱い言葉を、それぞれ味わった旅の記録です。各地の駐車場やトイレ、御朱印の情報も最後にまとめました。

1日目 東京・大宮

目次

築地 ― 軍艦操練所跡と築地ホテル館跡

旅の始まりは築地です。ここには、幕府が海軍の士官を育てた「軍艦操練所」と、外国人のために建てた洋風ホテル「築地ホテル館」がありました。築地ホテル館は、小栗が建設を進めた日本初の本格的なホテルです。いまはどちらも説明板が残るだけですが、この旅の伏線になる場所でした。

説明板に書かれていること(軍艦操練所跡)
ペリー来航のあと、西洋式の海軍が必要だと迫られた幕府は、安政4年(1857年)4月、この地にあった築地講武所の中に「軍艦教授所」(のちの軍艦操練所)を開きました。旗本や御家人、諸藩の藩士を集め、航海術や海上砲術、オランダから輸入した軍艦の操縦を教えたそうです。
はじめは長崎の海軍伝習所で学んだ人たちが教授を務め、のちに勝海舟らが頭取になっています。元治元年(1864年)に焼失し、慶応2年(1866年)には「海軍所」と名を改めましたが、同じ年にまた火事に遭って浜離宮へ移りました。その跡地に建てられたのが、日本で最初の洋式ホテル、築地ホテル館です。
軍艦操練所跡の説明板(中央区教育委員会)
軍艦操練所跡の説明板(中央区教育委員会)
築地の碑と説明板に書かれていること
勝鬨の渡し跡(かちどきのわたし)
中央区教育委員会の説明板によると、月島と築地・銀座方面を結ぶ渡し船は、明治25年(1892年)の「月島の渡し」が始まりです。行き来する人が増えたため、明治38年(1905年)にもう一つ開かれたのが「勝鬨の渡し」でした。「勝鬨」の名は、京橋区の有志が日露戦争の勝利を記念して付けたものです。そばの石碑は正面に「かちどきのわたし」、側面に「明治三十八年一月 京橋区祝捷會挙行之日建之 京橋区同志會」と刻まれています。
渡船場ははじめ、ここから150メートルほど西の波除稲荷神社の先にあり、関東大震災のあとに今の場所へ移りました。月島の工場へ通う人たちの足として大いに使われ、月島に働き手が集まって町が発展するのを支えました。その後、大型船が隅田川を通れるよう真ん中が開く可動橋の工事が進み、昭和15年(1940年)6月に勝鬨橋が完成して、渡し船は役目を終えました。橋の名前に、渡しの歴史が受け継がれています。

勝鬨橋(国の重要文化財)
銘板によると、勝鬨橋は東京港修築工事の一環として、海運と陸運がともに栄えるよう昭和15年6月に完成した橋です。中央の二枚の橋桁が「ハ」の字に跳ね上がる、国内で唯一の「シカゴ型二葉式跳開橋」で、可動部の長さは国内最大。平成19年(2007年)6月18日に国の重要文化財に指定されました。全長は246メートルあります。

海軍経理学校之碑
石の表面が光を反射して全文は読み取れませんでしたが、碑文には、芝で始まった海軍の会計の学校が明治の終わりに「海軍経理学校」となり、この築地の地で多くの主計(経理)の士官を育てたこと、その敷地が松平定信の屋敷「浴恩園」の跡にあたること、昭和20年に閉校したことが刻まれています。碑が建てられたのは昭和51年(1976年)4月です。築地は、幕末の軍艦操練所から明治以降の海軍の学校まで、日本の海軍と縁の深い土地だったことがわかります。

場所 軍艦操練所跡の説明板:東京都中央区築地6丁目20番地域/勝鬨の渡し跡:中央区築地6丁目20番先(いずれも説明板の表記)
駐車場 専用の駐車場はありません。周辺のコインパーキングなどに停めてから歩いて回ることになります
トイレ 勝鬨橋のところにあります

靖国神社 ― 大村益次郎の銅像

靖国神社では、大村益次郎の銅像を見上げました。明治26年(1893年)に建てられた、日本で最初の西洋式の銅像といわれています。

大村はのちに、「もし小栗の策が実行されていたら、我々の首はなかっただろう」と語ったと伝わっています。小栗の策とは、新政府軍を箱根の山中に誘い込み、幕府の艦隊で駿河湾から背後を突いて挟み撃ちにするものです。徳川慶喜はこれを採らず、小栗は罷免されて領地の権田村へ去りました。その小栗を待っていた運命は、2日目の水沼河原でふれます。

境内には、幕末の剣術道場「練兵館」の跡もありました。くわしくは下の説明板の内容をご覧ください。千葉周作の名前は、この日の夕方、伊香保でもう一度出てきます。

大村益次郎の銅像
大村益次郎の銅像
銅像の銘板に書かれていること(兵部大輔 大村益次郎銅像)
大村益次郎は文政7年(1824年)、周防国鋳銭司村(いまの山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめは村田蔵六と名乗りました。広瀬淡窓に儒学を、緒方洪庵に蘭学を学び、幕末のはじめには宇和島藩に仕えて、日本で初めての西洋式軍艦の設計・建造に携わっています。のちに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、幕府の講武所でも教授を務めました。
その後、桂小五郎の推薦で長州藩に仕え、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では石州口の戦いを指揮して、名を高めました。戊辰戦争では新政府の軍務局判事として大総督府に参じ、上野の彰義隊を討ち、東北の戦いも平定しています。続いて兵部大輔に任じられ、軍の制度を西洋式に改めようとしましたが、これが攘夷派の反感を買い、明治2年(1869年)9月、京都に出張中に不平士族に襲われて重傷を負い、同年11月5日、大阪で亡くなりました。46歳でした。
大村は、東京招魂社(いまの靖国神社)の創建者としての功績も大きく、明治15年(1882年)に銅像の建立が決まりました。制作を任されたのは、工部美術学校で彫刻を学んだ大熊氏廣です。大熊は研究のためにヨーロッパへ渡ってから制作にあたり、明治26年(1893年)、この地に日本最初の西洋式銅像が建ちました。陣羽織をつけ、左手に双眼鏡を持って東北の方角を望む姿は、彰義隊を討ったときの様子だといわれています。大熊はのちに、有栖川宮熾仁親王や小松宮彰仁親王の像も手がけました。
銘板の左上には、明治29年(1896年)の銅版画「靖国神社図」も刻まれています。

「幕末志士ゆかりの練兵館跡」の説明板
この場所は、神道無念流の剣客・斎藤弥九郎が、それまで俎橋(まないたばし)付近にあった練兵館を、天保9年(1838年)の火事で焼けたのちに再建した場所です。その後、約30年間にわたって隆盛を誇りました。
練兵館には、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥二郎など幕末の志士が数多く入門しました。とくに桂小五郎は剣の腕前に優れ、師範代も務めています。伊藤俊輔(伊藤博文)も出入りしていたといわれます。
この練兵館は、千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに、「幕末三道場」と呼ばれています。そばには「神道無念流練兵館跡」と刻まれた石柱と、靖国神社の境内ガイドの標も立っています。

場所 東京都千代田区九段北3-1-1(銅像は大鳥居をくぐった参道の中ほど)
駐車場 あり(有料・30分300円)。かなりの台数が停められるので安心です
トイレ 境内に2〜3か所あり。とてもきれいでした

雑司ヶ谷霊園 ― 小栗家の墓と中浜万次郎の墓

雑司ヶ谷霊園には、小栗家の墓があります。見つけるのがとても大変で、ネットで区画番号を調べ、さらに清掃の方にその番号の場所を尋ねて、ようやくたどり着きました。無料の専用駐車場があるそうですが、私たちは見つけられませんでした。

同じ霊園には、中浜万次郎(ジョン万次郎)も眠っています。2028年の大河ドラマは万次郎が主人公の「ジョン万」に決まっていて、大宮のお寺の方もその話をしてくれました。小栗と万次郎は、どちらも1827年生まれの同い年です。1860年の遣米使節では、小栗はポーハタン号に、万次郎は通訳として咸臨丸に乗っていました。来年は小栗、再来年は万次郎。その二人がここに眠っていると思うと、感慨深いものがあります。

中浜万次郎の墓の案内板に書かれていること
「中浜万次郎 ジョン・万次郎」。アメリカ文化の紹介者で、初めてアメリカに渡った日本人と紹介されています。生没年は文政10年(1827年)から明治31年(1898年)。小栗と同じ年の生まれです。

場所 東京都豊島区南池袋4-25-1(都立霊園)
駐車場 管理事務所の前に11台分(東京都の資料による。利用は8時30分〜17時)。私たちは見つけられなかったので、場所は管理事務所で確認するのが確実です
トイレ 霊園内に2か所(東京都の資料による)。私たちは使わなかったので、場所は確認していません

大宮・普門院 ― 何も刻まれていない墓石

さいたま市大宮区の普門院は、小栗家代々の菩提寺です。境内には小栗一族の墓が並び、さいたま市の史跡に指定されています。

ここには、小栗の首を家臣がひそかに運んで葬ったという言い伝えがあります。ところが、墓石には何も刻まれていません。何かに配慮したのでしょうか。お寺の方は「さすがに首は持ってこられないでしょう。あったとしても髷くらいではないか」と話してくれました。

真相はわかりませんが、小栗ゆかりの地であることに間違いはありません。そう感じながら手を合わせていると、隣の保育園から運動会の練習をする子どもたちのにぎやかな声が聞こえてきました。

