【実録】筑波山を見上げた人びと ― 北畠親房の小田城跡と、天狗党が挙兵した筑波山神社から雨の御幸ヶ原へ 都内発 車日帰り

男三人で車を出して、つくばへ行ってきました。午前に小田城跡を歩き、そのまま筑波山へ向かって、麓から自分の足で登り、下りてきて湯に浸かり、蕎麦を食べて帰るという、それだけの一日です。
ただ、歩いているうちに気づいたことがありました。この日に見たものは、時代がばらばらなのに、どれも同じ一つの山を見上げていたのです。南北朝の公家も、幕末の若者も、そして令和のわれわれも。写真はすべて運営者が現地で撮影したものです。

つくば・小田 ― 平野のまんなかに残る国指定史跡

目次

小田城跡 ― 二十一万七千平方メートルの平城

朝、車を降りて最初に思ったのは「広い」でした。小田城跡は山城ではありません。平野のまんなかにある平城で、しかも建物は一つも残っていません。あるのは芝の張られた広大な平地と、掘り込まれた堀、そして盛り上げられた土塁だけです。

説明板に規模が書かれていました。史跡の範囲は南北五百五十メートル、東西四百五十メートル、面積で二十一万七千平方メートル。本丸跡だけでも東西約百三十五メートル、南北百四十五メートルあり、その周りを幅十メートルから三十メートルの堀で区切られた曲輪がいくつも取り囲んでいたといいます。つくば市はこの本丸跡とその周辺約四万平方メートルを「小田城跡歴史ひろば」として復元整備しました。

木橋を渡って本丸跡に立つと、ぐるりと土塁に囲まれているのが体で分かります。石垣の城を見慣れていると、土だけで築かれた城は最初あっけなく見えるのですが、堀の底に降りて土塁を見上げてみると印象が変わります。この高さを、鎧を着て、矢を射かけられながら登るのかと思うと、土の城には土の城の凄みがあります。

面白いのは、城跡のまんなかを自転車道が通り抜けていることです。かつての鉄道の跡を舗装した「りんりんロード」で、この日も何台かの自転車が土塁のわきを走っていきました。城跡が公園になり、廃線が自転車道になり、その二つが交差している。歴史の層が重なっているというより、平らに並んでいる感じがして、そこがこの場所の気楽さでもありました。

北畠親房が『神皇正統記』を書いた城

この城の来歴が、本丸跡の説明板に丁寧にまとめられていました。読みごたえがあったので、順に追います。

小田城跡は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、常陸国の南部に勢力を持った小田氏の居城跡です。初代は八田知家。藤原北家の流れをくむ宇都宮氏と同系の氏族で、源頼朝の信任が厚く、常陸守護職に任じられた人物でした。ところが鎌倉時代の後半には北条氏の進出によって所領を減らし、守護職も鎌倉時代の末には完全に失ってしまいます。

そして南北朝時代。七代の治久が、南朝方の重臣北畠親房をこの小田城に迎え、南朝方の関東での拠点として戦いました。板にはこう書かれています。親房が小田城で『神皇正統記』を執筆したことも著名です。

ここで足が止まりました。『神皇正統記』は、南朝の正統性を説いた、日本の歴史書のなかでも指折りに有名な一冊です。それが京都でも吉野でもなく、この関東の平野のまんなかで書かれた。しかも安全な場所ではありません。周りは敵だらけで、いつ落ちてもおかしくない城です。その状況で、筆を執って歴史を書いた人がいる。

説明板に載っていた航空写真を見て、もうひとつ気づきました。写真の奥に筑波山が写っているのです。小田城跡と筑波山が、一枚の画面に並んでいる。つまり親房がこの城にいたとき、顔を上げればいつでもあの山が見えていたはずです。これから登ろうとしている、まさにその山が。

その後の小田氏についても板は続きます。室町時代には、関東で最も格式の高い名家を指す「八屋形」の一つに数えられた。戦国時代の十四代政治も常陸南部で最大の勢力でした。しかし十六世紀の半ばには、相模の後北条氏、越後の上杉氏、常陸北部の佐竹氏に挟まれ、小田城は何度も戦いの舞台になります。そして十五代氏治が永禄十二年(一五六九)の手這坂の合戦に敗れて城を奪われ、以後は佐竹氏の城館となりました。関ヶ原の後、慶長七年(一六〇二)に佐竹氏が秋田へ移されたことで、この城は廃城になります。

四百年近く続いた家の城が、主の引っ越しとともに、そのまま野に還った。いま目の前にある芝生の広さは、その結果です。

筑波山 ― 挙兵の山、信仰の山

藤田小四郎の像 ― 天狗党は、この山から始まった

小田城跡から車で三十分ほど。筑波山神社の下まで来て駐車場を探していたとき、石垣を背にした銅像が目に入りました。近づいて台座を読んで、思わず声が出ました。藤田小四郎です。

水戸藩の学者・藤田東湖の四男。そして、天狗党の乱を起こした中心人物のひとりです。元治元年(一八六四)の春、尊王攘夷の実行を幕府に迫るため、彼はここ筑波山で挙兵しました。集まった同志はやがて千人を超え、水戸藩を二つに割る内乱となり、最後は雪の越前で降伏して、小四郎自身も処刑されます。二十三歳でした。

