【現地レポート】岩崎城(日進市)|小牧・長久手の戦いで城兵が討死した城、空堀と展望台・駐車場・御城印

【現地レポート】岩崎城(日進市)|小牧・長久手の戦いで城兵が討死した城、空堀と展望台・駐車場・御城印

愛知県日進市の岩崎城(いわさきじょう)は、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、家康の本拠・岡崎をめざす秀吉方の池田恒興隊に攻められ、城を守っていた丹羽氏重以下約300人が討死した城です。いまは岩崎城址公園として整備され、本丸の周りの大きな空堀や土塁がよく残っています。昭和62年に建てられた展望台(城閣)と、岩崎城歴史記念館もあります。

この記事は、これから行く方のための現地ガイドです。私たちが歩いて見たことと、現地の説明板に書かれていることをまとめました。

岩崎城の空堀
岩崎城の空堀
目次

岩崎城の基本情報

所在地 愛知県日進市岩崎町(岩崎城址公園)
見られるもの 本丸周りの空堀・土塁、土橋跡、櫓台、隅櫓跡(礎石の復元)、二の丸庭園、「表忠義」碑、展望台、岩崎城歴史記念館
記念館 午前9時〜午後5時(入館は4時30分まで)、毎週月曜休館、年末年始休館、観覧無料(園内の案内図による。看板が古いので最新は日進市の案内で確認を)
駐車場 あり。私たちが行った日は菊の展示会のような催しがあって城下の駐車場はいっぱいでした。停められるのは10台くらい
トイレ あり
御城印 展望台の横の記念館(展示館)で。300円

行く前に知っておきたいこと

岩崎城の戦いは、長久手の戦いとひと続きの出来事です。秀吉方の別働隊の先鋒・池田恒興がここで時間を取られているあいだに、家康軍が別働隊に追いつき、長久手で決戦になりました。長久手古戦場とあわせて回ると、戦いの流れがよく分かります。

説明板に書かれていること(岩崎城 城の概要)
岩崎城は、室町時代末の平山城である。織田信秀(信長の父)により享禄年間(一五二八〜一五三一)に築城され、その後、徳川(松平)方に奪われたのち、天文七年(一五三八)丹羽氏清が本郷城から移ったと言われ、以後、氏識・氏勝・氏次の四代に渉って慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦いの戦功により三河伊保に一万石の小名として転封されるまでの六十二年間居城しました。
天正十二年(一五八四)小牧・長久手の戦いの際に、織田信雄・徳川家康連合軍の後方攪乱を狙った豊臣秀吉方の先鋒池田恒興隊を阻止して、城代丹羽氏重(傍示本城主)以下三〇〇余名が討ち死したことが織田・徳川軍を勝利に導いたと伝えられています。
城郭は、本丸、二の丸、東・西曲輪およびそれらを取り囲む堀や土塁等がよく遺存しており、昭和五十九〜六十一年度までの発掘調査の結果貴重な資料が多数出土しました。
「城の概要」の説明板
「城の概要」の説明板

丹羽氏と岩崎城 ― 氏次と氏重の兄弟

丹羽氏はどこから来たのか

展望台の展示によると、丹羽氏は尾張国丹羽郡の丹羽に住んだことから「丹羽」を名乗った一族です。文明3年(1471)に尾張と三河の国境に近い折戸へ移り、文亀3年(1503)には天白川の流れる本郷に城を移しました。そして天文6年(1537)、丹羽氏清が、尾張と三河を結ぶ三つの街道が合流する場所にあった岩崎城を手に入れます(外の「城の概要」の板では天文7年)。

岩崎城では、氏清・氏識・氏勝・氏次の四代が城主を務めました。織田氏と松平氏が争う国境の地で勢力を広げ、氏勝の代から織田信長に仕え、その子・氏次は徳川家康に属しました。

兄・丹羽氏次 ― 小牧山に出陣し、家康軍の道案内に

天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いが始まると、城主の丹羽氏次(うじつぐ)は家康から岩崎城の守りを命じられていましたが、城の留守を弟の氏重と姉婿の加藤景常に任せて、自分は小牧山の家康のもとに参陣しました(展示「小牧・長久手の戦いと岩崎城」)。

4月、秀吉方の別働隊が三河へ向かうと、家康はこれを追う部隊を出します。展示の図によると、4月8日の夜、小牧山を出た追撃の部隊は丹羽氏次を案内役にしていて、氏次自身も兵300を率いていました。尾張と三河の国境の地理にくわしい丹羽氏が、家康軍の先頭に立ったことになります。