普門院の案内図。小栗忠政一族の墓の場所が描かれている
普門院の案内図。小栗忠政一族の墓の場所が描かれている

墓所のようす

墓所の中には、小栗家の人だけでなく、長崎奉行を務めた牧志摩守義制(まき しまのかみ よしさだ)の墓もあり、説明板が立っていました。説明板によると、牧は長崎奉行として、漂流してアメリカに渡り帰国したジョン万次郎の取り調べを自ら行い、オランダ商館長ドンケル・クルチウスとの交渉にもあたった人物です。クルチウスはペリーの来航を事前に知らせる文書を持ってきており、牧はすぐに翻訳して老中阿部正弘に送ったものの、協議の内容は打ち切られてしまったそうです。少し前に雑司ヶ谷で万次郎の墓を見てきたばかりだったので、ここでも万次郎の名前に出会えたことに驚きました。

史跡の説明碑に書かれていること(さいたま市指定文化財〈史跡〉大成領主小栗忠政一族の墓)
小栗忠政は13歳で徳川家康の小姓になりました。近江・姉川の戦いでは、敵が家康のすぐ近くまで攻め込み、家康の信国の槍を奪っていくのを見て、そばにいた人々と駆けつけて敵を討ち取り、槍を取り返しました。家康は、まだ16歳の若者なのに気の利いた働きをしたと、その槍を忠政に与えたそうです。その後も、どの戦でも一番槍に等しい活躍をしたので「又一(また一番)」と名乗るよう言われました。その功で武蔵国足立郡大成村の550石を含む2550石の領地を与えられ、元和2年(1616年)に亡くなると普門院に葬られました。
忠政の領地のうち2000石は長男の政信が継ぎ、代々「又一」を名乗って、墓所は牛込の保善寺となりました。大成村550石は二男の信由に与えられ、のちに上総国長柄郡(いまの茂原市)の200石を加えて合わせて750石を治めました。信由の家は代々仁右衛門を名乗り、寛文元年(1661年)に亡くなった信由が普門院に葬られてから、ここを墓所としました。小姓組番や書院番を務めた家です。普門院には、忠政夫妻、二男信由の一族、そして三男信友夫妻が眠っています。
横須賀製鉄所の建設など近代日本の礎を築いた小栗上野介忠順は、本家・政信の子孫ですが、忠政を始祖とあおぎ、忠政夫妻が眠る普門院に特別な親しみと信頼を寄せていたようです。
忠順は新政府軍への徹底抗戦を主張して将軍慶喜に疎まれ、慶応4年(1868年)1月15日に陸軍奉行並・勘定奉行を罷免されました。身の危険を感じたのか、隠棲を決めます。2月28日、家康から与えられた家宝の信国の槍などを普門院に預け、19日に土着先に選んだ上州権田村(いまの高崎市)へ旅立つ途中で普門院に立ち寄り、別れを告げました。閏4月6日の朝、新政府軍に捕らえられ、朝敵として斬首されました。普門院には、忠順の供養塔と招魂碑が建てられています。
(昭和62年7月 普門院四十三世 徳山道誌)
説明板に書かれていること(長崎奉行 牧志摩守義制)
牧義制(よしのり)は享和元年(1801年)、旗本・堀利哲の子として生まれ、文政5年(1822年)に京都町奉行・牧丹波守義珍の婿養子となりました。天保4年(1833年)に従五位下志摩守に任じられ、先手弓頭、火附盗賊改加役、小普請奉行を経て、嘉永3年(1850年)に長崎奉行になりました。
長崎奉行としての大きな仕事は、ジョン万次郎の取り調べと、オランダ商館長ドンケル・クルチウスとの交渉です。
万次郎は天保12年(1841年)、乗っていた漁船が漂流し、アメリカの捕鯨船に助けられてアメリカに渡りました。航海術や測量術を学び、嘉永4年(1851年)にアメリカの商船で琉球に上陸、捕らえられて薩摩を経て長崎に送られてきます。牧志摩守は自ら取り調べを行い、万次郎を釈放して土佐へ帰しました。万次郎はその後、老中・阿部正弘に江戸へ呼ばれて江川太郎左衛門の家に住み、大鳥圭介、榎本武揚、福沢諭吉、西周ら多くの人が訪ねて海外の事情や英語を学びました。
嘉永5年(1852年)にはクルチウスが着任し、東インド総督から長崎奉行にあてた特別な信書を持ってきました。当時、こうした信書は受け取らない決まりでしたが、牧は老中・阿部と相談して受け取ります。そこには、アメリカが軍艦を派遣して通商を求めてくること、アメリカはヨーロッパの最強国と肩を並べる力を持っていること、日本は用心が第一であること、日本と対策を話し合いたいことなどが書かれていました。牧はすぐに翻訳して阿部に送り、クルチウスとも協議の内容を探りましたが、任期満了で協議には至りませんでした。それでも、ペリー来航はこうして前もって幕府の首脳に伝えられていたのです。
牧志摩守は嘉永6年(1853年)に西丸留守居となりましたが、同じ年の8月に病気で亡くなりました。53歳でした。
(平成29年6月 普門院四十四世 大徳道彦、さいたま市名誉市長 新藤享、大宮郷土史研究会長 織本重道)
雑司ヶ谷で墓参りをした万次郎の名前が、ここで再び出てきたのには驚きました。

境内に残る遺物 ― 錨・大砲・機雷

境内の一角には、海にまつわる遺物が並んでいます。説明板によると、昭和9年(1934年)に境内に招魂碑が建てられたのにあわせて、海軍省が横須賀鎮守府から錨・大砲・機械水雷(機雷)を1つずつ下げ渡したものだそうです。

丸い石のように見えたものが機雷、横たわる長い筒が大砲の砲身、そして大きな錨です。横須賀製鉄所をつくった小栗の菩提寺に、横須賀から海軍の品が届けられたというのは、なんとも因縁を感じます。

説明板に書かれていること(小栗上野介 招魂碑・大砲・機械水雷・錨 解説)
小栗家代々の菩提所である普門院では、幕末の英傑・小栗上野介忠順のために大きな招魂碑を建てることになりました。檀家と総代が一致協力し、いろいろな苦心と努力を重ねてできたものだそうです。昭和9年(1934年)11月25日、めでたく除幕式が行われました。
このとき当時の住職は、熟慮のすえ一人で決意し、「廃兵器無償下付ノ件」という願い書を海軍省に提出しました。その内容は、おおよそ次のようなものです。
「普門院は、小栗上野介の祖先以来三百年あまりの菩提所で、曹洞宗の名刹です。小栗殿は幕末の偉人で、世間の評判に流されず横須賀に造船所を建て、国防と海軍の基礎に大きな功績を残しました。その高い気概と忠誠を後世に伝えるため、境内に招魂碑を建て、除幕式には海軍の高官も臨席し、岡田総理大臣からも祝辞をいただきました。小栗上野介が海軍に残した功績は不朽のものです。碑の前に廃兵器を置けば、碑を拝む人がみな襟を正し、海軍の恩恵を感じ、海軍思想の普及にも役立つはずです。特別のお計らいで払い下げをお願いします。」
これに対して海軍大臣は、協議のうえ「小栗上野介は功臣であり、海軍の功労者である」として、横須賀鎮守府司令長官に、碑の前に錨と大砲と機雷を各1個下付するよう命じました。知らせは埼玉県庁と村役場を通じて、3月10日に海軍省から届いたそうです。
説明板は、「小栗上野介公の汚名は、すでにこの事実によって雪がれている」と記しています。さらに、のちに住職が小栗家の子孫・小栗貞雄翁から直接聞いた言葉として、「上野介の子孫として、もう思い残すことはありません。小栗が心血を注いだ軍港を見渡して、永遠に胸像が立てられ、そのうえ皇后陛下から御下賜金を賜り、子孫が宮中で光栄に浴したことは、まことにかたじけない極みです」という感激が紹介されています。
(阿部道山著『小栗上野介正伝』より。昭和62年7月 普門院四十三世 徳山道誌)

場所 埼玉県さいたま市大宮区大成町2-402
駐車場 あり(20台ほど)
トイレ あり(男女別、きれいでした)

昼食

1日目の夜 伊香保温泉

横手館 ― 迷路のような大正の宿

泊まったのは、石段街に建つ横手館です。江戸時代から続く老舗で、総檜造りの本館は大正時代の建築とされ、国の登録有形文化財にもなっています。300年以上の歴史を感じられる、本当に趣のある建物でした。

外観は、正面と左右の棟がコの字型に並び、その中央に正面玄関があります。ところが館内に入ると、高さのそろわない階段や、形も広さもまちまちな部屋が続き、最初は迷路かと思うほどでした。『千と千尋の神隠し』に出てきそうな雰囲気で、特に夜の景色は圧巻です(夜の写真は、このあとの「夜の石段街」で紹介します)。ぜひ皆さんにもおすすめしたい宿です。

そして何より、ごはんがとてもおいしかったです。夕食は一品ずつ運ばれる「山の会席」でした。朝は、フロントロビー前の休憩スペースでコーヒーを無料でいただけます。

私たちが泊まった本館の部屋には、トイレとお風呂がありませんでした。館内には源泉かけ流しの大浴場と無料の貸切風呂があります。部屋にトイレが欲しい方は、トイレ付きの部屋がある本館東棟を選ぶとよいと思います。石段街からは歩いて10秒もかからず、観光にも便利です。

場所 群馬県渋川市伊香保町伊香保11(石段街の中ほど)
駐車場 宿の駐車場は旅館から少し離れていて、駐車場と旅館の間はバスで送迎してもらえます(車で3〜4分ほど)
トイレ 本館の部屋にはありません(館内の共用トイレを使います)

石段街と伊香保関所

荷物を置いて、さっそく石段街を歩きました。源泉をのぞける小間口や足湯を楽しみながら、夫婦で記念写真も撮りました。

説明板「石段の歴史」に書かれていること
伊香保温泉のシンボルである石段ができたのは、天正4年(1576年)ごろと伝えられています。長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に敗れた武田勝頼が、多くの負傷者を治療するため、真田氏に命じて造らせたといわれます。
石段の真ん中には湯樋が通り、源泉を各旅館へ引いています。石段の途中には、その様子をガラス越しに見られる小間口観覧所が4カ所あります。江戸時代には12軒の宿が引湯権を持ち、十二支を屋号にして、明治維新まで年番で伊香保口留番所(伊香保関所)の役人も務めていました。石段にはその十二支の絵のプレートが埋め込まれています。
昭和13年には関所まで315段ありましたが、県道の整備で石段が隠れてしまいました。平成18年の市町村合併で渋川市になったのを機に延長整備が進み、平成22年3月に今の形に生まれ変わりました。段数は、一年中にぎわうようにとの願いを込めて365段です。1段目の標高は約715メートル、365段目は約783メートルで、高低差は約68メートル、長さは約330メートルあります。

伊香保関所

石段を上っていく途中に、伊香保関所があります。温泉街の真ん中に関所があったとは驚きました。中には当時の様子を伝える展示があり、鎧の前で記念写真も撮りました。

関所の展示に書かれていること
伊香保道は三国街道の抜け道だったため、その取り締まりのために安中藩の井伊直勝が伊香保の入口に口留番所を設けました。寛永8年(1631年)、三国街道が発達して街道の要地となった伊香保の石段街入口に関所が置かれ、明治2年(1869年)に廃止されるまで、238年間続いたそうです。
番は地元の功労者14人のうち2人ずつが交代で務め、下番には村人2人が当たりました。その費用は麦6石、ヒエ6石の計12石を14人で分担し、その代わりに税や普請の人足などを免除される特権が与えられていました。延享3年(1746年)からは、伊香保の大屋12軒を十二支に割り当てて、その年の大屋が関所の番役人を務めたといいます。
関所は竹矢来で囲まれ、門扉と番所を設け、槍・さすまた・袖がらみなどを備えていました。とくに女性の通行は厳しく調べられたそうです。

ハワイ王国公使別邸

関所のすぐそばには、ハワイ王国公使別邸があります。説明板によると、ハワイがまだ独立国だった明治31年(1898年)まで、駐日公使ロバート・ウォーカー・アルウィンが所有し、別荘として使っていた建物です。伊香保の人たちは「アルウィンさんの別荘」と呼んで親しんでいたそうです。日本からハワイへの官約移民から100年を迎えた昭和60年(1985年)に、渋川市の史跡に指定されました。

説明板に書かれていること(渋川市指定史跡 ハワイ王国公使別邸)
この建物は、ハワイがまだ独立国だった時代(明治31年〈1898年〉まで)に、駐日公使ロバート・ウォーカー・アルウィンが所有し、別邸として使っていたものです。伊香保の人たちは「アルウィンさんの別荘」と呼んで親しんでいたそうです。
日本からハワイに官約移民が渡って100年になる昭和60年(1985年)を記念し、独立国ハワイと伊香保との交流を伝える貴重な国際交流の資料として、同年10月1日に市の史跡に指定されました。(渋川市教育委員会)

場所 石段街:群馬県渋川市伊香保町伊香保/伊香保関所:伊香保町伊香保34(入館無料・9時〜17時、11〜3月は16時30分まで・第2・第4火曜休館)/ハワイ王国公使別邸:伊香保町伊香保32(入館無料)
駐車場 石段街の下のあたりに市営の駐車場がいくつかあります。河鹿橋駐車場(18台・無料、2〜3時間程度の利用に限る)、石段アルウィン公園(約50台・最初の2時間500円)、物聞駐車場(62台・2時間300円)など。土日は混雑します
トイレ 石段街のあちこちに、きれいなトイレがたくさんあります

伊香保神社 ― 剣豪たちの「額事件」

365段を上りきった先にあるのが、上野国三宮の伊香保神社です。大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)をまつり、温泉と医療の神様として信仰されてきました。

ここは、北辰一刀流の千葉周作と、上州の馬庭念流が対立した「伊香保の額事件」の舞台でもあります。石段の説明板にも、江戸時代の末に千葉周作がこの神社に奉納額を掲げようとし、地元の馬庭念流と対峙したことが書かれていました。当時、上州でいちばん大きな剣術の流派だった馬庭念流にとって、よそから来た流派が自分たちの地元の神社に額を掲げるのは許せないことだったのでしょう。境内で、そんな剣豪たちの姿を思い浮かべながら、しばし感慨にひたりました。午前中に靖国神社で練兵館の説明板を見てきたばかりだったので、幕末三道場のつながりも感じました。

境内の近くには、江戸時代の旅行家・高山彦九郎が腰掛けたという石もありました。説明板によると、彦九郎は上野新田(今の太田市)の出身で、尊王思想を持ち、全国を歩いて和歌を詠んだ人物です。安永2年(1773年)、伊香保の大屋のひとつ大島家の系譜を調べるために伊香保を訪れ、伊香保神社に参拝したあと、この石に腰掛けて日記をつけたと伝えられています。

御朱印は土日祝のみの受付です。参拝した日は金曜日だったので、翌朝の土曜日にいただきました。平日に訪れる方はご注意ください。

説明板に書かれていること(高山彦九郎 腰掛けの石)
高山彦九郎は延享4年(1747年)、上野国新田(いまの群馬県太田市細谷)の出身で、寛政5年(1793年)に筑後国久留米(いまの福岡県久留米市)で亡くなりました。全国を歩いた大旅行家で、尊王思想家です。儒学(陽明学)を信じて行動し、各地で和歌を詠み、お酒を好んだそうです。
彦九郎が数え29歳のときの旅日記「赤城行」によると、安永2年(1773年)11月17日、米野から八崎へ出て渋川の手川をめざしました。目的は、手川の大島郷右衛門と、伊香保の大屋十二軒の一つである大島甚左衛門を訪ね、大島家の系譜を調べることでした。京都で活動していたとき親身になって世話をしてくれた大島芙蓉(篆刻で全国に知られ「印聖」と呼ばれた人)に頼まれたのだそうです。
このとき彦九郎は伊香保神社にお参りし、この石に腰かけて日記をつけたと伝わっています。

場所 群馬県渋川市伊香保町伊香保1(石段街のいちばん上)
駐車場 石段街の周辺の市営駐車場を利用(石段街の項を参照)
トイレ 神社には直接ありませんが、石段街にきれいなトイレがたくさんあるので心配ありません

夜の石段街

夕食のあとは、灯りがともる夜の石段街へ。昼とはまったく違う幻想的な雰囲気でした。横手館も、夜になるといっそう『千と千尋』の世界のようです。

2日目 倉渕・高崎

倉渕へ向かう途中に見た湖の景色
倉渕へ向かう途中に見た湖の景色
「権田村」はいまどこ? ― 江戸時代から高崎市になるまで
小栗上野介が隠棲し、最期を迎えた「権田村(ごんだむら)」という村は、いまはありません。地図で探すと「群馬県高崎市倉渕町権田」。村の名前は、町の中の地名として残っています。
江戸時代、権田村は上野国群馬郡の村で、旗本・小栗家の知行地(領地)の一つでした。東善寺の説明板によると、小栗家の知行地は合わせて約2,500石あり、そのうち権田村の石高は約370石。小栗はここを、江戸を離れて暮らす土地に選んだのです。
じつは、小栗が斬られた水沼村は、権田村とは郡がちがい、碓氷郡に属していました。江戸時代のはじめの寛永8年(1631年)には幕府の直轄地(幕府領)だったと記録されています。東善寺から終焉の地の河原までは車ですぐですが、江戸時代の感覚では「となりの郡の村」だったわけです。

江戸時代 上野国群馬郡 権田村(小栗家の知行地)。水沼村は碓氷郡
明治22年(1889年) 町村制で村々がまとめられ、西群馬郡倉田村と碓氷郡烏淵村(うぶちむら)ができる
明治29年(1896年) 西群馬郡と片岡郡が合わさって群馬郡に
昭和30年(1955年)2月1日 倉田村と烏淵村が合併して群馬郡倉淵村に。村名は二つの村の名前を組み合わせたもの
平成8年(1996年)7月1日 表記を「倉淵村」から「倉渕村」に改める
平成18年(2006年)1月23日 箕郷町・群馬町・新町とともに高崎市に編入。いまの「高崎市倉渕町権田」「倉渕町水沼」に

小栗が暮らした権田村は、村の名前としては明治22年に消え、倉田村、倉淵村、倉渕村と名前を変えながら、いまは高崎市の一部になっています。それでも「権田」という地名は、150年以上たったいまも、東善寺の住所にしっかり残っています。
出典:群馬県「市町村名変遷一覧」、総務省・e-Stat「市町村の廃置分合」、東善寺の高崎市教育委員会の説明板、コトバンク「水沼村」