戦いのあと、氏次は家康にその功を認められました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのあと、三河国伊保に1万石を与えられ、「地方の一土豪から近世の譜代大名に昇格した」と展示には書かれています。

弟・丹羽氏重 ― 16歳で城を守って討死

城に残った弟の丹羽氏重(うじしげ)は、永禄12年(1569)の生まれとされ、このとき16歳でした。外の説明板では「城代丹羽氏重(傍示本城主)」と書かれています。

4月9日の早朝、岡崎へ向かう池田恒興の軍が岩崎城の前を通りかかると、城兵は打って出ました。「表忠義」碑の説明板によると、氏重は疱瘡を病んでいましたが、母親に励まされながら、老人や幼い子ども、女性たちを城の外の妙仙寺に逃がし、白馬にまたがり長槍を持って出陣しました。城兵が弓や鉄砲を撃ちかけたことに池田恒興は激怒し、一万あまりの軍勢で城を攻めます。300人ほどの城兵は防ぎましたが、辰の下刻(午前8〜9時ごろ)に城は落ち、氏重以下が討死しました。

碑の裏には、氏重をはじめ、長久手城主の加藤景常(42歳)、遺族や縁者、名もない騎士・足軽・弓手・戦士、城下の商工業者30人まで、討死した人々の名が刻まれているそうです。

岩崎城の戦いが勝敗を分けた

池田恒興の軍が岩崎城で時間を取られているあいだに、家康軍は秀吉方の別働隊に追いつきました。そのため、外の説明板には、氏重たちの討死が「織田・徳川軍を勝利に導いたと伝えられています」と書かれています。「表忠義」碑の題字は徳川慶喜の書で、説明板は、岩崎城が徳川方として戦い全員が討死したことを、家康への忠義の表れとして記したものと説明しています。

その後の丹羽家

丹羽氏は伊保藩のあと、寛永15年(1638)に美濃岩村藩2万石へ移り、元禄15年(1702)に越後高柳藩1万石、元文4年(1739)に美作・河内へ移されたのち、寛保2年(1742)からは播磨三草藩1万石として明治4年(1871)の廃藩置県まで続きました(展示「丹羽氏の所領変遷」)。岩崎城で討死した氏重の兄の家が、明治まで大名として続いたことになります。

参考:岩崎城の説明板・「表忠義」碑の説明板・展望台の展示/サードペディア百科事典「丹羽氏重」(生年)

歩き方

空堀と土塁

園内に入ると、まず目につくのが深い空堀です。説明板によると、最大幅およそ16m、深さおよそ5m。この規模の空堀が残る城は、尾張ではあまり例がないそうです。

説明板に書かれていること(岩崎城 空堀)
岩崎城の本丸や馬出など、それぞれの曲輪の周囲にめぐらされています。本丸周囲の空堀は昭和六十年の発掘調査で薬研堀(V字型の堀)から箱堀(底が平坦な堀)へ改修されたことがわかりました。天正十二(一五八四)年の小牧・長久手の戦いの頃、軍事的緊張が高まったことで、城の守りを強化する必要があり、改修されたと考えられます。岩崎城の空堀は最大幅およそ十六m、深さおよそ五mと大規模で、この規模の空堀が残る城は尾張地方ではあまり例がなく、貴重な場所です。
説明板に書かれていること(岩崎城 土塁)
土塁とは曲輪の周囲に設けられ、内部への敵の侵入を防ぐ施設です。土塁を築く際は堀を掘って出てきた廃土を利用するため、土塁と堀は同時に造られることが多いです。岩崎城馬出の土塁は南側を除く三方に築かれ、江戸時代に描かれた「愛知郡岩崎村古城絵図」には幅二間〜四間(およそ三m〜七m)、高さ二間(およそ三m)と記されています。(現在の岩崎城二の丸は馬出と評価されています)

二の丸庭園と土橋跡

説明板に書かれていること(岩崎城 二の丸庭園)
この庭園は名古屋城三の丸庭園を参考にし、日進市の形を表現したものです。本来この場所は庭園ではなく、馬出(城の入口を守り、城兵の出入を確保するための施設)とも考えられており、周囲には敵の進入を防ぐために築かれた土塁がめぐらされています。
説明板に書かれていること(岩崎城 土橋跡)
岩崎城は丘陵の突端部に立地し、空堀(箱堀)によりいくつかの郭に区画されています。現在、この橋のかかっている部分には、本丸と二の丸を連絡する唯一の土橋が築かれていました。