水沼河原 ― 小栗が斬られた地

慶応4年(1868年)閏4月6日、小栗は烏川の河原に引き出され、家臣三人とともに斬首されました。その最期の地に、いまは顕彰慰霊碑が建ち、「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と刻まれています。高崎市の史跡「小栗上野介忠順終焉の地」です。

実際に河原に立ち、本来とても有能で、これからの日本に必要な人材を、なぜよく取り調べもせずに斬ってしまったのかと思いました。斬首を命じたのは、東山道軍の若い軍監、原保太郎と土佐藩出身の豊永貫一郎だと伝わっています。少し怒りを覚えましたが、これも歴史かと、なんだかむなしい気持ちになりました。勝てば官軍、ということでしょうか。

烏川の河原に建つ小栗上野介の顕彰慰霊碑
烏川の河原に建つ小栗上野介の顕彰慰霊碑
碑と標柱に刻まれていること
河原に立つ顕彰慰霊碑には、「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と刻まれています。風雨で文字はかなり薄れていますが、近づくと読み取れます。手前の白い標柱には「高崎市指定史跡 小栗上野介忠順終焉の地」とあり、平成18年(2006年)1月に設置されたものです。
「罪なくして」という一言に、この碑を建てた地元の人たちの思いが込められているように感じました。

ここからは私の考えで、東善寺のご住職にもお話ししました。新政府軍は三つの道から江戸へ向かいました。東海道は西郷隆盛ら薩摩、北陸道は山県有朋ら長州が中心で、東山道では土佐の板垣退助が参謀を務めていました。薩長に後れを取っていた土佐の若い軍人たちは、ここで手柄を立てなければますます主導権を握られると焦り、無理をしてでも名を残そうと気負いすぎたのではないでしょうか。だからこそ、赤報隊の相楽総三や、権田村に隠棲していた小栗にまで矛先を向けたのだと思います。小栗は大きな脅威にはならなかったはずですし、武器も新政府軍に差し出し、まったく抵抗しませんでした。本当に残念でなりません。

さらに私は、小栗はそのまま江戸にいたほうが、かえって身は安全だったのではないかと考えています。主君の慶喜は恭順を貫いていました。勝と西郷の会談でも、慶喜を支えた者の処罰は条件に挙がりましたが、勝の交渉で命までは取らないことで落ち着いています。ただ、会津では萱野権兵衛が、鳥羽伏見では神保修理が、それぞれ責任を負って腹を切りました。小栗も、江戸に残っていれば誰かの責任を背負わされた可能性はゼロではなかったかもしれません。それでも、江戸城総攻撃が回避された江戸で、実際に命を落とした幕臣は、自ら命を絶った川路聖謨くらいだったのではないでしょうか。

もし小栗の知行地が権田村ではなく、会津や白河の方面にあったなら、結果はまた違っていたかもしれません。歴史に「もしも」はないと言いますが、そう考えずにはいられませんでした。

場所 群馬県高崎市倉渕町水沼(烏川の河原、水沼橋のたもと)
駐車場 3〜4台ほど(水沼橋から土手へ降りる狭い道の先)
トイレ なし

姉妹観音と不忘の碑

河原から少し進んだ相間川のほとりに、姉妹観音がまつられています。本や資料ではあまり読んだことがなかった話で、少し衝撃を受けました。

姉妹観音の碑に書かれていること
幕末動乱の嵐は、この倉渕の里にも吹き荒れ、多くの犠牲者を出しました。小栗家の用人・塚本真彦の家族は、権田村での探索を逃れ、七日市藩の縁者を頼って脱出する途中、幼い女の子二人が慶応4年閏4月7日、相間川の淵に沈められて命を落としました。近年この悲惨な事実がわかり、百二十六回忌にあたって姉妹の観音像を建て、その霊を慰めるものです。(平成5年10月 小栗上野介顕彰会)

東善寺の家臣の墓の説明板によると、真彦の母ミツと、真彦の長女で7歳ぐらいだったチカも、富岡の七日市へ向かう途中、地蔵峠付近の山中で4月8日に自害しています。真彦自身は、高崎城内で養子の又一とともに斬首されました。一つの家族が、わずか数日のうちにばらばらに命を落としたことになります。

入り口の近くには、「不忘」と大きく刻まれた新しい碑もありました。小栗が江戸から権田村に移り住んだのに伴って起きた打ちこわし騒動で犠牲になった村人、丸山源兵衛、塚越市右衛門、塚越九兵衛、滝沢助五郎、原田銀八の5人を悼むもので、令和8年4月に小栗上野介顕彰会が建てたものです。

小栗は勘定奉行だったことから「江戸城の金貨を持ち帰った」と言いふらされ、その噂を信じた暴徒が押し寄せたといわれています。小栗の評判を落とすために流された、根も葉もない噂だったようです。この噂はのちに、赤城山の徳川埋蔵金伝説にもつながっていきます。

場所 群馬県高崎市倉渕町岩氷19-1付近(高崎市の案内による)
駐車場 あり(3〜4台ほど)
トイレ なし

東善寺 ― 小栗が眠る寺

倉渕町権田にある東善寺は、曹洞宗のお寺です。入り口には「小栗上野介の寺」と大きく書かれた看板が立ち、いまでは小栗の菩提寺として知られています。

慶応4年(1868年)3月1日、江戸を離れた小栗は、家族や家臣とともに知行地の権田村に移り住み、まずこの東善寺を仮の住まいにしました。館内の切り絵の説明によると、小栗一家は本堂に二か月ほど暮らしたそうです。当時の本堂の柱には、打ちこわし騒動のときに撃たれた鉄砲の弾の跡が残っていましたが、昭和12年に類焼で焼けてしまったとのことです。

境内には、小栗父子と家臣の墓、裏山の本墓、遺品を展示する小栗公遺品館、本堂横の資料室があり、小栗について知るならまずここ、という場所です。私たちは午前10時ごろに着き、お昼ごろまで滞在しました。

拝観料は大人200円、中高生100円です。お気持ちのある方は、小栗主従の墓前に供えるお線香(一束200円)を求めることができ、代金は寺域の整備の基金に使われます。墓参りだけなら自由です。本堂の前には、小栗を顕彰する新しい記念館の建設に向けた募金ののぼりも立っていました。

拝観の案内に書かれていること
「拝観の方へ」として、拝観料は大人200円、中高生100円。お気持ちのある方は、お線香を小栗上野介主従の墓前に供えてくださいとあり、線香は一束200円(代金は寺域整備基金に使われます)。墓参りだけなら自由にできます。

二つの胸像 ― 小栗上野介と栗本鋤雲

境内には二つの胸像が並んでいます。一つは小栗上野介、もう一つは栗本鋤雲(くりもと じょうん)です。

なぜ小栗の横に鋤雲がいるのか。説明板を読むと納得しました。鋤雲は、小栗とともに横須賀製鉄所の建設に尽くした功労者です。函館で開拓や病院の開設、蝦夷・樺太・千島の巡視にも功績があり、慶応3年にヨーロッパに滞在した際には、日本人として初めてアルプスに登ったといわれます。小栗とともに幕末の日本の近代化に力を尽くし、明治以後は報知新聞の主筆として活躍しました。

この胸像は、鋤雲の門人だった犬養毅が作らせ、御蔵島に置かれていた石膏像をもとにしたもので、昭和31年5月6日、元海軍建築局長の吉田直さんが寄贈したそうです。横須賀市の博物館の前庭にある鋤雲の像は、この胸像を複製したものだと書かれていました。横須賀の製鉄所を一緒につくった二人が、ここで並んでいるのです。

私たちは、お寺で求めたお線香を、この小栗の像の前と、境内の供養塔に手向けました。

説明板に書かれていること(栗本鋤雲 胸像)
栗本鋤雲(じょうん)は、瀬兵衛・安芸守を名乗った幕臣で、文政5年(1822年)から明治30年(1897年)まで生きた人です。横須賀製鉄所建設の功労者で、函館(箱館)では開拓や病院の開設、蝦夷地・樺太・千島の巡視などに功績を残しました。慶応3年(1867年)にはヨーロッパに滞在し、その間にアルプスに登った最初の日本人ともいわれます。
小栗上野介とともに、幕末の日本の近代化に力を尽くした盟友です。明治以後は報知新聞の主筆として活躍しました。
この胸像は、鋤雲の門人・犬養毅が作らせて御蔵島に置かれていた石膏像をもとにしたもので、昭和31年(1956年)5月6日、元海軍建築局長の吉田直氏から寄贈されました。横須賀市博物館の前庭にある像は、この胸像を複製したものだそうです。
横須賀製鉄所をともに進めた二人が、こうして並んで立っているのです。

小栗公遺品館 ― なぜ遺品が少ないのか

小栗公遺品館は、古い土蔵のような建物でした。入ってすぐ、「少ない遺品 ― 西軍が家財を没収・売却、軍資金に」という説明が目に入ります。小栗の展示は「遺品が少ない」「パネルばかり」と言われるけれど、それは小栗主従8名を殺した西軍が、江戸から運ばれていた家財道具を一切奪って商人に売り払い、軍資金にして持ち去ったためで、明治新政府軍が小栗家に行った非道な行為の結果である、と書かれていました。ひどいことをするものだと思いました。