「表忠義」碑

本丸の一角に、徳川慶喜の書という「表忠義」の題字を刻んだ大きな碑があります。碑の文字は摩耗していて写真では読めませんが、隣の説明板に要約が書かれています。

説明板に書かれていること(『表忠義』碑)
この石碑は、明治四十三年(一九一〇)四月九日、旧尾張藩士・中村修、丹羽精五郎氏等を発起人に、丹羽忠道氏の文章で綴られたものです。題字は、徳川幕府最後の将軍・慶喜の書で、小牧・長久手の戦いの際、岩崎城が徳川方の城として戦い、全員討死したことを家康に対する忠義の表れという意味で使用したものと思われます。
(碑文の要約)岩崎城は名古屋の東、南に向かえば岡崎、北方には小牧があるという位置にあり、天正十二年(一五八四)、敵将・池田信輝(恒興)が城下を行軍しようとしたとき、城を守っていた丹羽氏重十六才は、疱瘡を病んでいましたが、母親に励まされながら老人、幼い者、婦女等を、城外の妙仙寺に避難させ、白馬に跨り長槍を携え打って出ました。家来、里人、商工業者、旧恩ある者などが弓・鉄砲を乱発したことに信輝は激怒し、一万余りの軍勢で城を攻撃しました。三百名に過ぎない城兵は防戦しましたが辰下刻(午前八時〜九時頃)に落城しました。池田軍は、六坊山において首実験を行い勝利を誇っていたところ、後方の総大将・三好秀次の本隊が追撃されたことを知り、驚き長久手まで引き返しますが、ここで徳川勢と戦い敗北します。この小牧・長久手の戦いについて『日本外史』(一八二七年・頼山陽著)は徳川家康の天下取りは大阪の陣、関ヶ原の戦いにあらず、小牧にありと評価しています。岩崎城の攻防戦を後世に伝えるため、岩崎村の人々、有志の人々により、ここに石碑が建立されました。裏面には氏重以下、長湫城主・加藤景常(四十二才)をはじめ、遺族及び縁故者、また無名騎士六十、足軽約六十、弓手三十八、戦士四十八人の姓名、城下の商工業者三十人が討死したことが刻まれています。

櫓台・隅櫓跡

説明板に書かれていること(岩崎城 櫓台)
(冒頭の2行ほどは光の反射で読み取れませんでした)…この部分は、発掘調査の結果、版築という工法で人為的に盛土(高さ五・五メートル)されていることがわかりました。なお、「岩崎村古城絵図」(名古屋市蓬左文庫)には「櫓台」と記載され、また城跡のことを地域の人々は「オテンシ」と呼んでいました。
説明板に書かれていること(岩崎城 隅櫓跡)
建物の遺構の中で、唯一礎石を有した建物が、本丸東南の張り出し部分に発見されました。礎石が一間(約一八一センチ)間隔に配置され、四間×四間の建物であったことがわかります。調査後、すべての遺構は埋戻されていますがここに礎石の様子を復元しています。周辺には貝塚、製鉄炉、柵等の跡が検出されています。

展望台(城閣)と岩崎城の建設誌

展望台(城閣)は、昭和62年に地元の岩崎区と岩崎財産区が建てたものです(「岩崎城の建設誌」の碑による)。

説明板に書かれていること(岩崎城の建設誌(石碑))
岩崎城は、享禄年間織田信秀の持ち城であった。その後丹羽氏清が城主となって、氏識、氏勝、氏次の四代が六十餘年在城した。天正十二年四月(一五八四)の小牧長久手の合戦のとき、留守を預かっていた氏次の弟氏重が羽柴秀吉方の池田隊に攻撃されて守備の城兵全員が討死した。以後この城は廃城となったが、古城址は四百年前の形を留め荒地となって残されてきた。
昭和五十九年四月九日、落城の日に四百年大祭を地元の区民で営み、これを機会に古城址を整備して保存することを要望した。昭和五十九年城域の土地所有者の協力を得て、古城址は町の史跡公園となった。昭和六十年三月、日進町は城址の発掘調査を行ない、昭和六十二年三月ここに岩崎城歴史記念館を建設して城域を岩崎城址公園として整備された。昭和六十一年七月岩崎区と岩崎財産区は合同して、岩崎城建設委員会を結成して区民の要望にそい、城域に城閣を建設することを決議して着工し、建設の諸費用は岩崎財産区より支出されて昭和六十二年五月竣工した。城址公園の高台に建つ城閣は遠方からも望まれて、地元の人びとに昔を偲び郷土を愛し、親しむ心のよりどころとなり、郷土のシンボルとして後世に残されることを念願して、ここに岩崎城建設の誌とする。