水沼河原へ向かうとき、小栗が乗せられたと伝わる駕籠も展示されています。説明によると、慶応4年閏4月6日の朝、小栗はこの駕籠で水沼河原に運ばれ、罪なくして斬首されました。俗に「捨て駕籠」というそうです。西軍は小栗父子主従を殺したあと、たくさんの家財道具を高崎に運んで入札で売り、軍資金として持ち去った。明治政府が始めた学校教育で小栗の業績を教えない理由はそこにある、とも書かれていました。戸を開け閉めしてみると、小栗もきっと同じ場所に触れたのだろうと思い、胸に迫るものがありました。この駕籠で運ばれた先が、さっきの河原だったのです。

小栗が最期に乗ったと伝わる駕籠
小栗が最期に乗ったと伝わる駕籠
説明札に書かれていること(少ない遺品 ― 西軍が家財を没収・売却、軍資金に)
小栗上野介展では「遺品が少ない」「パネルばかり」と言われるそうです。小栗主従8名を殺害した西軍は、江戸から運ばれていた家財道具一切を奪って商人に売り払い、軍資金にして持ち去ったため、遺品はわずかしか残っていません。明治新政府軍が小栗家に行った非道な行為の結果だ、と札は結んでいます。
説明札に書かれていること(小栗上野介が最期に乗ったお駕籠)
慶応4年(1868年)閏4月6日の朝、小栗上野介はこの駕籠で水沼河原に運ばれ、西軍(のちの明治新政府軍)によって罪なくして斬首されました。俗に「捨て駕籠」と呼ばれています。
西軍は小栗父子と家臣を殺したあと、たくさんの家財道具を高崎に運んで入札で売り払い、軍資金として持ち去りました。札には「明治政府が始めた学校教育で小栗上野介の業績を教えない理由である」とも書かれています。

展示品に添えられた説明

ここからは、一つ一つの展示品に添えられた札に書かれていたことです。

・麻裃 小栗が千代田城(江戸城)に出仕するときに着ていた夏の裃です。「公の汗がにじみ出ている」と書かれていて、思わず見入ってしまいました。
・櫛(象牙製) 権田村亀沢の大井秋次郎が小栗夫人からいただいたもの。魚の骨がのどにつかえたとき、この櫛でなでると骨が取れるといわれ、人々に貸しているうちに折り取られて、いまのような姿になったそうです。
・丼 立浪模様の丼で、小栗夫人が官軍に追われて権田を脱出する際、家臣の大井秋次郎の家に立ち寄って置いていったものと伝えられています。
・小栗家臣らの写真 望遠鏡を手にしているのが権田出身の歩兵・佐藤銀十郎、中央が同じく権田出身の歩兵・大井磯十郎、左のステッキを持ちフランス式の軍装をしているのが小栗の養子・又一です。大井磯十郎は水沼河原で小栗とともに斬られ、佐藤銀十郎は小栗夫人を会津まで護衛しました。
・愛用の椅子 渡米から帰国したあと、小栗は屋敷に洋式の応接間をつくり、来客と椅子に腰かけて話をしたそうです。権田に移るときも東善寺に持ってきたものです。
・小栗家の家宝の槍 小栗家四代の忠政が姉川の合戦で一番槍の手柄を立て、徳川家康から愛用の槍を与えられたと伝わるものです。
・望遠鏡 フランス公使ロッシュから小栗に贈られた、パリ製の望遠鏡。小栗が使い、のちに家臣の大井磯十郎に与えたものです。
・椰子の実 万延元年(1860年)の遣米使節の大役を終えた帰り道、バタビア(今のジャカルタ)あたりで手に入れたものと思われる、とのことです。世界一周の航海の証しです。
・手廻し錐 これも使節の旅の品の一つです。
・歩兵銃 小栗がフランスから4個連隊分の洋式銃を購入し、小栗家の歩兵隊に使わせたものの一つです。
・会津藩の肩章 小栗夫人の会津行きを護衛した権田出身の歩兵16人のうちの一人、塚越源忠が会津軍に加わって苦戦するなか、小栗から託された東照公(家康)の掛け軸を命がけで守り抜いたときに身につけていたものです。
・小栗父子の墓石の設計図 塚越太源治が、その子の源忠とともに小栗父子の墓を建てたときの設計図で、明治2年ごろのものと思われるそうです。

一つ一つの品に、小栗を慕った家臣や村人の名前が添えられているのが印象的でした。「遺品が少ない」のではなく、村の人たちが守り抜いたからこそ、これだけでも残ったのだと感じました。いまは皆さんから寄付を集めて、東善寺の近くに新しい記念館を建設中とのことです。大河ドラマの放送前の完成を目指しているそうです。

展示札に書かれていること(上野介が建てようとした家)
額に入った写真と平面図は、上野介が権田の観音山の上に建てようとして果たせなかった邸宅のものです。札によると、この家は現在、前橋市総社町総社の都丸茂雄氏の住まいになっていて、写真と平面図は都丸氏から寄贈されました。上野介はこの邸宅を観音山の上に建てる寸前に、西軍によって斬首されたのです。間口は12間半、奥行きは7間半あるそうです。
午後に訪れる観音山の屋敷跡で建つはずだった家が、形を変えていまも残っていると知り、驚きました。
展示札に書かれていること(遺品の数々)
日本刀(銘 加賀住景光)…上野介の用人(大名でいう家老職)塚本真彦のもの。慶応4年4月、東征軍と称する薩長軍の来襲で、上野介の家族が富岡・七日市藩へ逃れる途中、武井荒次郎(所蔵者の祖父)宅に一夜の宿を乞い、そのお礼として贈られたと伝わります。荒次郎は近くの中山兼吉とともに道案内役を務めたそうです。(松井田町土塩 武井三郎氏所蔵)
鉢割…小栗公が江戸町奉行のときに使ったもの。「壽福の吉兆」「萬歳作」の銘があり、柄には福寿草が浮き彫りにされ、柄には「丸に立浪」の小栗家の定紋、鞘は青貝刷りです。(倉田 牧野五郎造氏寄贈)
小栗家々宝の槍…信国作の名槍。小栗家四代の祖・忠政が姉川の合戦で16歳の初陣ながら一番槍の手柄を立て、家康の愛用の十本槍の中から一本を与えられたと伝わるものです。(小栗公の曾孫 忠人氏所蔵)普門院の説明碑に出てきた、あの「信国の槍」です。
望遠鏡(サック付)…フランス公使ロッシュから小栗公に贈られた、パリ製の望遠鏡。小栗公が使い、のちに家臣の大井磯十郎に与えたものです。(権田 石井晴美氏寄贈)
椰子の実…万延元年(1860年)、遣米使節としての大任を果たしての帰りに、バタビヤ(いまのジャカルタ)あたりで手に入れて持ち帰ったものと思われます。世界一周の航海の、小さな証人です。
手廻し錐…小栗公が使節として持ち帰った品の一つで、江戸駿河台の屋敷の大工だった権田出身の人が持っていたものとされています。
展示札に書かれていること(小栗忠順愛用の望遠鏡)
台の札には「小栗忠順(ただまさ)愛用の望遠鏡(東善寺所蔵)」とあります。右側の筒は、望遠鏡を収める革のサック(ケース)です。フランス公使ロッシュから贈られたパリ製のもので、靖国神社の大村益次郎像が手にしていた双眼鏡を思い出しました。
説明札に書かれていること(切り絵「東善寺の景」)
群馬県倉渕村権田、昭和10年(1935年)ごろの東善寺を描いたきり絵です(制作・河野治雄)。江戸から引き移った小栗上野介一家は、この本堂に2か月ほど仮住まいしていました。柱には打ちこわし騒動のときに撃たれた鉄砲の弾痕が残っていましたが、昭和12年(1937年)に類焼で焼失してしまったそうです。右の額は、平成11年(1999年)3月14日にヘリコプターから撮影した東善寺の空撮写真です。

家臣たちの墓

境内には、赤穂浪士が眠る泉岳寺のように、小栗の家臣たちの墓も並んでいました。以前テレビ番組で見て、小栗と一緒に斬られた家臣だけだと思っていたので、その数の多さに驚きました。説明板に書かれていた一人一人を紹介します。

水沼河原で、小栗とともに斬られた家臣
・渡辺太三郎源吉亨(江戸からの家臣) 小栗に従って権田へ移り、西軍により小栗とともに斬首。20歳。
・大井磯十郎(権田出身) 小栗家の歩兵の一人。西軍により小栗とともに斬首。
・荒川(江幡)祐蔵(江戸からの家臣) 小栗に従って渡米し、権田へ移り、西軍により小栗とともに斬首。36歳。

高崎城内で、養子の又一とともに斬られた家臣(高崎市下斎田に葬られる)
・塚本真彦源勉(江戸からの家臣) 小栗の随員として渡米。権田へ移り、高崎城内で又一とともに斬首。37歳。
・沓掛藤五郎(江戸からの家臣) 高崎城内で又一とともに斬首。25歳。
・多田金之助(江戸からの家臣) 高崎城内で又一とともに斬首。20歳。

小栗夫人を会津へ護衛し、戦死した若者
・塚越冨五郎(権田出身) 小栗夫人を護衛して会津へ行き、慶応4年9月1日、耶麻郡高郷村一竿で戦死。23歳。一竿に慰霊碑がある。
・佐藤銀十郎(権田出身) 小栗家の歩兵の一人。夫人を護衛して会津へ行き、9月11日、喜多方市熊倉で戦死。21歳。熊倉に墓がある。