展望台の中の展示

展望台の中には、丹羽氏の歴史や、中入作戦の図などの展示があります。1階には丹羽氏重の騎馬像がありました(像のプレートの文字は写真ではぼやけて読めませんでした)。

説明板に書かれていること(展望台の展示「丹羽氏の歴史」)
丹羽氏の発祥は居住地を尾張国丹羽郡丹羽に構えたことにあり、その祖先を清和天皇から足利、一色、丹羽氏と姓を改称し、分家してきたと伝えている。文明3年(1471)、丹羽氏従が尾張・三河の国境に近い折戸に移住するが、文亀3年(1503)、天白川が流れる平地の中央、本郷に城を移す。さらに天文6年(1537)、氏清が尾張・三河間を結ぶ三つの街道の合流地点であった岩崎城を手中に納め、織田・松平氏の抗争のなかで勢力を拡張してきた。やがて、氏勝の代から織田信長に仕え、その子氏次は徳川家康に属した。特に天正12年(1584)の小牧・長久手の戦では、城の留守を任せられた弟氏重が、城兵約300名と共に討死し、一族を失うが、その戦功が家康に認められる。
慶長5年(1600)、関ケ原の戦参戦後、三河国伊保藩・1万石(御山前城)を与えられ、地方の一土豪から近世の譜代大名に昇格した。その子氏信も大坂の陣等で活躍し、寛永15年(1638)、美濃国岩村藩(岩村城)2万石へと栄転した。しかし、4代後の氏音のとき、家中騒動が起こり、元禄15年(1702)、越後国高柳藩1万石に国替えとなる。その後を次いだ薫氏は幕府の信頼が厚く、大坂城の警備役を務めるなど、幕府の要職を歴任し、その領地を元文4年(1739)美作及び河内国の内に移される。そして、寛保2年(1742)、播磨国三草藩1万石を与えられ、氏栄、氏福、氏昭、氏賢、氏中と継承され、明治4年(1871)の廃藩置県を迎え、大名丹羽氏の歴史は終わる。
(入城の年は、外の「城の概要」の板では天文七年、この展示では天文6年と、板によって違います)
説明板に書かれていること(展望台の展示「丹羽氏の所領変遷」)
①尾張国【岩崎城】六千貫[氏清-氏識-氏勝-氏次]天文6年(1537)〜慶長5年(1600)…64年間
②三河国伊保藩・1万石(大名に昇格)【御山前城】[氏次-氏信]慶長5年(1600)〜寛永15年(1638)…39年間
③美濃国岩村藩・2万石【岩村城】[氏信-氏定-氏純-氏明-氏音]寛永15年(1638)〜元禄15年(1702)…65年間
④越後国高柳藩・1万石【高柳陣屋】[氏音-薫氏]元禄15年(1702)〜元文4年(1739)…38年間
⑤美作及び河内国の内へ領地替え・1万石[薫氏]元文4年(1739)〜寛保2年(1742)…4年間
⑥播磨国三草藩・1万石【三草陣屋】[薫氏-氏栄-氏福-氏昭-氏賢-氏中(廃藩)]寛保2年(1742)〜明治4年(1871・廃藩置県)…130年間
説明板に書かれていること(展望台の展示「小牧・長久手の戦いと岩崎城」)
●「小牧・長久手の戦い」天正10年(1582)、本能寺の変における信長の死後、山崎の戦い、賤ケ岳の戦いで勝利した羽柴(のちの豊臣)秀吉は、信長の後継者としての地位を築きつつありました。これを不満とする信長の二男信雄(清洲城主)が信長の同盟者であった遠江国(静岡県)浜松城主徳川家康に援軍を頼み戦いを挑みます。天正12年(1584)3月、犬山城まで進出してきた羽柴勢に対し、家康は小牧山に本陣を置きます。こうして小牧・長久手の戦いが始まりました。しかし本格的な戦いには至らず両軍は対陣したままの状態が続きました。このとき岩崎城主・丹羽氏次は、家康に三河国境付近にある岩崎城の守備を命令されていましたが、弟の氏重と姉婿の加藤景常に留守を任せて小牧山に参陣しました。
●三河「中入」作戦 膠着状態を打開するため羽柴方の武将池田恒興の進言で別働隊をひそかに、かつ敏速に家康の本拠でもある岡崎まで進軍、城下に放火して後方攪乱をはかる「中入」といわれる作戦が三好秀次を大将として決行されます。この三河へ向う作戦ルート上に岩崎があり4月9日早朝、その先鋒を行く池田恒興は敵対してくる岩崎城兵と戦闘に入りこれを落とします。ちょうどその頃、小牧から丹羽氏次を先導役に追撃してきた徳川勢が羽柴勢の最後尾を行く三好隊に追いつき戦いを始めます。戦局はこれを知り引き返してきた前部隊と追撃を続ける徳川本隊とが長久手で決戦となり、池田恒興・元助親子、森長可といった羽柴方の有力な武将が戦死し徳川・織田方の勝利に終わります。
小牧・長久手の戦いにおいて家康は、当時圧倒的に軍事力の面で優位をほこっていた秀吉軍に戦いを挑み、これに長久手で勝利した事実を残しました。このことから、天下統一を果たした秀吉配下の武将におさまった後も、その中で重要な位置をしめることができました。この戦いは将来、家康が天下人として徳川幕府を開くに至るまでの大きな岐路となる重要な出来事であったといえます。
説明板に書かれていること(展望台の展示「三河『中入』作戦と岩崎城」(天正12年4月6日〜9日))
羽柴軍の三河「中入」の軍勢は、第一隊 池田恒興(三好隊救援を知り長久手へ引き返し、徳川軍と戦い戦死)、第二隊 森長可(池田親子とともに長久手で戦死)、第三隊 堀秀政(徳川軍の追撃を撃退するが戦線離脱)、第四隊 三好秀次(徳川軍の急襲に遭い敗走)。
楽田城(羽柴軍本陣)を4月6日夜半に出発し、大草・志段味・稲葉を経て、4月9日早朝に白山林(名古屋市守山区森孝新田)へ。
小牧山(織田・徳川軍本陣)からは4月8日午後7時頃、丹羽氏次を案内者として支隊が出発し、小幡城を経て追撃。徳川軍先手の五将は大須賀康高(兵千八百五十)、榊原康政・本多康重(兵千五百五十)、水野忠重(兵八百)、丹羽氏次(先導役・兵三百)。本隊は徳川家康兵六千三百・織田信雄兵三千。
岩崎城は丹羽氏重・加藤景常の兵三百。4月9日早朝、池田軍の行軍を阻止しようとして籠城。
(参考『長久手戦記』。図は道順を示したもので、位置関係を反映したものではありません)