逃げる途中で命を落とした家族
・塚本ミツ(真彦の母)・塚本チカ(真彦の長女、7歳ぐらい) 難を逃れて富岡市七日市へ向かう途中、地蔵峠付近の山中で4月8日に自害。

遺品館で写真を見た大井磯十郎や佐藤銀十郎の名前が、ここにも刻まれていました。そばには、小栗道子夫人の会津への逃避行を護衛し、小栗父子の首を取り戻した村人と関係者の名前を刻んだ「仁義併存碑」も建っています。

ほかにも境内には、明治の神仏分離令をきっかけに頭を打ち落とされてしまった石仏たちが並んでいて、説明板が添えられていました。

案内板に書かれていること(仁義併存碑)
小栗道子夫人の会津への逃避行を護衛した村人たちと、小栗父子の首級(首)を奪い返した村人、そしてその関係者の名前を刻んだ「芳名碑」です。
斬られた主君の家族を守って会津まで送り届け、首まで取り戻した権田村の人たち。高崎市長の対談でも「先人の義の行い」として語られていた話が、ここに石として残されています。
碑と標に刻まれていること(滄野の碑)
大きな自然石には「花が咲いた 野の花が 滄野に散った 兵士還らず」と刻まれています。そばの標には「滄野(そうや)の碑」とあり、弟・勇二君と、敵味方の兵士の死を悼んで建てた碑だと書かれています。小栗の時代とは別の、昭和の戦争で亡くなった人たちを悼む碑のようです。
境内の古い石碑について
苔と地衣類に覆われていて、残念ながら碑文はほとんど読み取れませんでした。読めない文字を推測で書くのは控えておきます。
説明板に書かれていること(群馬県指定史跡 小栗上野介忠順の墓)
小栗上野介忠順は文政10年(1827年)、江戸駿河台で、徳川譜代の旗本・小栗家12代として生まれました。権田村は約2500石の知行地の一つで、石高は約370石でした。安政6年(1859年)、33歳で大老・井伊直弼に抜擢され、万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換する遣米使節として、新見豊前守正興・村垣淡路守範正とともにポーハタン号で渡米しました。
帰国後は外国・江戸南町・歩兵・軍艦・陸軍・勘定の各奉行を歴任し、フランスと結んで財政再建や軍隊の洋式化を進めるとともに、日本の産業革命の地とも呼ばれる横須賀造船所の建設を進めました。官名を豊後守から上野介に改めたのもこのころです。
倒幕勢力に対して主戦論を唱えたものの容れられず、勘定奉行を罷免され、慶応4年3月1日、家族・家臣とともに権田村に隠棲して東善寺を仮の宿所としました。しかし、小栗の力を恐れた新政府軍の命で捕らえられ、閏4月6日、烏川の水沼河原で罪なくして斬首されました。42歳でした。(高崎市教育委員会)

本墓へ ― 蛇との出会い

小栗の本墓は、寺の裏の山の上にあります。竹林の中の石段を登っている最中に、蛇に出会いました。蛇は神聖で縁起のよいもの。なんだか小栗に迎えられているようで、感慨深いものがありました。

山の上の本墓には、危ないのでお線香を供えないでほしいと言われていました。そこで本墓では静かに手を合わせました。

本墓の説明板に書かれていること
慶応4年(1868年)閏4月6日の朝、小栗上野介忠順は家臣三名とともに水沼の烏川河原で斬首されました。遺体は村役人の池田長左衛門らによってこの場所に埋葬されました。首は養子・又一の首とともに館林に送られ、東山道総督・岩倉具定の首実検を受けたあと、法輪寺の境内に葬られました。のちに中島三左衛門らがその首を取り戻し、一周忌の夜にこの地に埋葬しました。ここが小栗公の本墓で、向かって右は小栗とともに斬首された家臣三名の墓です。(高崎市教育委員会)

普門院で聞いた「首を運んだ」という言い伝えと、ここでの「館林から取り戻して一周忌に埋葬した」という記述。どちらも、小栗を慕った人たちが命がけで動いた話です。

資料室でご住職と語る ― 「咸臨丸ではなく、ポーハタン号を」

本堂横の資料室で、思わず目を見張りました。前日に築地で跡地の説明板を見たばかりの築地ホテル館が、模型になって展示されていたのです。旅の始まりの地と、小栗が眠る地が、ここでつながりました。(本堂内の資料は撮影不可です)

ご住職は熱心な小栗好きで、さまざまな事実を話してくださいました。私もそこそこ詳しいので、自分の考えをぶつけてみました。

ご住職が力を込めて語っていたのが、咸臨丸とポーハタン号の話です。勝海舟の咸臨丸ばかりが英雄扱いされていますが、咸臨丸はポーハタン号に随伴した船で、日本人による航海の練習でもありました。しかも勝は船酔いで、ほとんど寝ていたという逸話も残っています。

一方の小栗は、日米修好通商条約の批准書を交換する遣米使節の目付(監察)として、正使の新見正興、副使の村垣範正とともにポーハタン号で渡米しました。サンフランシスコからパナマへ向かい、地峡を汽車で越え、別の船でワシントンへ。帰りは大西洋から喜望峰を回り、東南アジアを経て帰国しています。日本人で初めての世界一周です。遺品館の椰子の実は、その帰り道の品でした。

本来はそちらを大々的に取り上げて、歴史に残すべきだった。しかし新政府は、自ら斬った小栗を英雄扱いできないので、勝にスポットを当てたのではないか。ご住職はそう説いていて、私も確かにそうだなと思いました。まあ、勝も頑張ったのですが。

東善寺の皆さんは口をそろえて、「咸臨丸ではなく、ポーハタン号に光を当ててください。その史実をよく調べて読んでみてください」と話していました。

ご住職は、小栗の功績が後の世で認められた話もしてくださいました。日本海海戦のあと、東郷平八郎は小栗の孫を招き、「勝てたのは小栗さんが横須賀に造船所を造っておいてくれたおかげ」と感謝して書を贈ったそうです。その書はもともと小栗家のご子孫が大切に持っていたもので、のちに東善寺へ寄贈されたのだと教えてくれました。また、小栗の死後、残された家族は大隈重信の家からたいそうよくしてもらっていたようです。

資料室の一角では、小栗を特集したテレビ番組がDVDで流れていました。司会は片岡愛之助さん、ゲストはこちらのご住職です。帰りには、ご住職がつくっている会報「小栗上野介情報」もいただきました。

お昼どきにもかかわらず、無理をお願いしたところ、ご住職は快く記念撮影に応じてくださいました。本当に感謝しています。

本堂横の資料室で、ご住職と
本堂横の資料室で、ご住職と

大河でにぎわう境内

着いた午前10時ごろは駐車場に余裕がありましたが、お昼ごろに帰るときには満車で、あふれた車が並んでいました。来年の大河ドラマへの期待と、小栗人気のすごさを肌で感じました。訪れるなら、午前の早い時間がおすすめです。

場所 群馬県高崎市倉渕町権田169
駐車場 あり(10台ほど。お昼ごろには満車になっていました)
トイレ あり(男女別、きれいでした)

観音山 ― 小栗邸の建設予定地

寺から小栗が邸宅を建てようとしていた観音山まで歩くと、途中で猿が道路を横切りました。これも何かの縁を感じました。

邸宅の予定地へは急な山道で、雨など天気の悪い日は登りづらいと思います。妻は下で待っていました。ところが登ってみると「P」の看板があり、実は車でも登れると知りました。ただし道はとても狭く、車が傷つきそうです。

説明板に書かれていること(高崎市指定史跡 観音山小栗邸跡)
小栗上野介忠順は、倒幕勢力に対する主戦論を唱えましたが、将軍・徳川慶喜に容れられず、幕府の要職を免ぜられました。その後、慶応4年(1868年)3月1日、家族・家臣とともに知行地である上野国権田村に隠棲しました。はじめは東善寺を仮の宿所とし、間もなく丘の上にあるこの場所に邸宅の建設を始めました。住宅の建設用地や用水路、畑などの造成を行い、約2か月後の4月28日には主屋が上棟の運びとなりました。
ところが、小栗の力を恐れた新政府軍は、この邸宅に対し「陣屋等厳重に構え、砲台を築き」と言いがかりをつけ、「小栗に反逆の意志あり」として高崎・安中・吉井の三藩に小栗追討令を出しました。これにより捕らえられた小栗は、一切の取り調べもなく、閏4月6日(新暦5月27日)に烏川の水沼河原で家臣三名とともに斬首されました。
完成目前であった小栗邸の主屋は解体・売却されましたが、前橋市総社町山王に現存する住宅に、部材の多くが使われているとされます。この地には、今も礎石が残されています。(高崎市教育委員会)

「砲台を築き」と言われたこの場所は、実際に歩いてみると、のどかな丘の上の平地でした。草むらの中に、土に半分埋まった平らな石がいくつも顔を出しています。これこそが説明板にある礎石、小栗邸を建てるための土台の石です。完成まであと少しだった家の、まさに基礎がいまもここに残っている。そう思うと、ただの石がとても重いものに見えました。

上では、用水路の跡らしきものも見つけました。説明板にある「用水路」の名残でしょうか。いまも水が流れている小さな沢もありました。ほかにも、「小栗公が江戸から運んだ」と書かれたお茶の木が保存されていたり、「馬場跡へ」という案内が立っていたりと、小栗がここで新しい暮らしを始めようとしていた跡があちこちに残っています。

丘の上には大きな石碑も建っていました。慶応4年(1868年)3月に小栗がこの丘に住まいを構えたこと、万延元年(1860年)に遣米使節として渡米したことなどが刻まれていますが、風化と木漏れ日で、全文を読み取ることはできませんでした。

土に埋まった礎石。小栗邸の土台になるはずだった石
土に埋まった礎石。小栗邸の土台になるはずだった石
石碑に刻まれていること(殉難百周忌の碑)
慶応戊辰(一八六八年)三月一日、小栗上野介忠順は江戸より移り住み、この丘上に居邸を新築し、村の若き人々の育成を計画、眼下の山峡から太政大臣を出して見せるといった。それは、井伊大老の抜擢により、僅か三十四才で、万延元年第一回遣米使節全権の一人となり米国に赴き、近代文化に接し、国会を視察して、将来の新日本建設は封建の垣を超えた若き人々の力に待つことが多いと観じたからである。然し、素志と違い満村六十六日で、雄図空しく逝いたけれど、この地の若人、否、日本の若人によせた公の期待は大きく、遥かなる浅間かくしの峰に、烏川のせせらぎに、今猶その声は、私達に語りかけている。本日殉難百周忌を迎え、感新たなるものあり、邸址に碑を建て公追慕のしるしとする。
題字 井伊公後裔 彦根市長 井伊直愛/撰文 小栗公顕彰会顧問 大坪指方/揮毫 東善寺第二十世住職 村上照賢/建碑賛助 武蔵野中央病院長 医学博士 牧野総一郎

かみくだくと
小栗は1868年3月1日に江戸からこの地へ移り、丘の上に屋敷を建て始めました。村の若者を育て、「この山あいから太政大臣(いまの総理大臣にあたる最高職)を出してみせる」と語ったと刻まれています。34歳で遣米使節としてアメリカに渡り、議会を見た経験から、新しい日本をつくるのは身分の壁を越えた若者の力だと考えたからだ、と碑は説明します。けれども村に住んだのはわずか66日。それでも若者に寄せた期待は、浅間隠山の峰や烏川のせせらぎから今も語りかけてくる――殉難から百年の法要の日に、その思いを込めてこの碑が建てられました。
題字を書いたのは、小栗を遣米使節に抜擢した大老・井伊直弼の子孫で、当時の彦根市長・井伊直愛です。

観音山のふもとには、「刀工 上州権田住政重屋敷跡」という高崎市指定史跡の説明板もありました。塗装がひび割れてはがれかけていますが、写真を拡大すると大部分が読み取れました。

説明板に書かれていること(高崎市指定史跡 刀工上州権田住政重屋敷跡)
刀工権田住政重は、戦国時代の頃から代々この地に住み、刀や槍をはじめ、矢の根(矢じり)などを作っていました。永禄年間(1558〜1570年)、吾妻郡岩櫃城の武将・斎藤憲広は、上杉謙信の助力を得るため、権田鍛冶政重の作った矢の根千本を差し出しました。また、武田軍が西上州に侵入してきたときには、大戸城主・浦野真楽斎が弟の但馬守を通して、政重が鍛えた矢の根を武田方に献上しました(本数の部分ははがれて読めません)。これらのことは『加沢記』や「浦野文書」に記されています。
江戸時代には、政重・金重の二代が有名です。この政重は吾妻郡伊参の蟻川家の人で、名を神保吉右衛門といい、刀工・権田伝左衛門に弟子入りして、享保10年(1725年)に伝左衛門から系譜を譲られ、40歳のときから「上州権田住政重」と名乗るようになりました。(昭和57年4月1日指定/平成18年 高崎市教育委員会)

かみくだくと
権田は、小栗が来るずっと前の戦国時代から、刀や矢じりをつくる鍛冶の里でした。上杉方にも武田方にも、ここの矢じりが贈られています。戦国の争いの境目にあった西上州で、権田の鍛冶の腕が頼りにされていたことがわかります。

刀工 上州権田住政重屋敷跡の説明板
刀工 上州権田住政重屋敷跡の説明板

場所 群馬県高崎市倉渕町権田3584(観音山 小栗上野介屋敷跡)
駐車場 山頂に4台ほど(東善寺から車で2分ほど)。ただし道がとても狭く、車を傷つけそうでした。「P」の看板あり
トイレ なし。東善寺で済ませてから向かうのがおすすめです

はまゆう山荘 ― 海軍カレーと小栗の資料展示

昼食は、烏川を見下ろす宿「はまゆう山荘」のレストランでいただきました。お昼のラストオーダーは13時半で、私たちが着いたのはその10分前、ぎりぎりでした。

お店の方から、最近「小栗公カレー」がメニューに加わったと教えてもらいました。海の幸と山のきのこを合わせた「シーフードときのこのカレー」で、サラダ付きです。一瞬迷いましたが、はじめから名物の横須賀海軍カレーを食べるつもりで来ていたので、今回は海軍カレーを注文しました。つい先日も横須賀のヴェルニー公園を散策し、YOKOSUKA軍港めぐりを体験したばかり。小栗が造った横須賀製鉄所の地を歩いたあとだけに、なおさら海軍カレーの気分でした。

海軍カレーにはサラダと牛乳が付いてきます。コーヒーでも紅茶でもなく牛乳というのが味わい深く、給食を思い出しました。妻は飲まないので、私が2杯いただきました。

ロビーでは、海軍カレー(2食入り)と小栗公カレーがおみやげとして売られていました。

館内には、小栗の資料展示コーナーもありました。壁一面に「小栗かるた」の絵札が年代順に並び、生まれた神田駿河台でのわんぱくな少年時代から、遣米使節、横須賀製鉄所、そして権田村での最期まで、絵で小栗の生涯をたどれるようになっています。等身大の小栗のパネルや、鳳凰丸の模型、大河ドラマ「逆賊の幕臣」のチラシ、高崎で開かれるプレリュードイベントの案内、小栗の150回忌に行われた「小栗まつり」を伝える新聞記事も飾られていて、地元の熱気が伝わってきました。

場所 群馬県高崎市倉渕町川浦27-80(倉渕川浦温泉)
駐車場 あり
トイレ 館内にあり

高崎城 ― 乾櫓

東善寺から高崎方面へ向かう道は、烏川にほぼ沿うように下っていきます。その途中で、朝に訪ねた水沼の河原が再び現れました。小栗と家臣たちも、この川沿いの道を運ばれていったのでしょうか。そう思うと、窓の外の景色がまた違って見えました。

高崎市街に戻り、高崎城の乾櫓を訪ねました。小栗の養子、又一が捕らえられ、家臣とともに斬られたのが、この高崎です。

説明板に書かれていること(群馬県指定重要文化財 高崎城乾櫓)
高崎城の本丸は、烏川の縁に近いところ(今の日本たばこ産業の倉庫やNTT別館の付近)に土塁と堀をめぐらし、その四隅に櫓を置いていました。その乾(北西)の角にあったのが、この櫓です。二層の建物で、本瓦葺き入母屋造りの屋根をのせています。
高崎城の築城は慶長3年(1598年)、井伊直政によって始められました。その後、藩主はめまぐるしく替わり、元和5年(1619年)に安藤重信が入って三代にわたって在城しました。三代目の重博が、平屋の土蔵だった乾櫓を二層の櫓に改築したという記録が残っています。
明治6年(1873年)、城内に東京鎮台の高崎分営(のちの十五連隊)が置かれ、その後、乾櫓は東門とともに下小鳥町の農家に払い下げられて納屋として使われていました。昭和49年に県の重要文化財に指定されたのにともなって、昭和54年にこの場所へ移築・復元されたものです。

高崎城の遺構は、ほんの一部しか残っていません。石垣もわずかです。こうした遺構は、公園にするなどしてしっかり残してほしいと思いました。正直なところ、この町からは歴史を大切にしようという思いがあまり感じられず、少し残念でした。

高崎城の御城印は500円で、近くの文開堂で販売しています。「徳川四天王 井伊直政公築城」と書かれていました。

説明板に書かれていること(高崎城東門の由来)
高崎城にあった十六の城門のうち、本丸門(雀門)・刎橋門・東門は平屋門でした。そのうち、くぐり戸がついていたのは東門だけで、通用門として使われていました。
この門は、寛政10年(1798年)正月と天保14年(1843年)12月の二度、火災で焼け、いまのように建て直されたものと考えられています。くぐり戸は乗り籠が通れるようになっていて、門は築城当初のものよりかなり低く、馬に乗ったままでは通れなくなっています。
明治のはじめ、門は当時名主だった梅山氏に払い下げられ、市内下小鳥町の梅山大作氏の家の門になっていました。高崎和田ライオンズクラブが創立十周年の記念事業として梅山氏から譲り受けて復元・移築し、昭和55年(1980年)2月に市へ寄贈しました。(昭和55年3月 高崎市教育委員会)

かみくだくと
いま城址に立つ東門は、明治に民家の門として売られ、100年ほどたってから地元の団体の手で城へ戻ってきたものです。乾櫓も農家の納屋として使われていたので、高崎城の建物は二つとも「民家に払い下げられていたおかげで残った」ことになります。