水琴窟と井戸

説明板に書かれていること(岩崎城 水琴窟)
水琴窟は、手水鉢や、つくばい近くにつりがね状のかめを伏せて地中に埋め込み、中を空洞にしておき、かめの底にあけた小さな穴から水を落としますと、水滴の音が反響して妙音を出す仕掛けです。水琴窟と呼ばれるようになったのは定説はないようですが、その音色が琴と似ている事から名付けられており、江戸時代中期に排水技術のひとつとして考案されたといわれております。当園の水琴窟は、手水鉢の前に2つの常滑焼のかめを伏せたもので、それぞれ異なった2つの音色を楽しんでいただける珍しいものです。
説明板に書かれていること(岩崎城址公園・案内図)
岩崎城歴史記念館 開館時間 午前9時〜午後5時(入館は4時30分まで)/休館日 毎週月曜日(祝日・振替休日にあたる場合の扱いは小さな文字で読み取れませんでした)、年末年始(12月28日〜1月4日)、資料調整日/観覧料 無料

雰囲気

私たちが行った日は、菊の展示会のような催しをやっていて、城下の駐車場はいっぱいでした。甲冑体験もやっていました。

御城印

岩崎城の御城印は300円で、展望台(再建された城)の横にある記念館(展示館のような建物)で買いました。

岩崎城の御城印
岩崎城の御城印

よくある質問

Q.岩崎城に駐車場はありますか?
A.あります。停められるのは10台くらいです。私たちが行った日は催しがあって満車でした。

Q.御城印はどこで買えますか?
A.展望台の横の記念館で買いました。300円です。

Q.岩崎城の展望台は当時のものですか?
A.いいえ。展望台(城閣)は昭和62年に地元の岩崎区と岩崎財産区が建てたものです(「岩崎城の建設誌」の碑による)。

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