碑に刻まれていること(顕彰碑)
城址に立つ大きな「顕彰碑」は、旧高崎城内に置かれていた陸軍の歩兵第十五聯隊と、郷土出身の兵士たちを顕彰するものです。碑文には、明治維新ののち高崎城内に兵営が置かれ、明治17年(1884年)に歩兵第十五聯隊が編成されたこと、日清・日露戦争から太平洋戦争まで多くの郷土の若者が出征したことなどが刻まれています。建てられたのは昭和43年(1968年)10月23日、明治百年を記念して、元歩兵第十五聯隊ならびに郷土出身陸海空戦没者の合同慰霊祭実施期成連盟によるものです。
高崎城の跡は、明治以降は軍の土地として使われていたことがわかります。遺構がわずかしか残っていない理由の一つも、ここにあるのでしょう。
碑に刻まれていること(聯隊歌)
岩にはめ込まれた石板には、歩兵第十五聯隊の「聯隊歌」が五番まで刻まれています。一番は「三山天に連なりて 刀水岩に激しゆく」と始まり、上毛三山と利根川(刀水)を歌い込んでいます。二番には「翠色濃き和田城を 繞りて清き烏川」とあり、高崎城の古い名前「和田城」と、そのそばを流れる烏川が出てきます。
烏川は、朝に訪ねた水沼河原を流れていたあの川です。小栗が斬られた河原と同じ川が、ここ高崎の城下まで流れてきているのです。
碑に刻まれていること(歩兵第十五聯隊址)
大きな自然石に「歩兵第十五聯隊址」の文字がはめ込まれ、手前の黒い石には「址碑之由来」が刻まれています。「址碑之由来」によると、上毛三山を仰ぎ、烏川の清流を見下ろすこの地には、正長元年(1428年)に和田城が築かれ、のちに名を高崎城と改めて、中山道を押さえる要衝となりました。明治に入ると、国民皆兵令の施行にともなって東京鎮台の部隊が置かれ、明治17年(1884年)5月に歩兵第十五聯隊が創設されます。以来、昭和20年(1945年)8月15日の終戦まで、日清・日露の戦いから太平洋戦争まで、郷土の多くの兵士がここから出征しました。碑は、かつての正門の歩哨の位置に、昭和51年(1976年)5月25日に建てられたものです(歩兵第十五聯隊址之碑建立委員会)。
細かい字がびっしりと刻まれていて、途中の戦歴の部分までは読み取れませんでした。読めたところだけを書いています。

場所 群馬県高崎市高松町(高崎城址。乾櫓と東門は三の丸の一角に並んでいます)
駐車場 市営の高崎城址地下駐車場(186台・有料)
トイレ 周辺のあちこちにたくさんあり、心配ありません

下斉田 ― 小栗又一の墓

最後に訪ねたのは、高崎市下斉田町にある小栗又一忠道の墓です。

説明板に書かれていること(小栗又一源忠道の墓)
小栗又一源忠道は、勘定奉行など幕府の要職を務めた小栗上野介忠順の養嗣子です。鳥羽伏見の敗戦後、江戸城内の評定で主戦論を主張した上野介は、将軍慶喜に罷免され、慶応4年(1868年)3月、知行地の一つ権田(今の倉渕町権田)に隠棲しました。しかし間もなく新政府から謀反の疑いをかけられ、4月6日、水沼川原で斬首されました。
又一は、父の命で申し開きをするために官軍へ出向きましたが、翌7日、主従4人とともに高崎城下で斬首されました。下斎田は、安永9年(1780年)から幕末まで88年間、小栗家の知行地でした。善政を施したことから領民たちに慕われており、村人たちは殿様の非業の死を悲しみ、その遺骸をもらい受けて阿弥陀堂の地に埋葬し、墓を建立して「小栗様」として供養してきました。
戒名 尚栖院殿及懿尽義居士 二十一歳

父のために申し開きに向かった21歳の若者が、取り調べもされずに斬られた。その亡骸を、村の人たちが引き取って弔い続けてきた。説明板を読んで、胸が熱くなりました。東善寺の家臣の墓で名前を見た塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助の3人も、ここ下斎田に葬られています。

近くには「大河ドラマ『逆賊の幕臣』ゆかりの地・高崎市」の幟も立っていました。

境内には田口家のお墓がたくさん並び、近くには立派な屋敷の門も残っていました。帰ってから調べると、このあたりには中世の土豪・田口氏の居城「下斎田城」があり、田口家は江戸時代には名主を務めた家だそうです。あの門も、その田口家ゆかりのものかもしれません。小栗家の知行地の名主だった家と、又一の亡骸を引き取って葬った村人たち。直接の関係を示す資料は見つけられませんでしたが、思わずつなげて考えたくなりました。

小栗又一源忠道の墓の説明板
小栗又一源忠道の墓の説明板
碑に刻まれていること(寄進芳名碑)
又一の墓所に立つ石碑は、上部に「寄進芳名碑」と大きく刻まれ、その下に寄付をした人たちの名前がびっしりと並んでいます。右端には「小栗殿」に続いて年忌(法要)を記したらしい文字があり、又一の法要にあわせて村人たちが寄進をした記念碑のようです。名前の多くは風化していて一人ひとりは読み取れませんでしたが、又一を葬った村人たちが、その後も供養を続けてきたことがわかる碑です。

場所 群馬県高崎市下斎田町335
駐車場 2〜3台ほど
トイレ なし

史跡の歴史をもっと詳しく(幕末歴史ガイド)

この記事は旅の記録です。それぞれの史跡の歴史や、説明板・碑文の内容、現地で考えたことは、姉妹サイト「幕末歴史ガイド」の現地取材記事でくわしく書いています。

旅を終えて

家に帰って、旅の記念品を並べてみました。普門院、東善寺、伊香保神社の御朱印。東善寺の御朱印には、小栗の肖像の印が押されています。そして普門院と倉渕のパンフレット、交通安全のステッカーとお守り、童門冬二の『小栗上野介』上下巻です。

東善寺の皆さんの「咸臨丸ではなく、ポーハタン号を」という言葉が、いまも耳に残っています。そして、小栗だけでなく、ともに斬られた家臣、会津へ夫人を送り届けた若者、亡骸を引き取った村人たち、一人一人の名前が、各地の説明板や墓に刻まれていました。来年の大河を前に、小栗たちの世界一周の航海と、小栗を支えた人たちのことを読み直してみたいと思います。皆さんもぜひ、放送が始まる前に小栗ゆかりの地を訪ねてみてください。

行くときに知っておくと役に立つこと

場所 駐車場 トイレ 御朱印・料金 メモ
雑司ヶ谷霊園 無料の専用駐車場あり(8〜10台ほど)。私たちは見つけられず ― ― 小栗家の墓は区画番号を事前に調べておくと安心
普門院(大宮) 20台ほど あり(男女別、きれい) 御朱印はお気持ちで(私たちは500円) 隣に保育園あり
横手館(伊香保) ― 本館の部屋にはなし ― 石段街から徒歩10秒。大浴場と無料の貸切風呂あり
伊香保神社 ― ― 御朱印は土日祝のみ、9時〜17時 ―
水沼河原(最期の地) 3〜4台ほど ― ― 橋の途中から土手へ降りる狭い道の先
東善寺(倉渕) 10台ほど(昼ごろには満車) あり(男女別、きれい) 拝観料 大人200円・中高生100円、お線香一束200円、御朱印300円 ライターは貸し出し(必ず返却を)。山の上の本墓は火の危険があるため線香不可、供養塔と銅像の前は可。本堂内の資料は撮影不可
観音山(小栗邸跡) 山の上にあり(道がとても狭い) ― ― 急な山道。雨の日は注意
はまゆう山荘(昼食) ― ― ― レストランの昼のラストオーダーは13時半
高崎城 ― ― 御城印500円(文開堂で販売) ―

東善寺では、私たち夫婦で拝観料400円、お線香200円、御朱印300円の合計900円でした。

この旅の道のり

  1. 1日目
  2. 09:09築地軍艦操練所跡・築地ホテル館跡車で移動
  3. 09:56靖国神社大村益次郎の銅像車で移動
  4. 10:28雑司ヶ谷霊園小栗家の墓・中浜万次郎の墓車で移動
  5. 11:23普門院(大宮)小栗一族の墓昼食
  6. 14:50伊香保温泉 横手館チェックイン徒歩
  7. 15:15石段街・伊香保関所小間口と足湯徒歩
  8. 16:05伊香保神社石段の上横手館に泊まる
  9. 2日目
  10. 09:55水沼河原小栗の最期の地車で移動
  11. 10:04姉妹観音不忘の碑車で移動
  12. 10:18東善寺遺品館・本墓・資料室徒歩
  13. 12:27観音山小栗邸の建設予定地車で移動
  14. 13:22はまゆう山荘海軍カレーと資料展示車で移動
  15. 15:14高崎城 乾櫓車で移動
  16. 15:52下斉田小栗又一の墓

※時刻は当日撮影した写真の記録によるものです。

小栗上野介ゆかりの地について

東京・横須賀・埼玉・群馬に残るゆかりの地は小栗上野介ゆかりの地 ― 東京・横須賀・埼玉・群馬をたどるにまとめています。終焉の地・倉渕を回るなら倉渕・東善寺の歴史旅モデルコース(都内発・車1泊2日)へ。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公です。

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