像は右腕を高く挙げ、まっすぐ上を見ています。この角度は、山を指しているようにも、その先の何かを指しているようにも見えました。なぜ筑波山だったのかと考えると、答えはたぶん単純で、この山が関東平野のどこからでも見えるからです。旗を揚げる場所として、これ以上目立つ山はありません。親房が見上げたその山に、五百年のちの若者が登って旗を立てた。同じ山です。

筑波山神社の石段から、歩き出す

筑波山神社の参道は、いきなり石段です。この山は山そのものが御神体で、男体山と女体山の二つの峰にそれぞれ神が祀られています。だから神社の参道を登っていくと、そのまま登山道になる。信仰と登山が地続きになっているのが、この山の一番の特徴だと思います。

社号標には「従二位子爵 小笠原長生 書」と刻まれていました。小笠原長生は海軍中将で、東郷平八郎の側近として知られた人です。横須賀の記念艦三笠を歩いたときにさんざん名前を見た時代の人物が、こんなところで出てくる。城めぐりを続けていると、こういう思わぬところで線がつながります。

石段を登りきって拝殿に参り、そこから御幸ヶ原コースへ入りました。時刻は正午前。ここからが本番です。

御幸ヶ原 ― 山頂には、届かなかった

正直に書きます。きつかったです。

筑波山は標高八百七十七メートル。数字だけ見れば大した山ではありません。ところがこの御幸ヶ原コースは、麓から一気に六百メートルほどを直登する道で、緩む区間がほとんどないのです。杉の根と岩がむき出しの段差を、ひたすら上へ上へ。梅雨どきの湿った空気で、汗が止まりません。三人とも口数が減り、やがて誰も喋らなくなりました。

登りきったのは午後一時半を回った頃。ケーブルカーの駅がある御幸ヶ原です。男体山と女体山のあいだの平らな場所で、売店が並び、ケーブルカーで上がってきた人たちが涼しい顔でソフトクリームを食べていました。こちらは全身汗だくです。

そして、ここで足が止まりました。

御幸ヶ原からは、男体山の山頂まで徒歩十五分、女体山の山頂まで二十分ほどです。あと少し。地図で見れば本当にあと少しなのですが、その「あと少し」を登る力が、三人とも残っていませんでした。結局われわれは、どちらの山頂にも立たないまま引き返しました。

ベンチに座って眼下を眺めていたら、雲が下にありました。関東平野の上に薄い雲の層がかかっていて、その切れ間から町と田んぼが見えている。晴天の大展望ではありませんが、これはこれで悪くない眺めでした。そのうち、その雲がこちらへ上がってきました。

雨です。降り出したら早い。滞在時間はずいぶん短くなり、われわれは下りをケーブルカーに頼りました。登りは意地で歩いたのに、下りは八分で麓です。文明の利器はありがたい。

降りてきて、あらためて随神門を見上げました。朝は素通りした門ですが、雨に濡れた木組みは色が濃くなって、そのぶん重たく立派に見えます。写真をよく見ると、白い筋が何本も斜めに走っているのが分かると思います。雨です。傘を差した参拝客が門の向こうを歩いていきました。

山麓 ― 湯と蕎麦

冷えた体に、山麓の湯

ここからが、この日いちばんありがたかった時間です。

汗をかいたあとに雨に打たれると、初夏でも体は芯から冷えます。三人とも無言で車に乗り込み、山麓の日帰り温泉へ向かいました。服を脱いで湯に入った瞬間の、あの声にならない声。誰かが「ああ」と言って、あとの二人も同じ音を出しました。

思ったのは、予定どおりにいかなかったから、この湯がこんなに効いているのだということです。もし晴天で、山頂まで気持ちよく登って、涼しい顔で降りてきていたら、温泉はただの温泉でした。山頂に届かず、雨に降られ、体を冷やして降りてきたからこそ、この湯が忘れられないものになった。旅というのは、うまくいかなかったところが後から効いてきます。

締めは蕎麦。湯から上がって、そのすぐ下にあった蕎麦屋へ入りました。古い民家をそのまま使ったような造りで、天井が高く、梁が黒く光っています。窓の外はまだ雨。湯上がりの体で、冷たい蕎麦をたぐりました。
常陸の国は蕎麦どころで、このあたりでは常陸秋そばが知られています。汗をかいて、湯に浸かって、蕎麦で締める。日帰りの一日の終わり方として、これ以上のものは思いつきません。店名は伏せますが、山を下りてすぐの場所にありました。
御城印と御朱印。この日は二つ、紙をいただきました。ひとつは小田城の御城印。城跡の案内所で頒布されています。もうひとつは筑波山神社の御朱印です。
建物が何ひとつ残っていない城跡で、持ち帰れるものが一枚あるというのは、思っている以上に大きいことです。芝生と土塁しかない場所を歩いて、写真を撮って、それで終わりになりがちなところに、紙が一枚残る。あとで見返したときに「ああ、あの広い草っ原に行ったのだ」と体の記憶が戻ってきます。

実際に歩いて感じたこと

帰りの車で、この日のことを考えていました。

この日に会ったのは、時代のまるで違う人たちです。南北朝の北畠親房は、敵に囲まれた小田城に籠って歴史書を書きました。幕末の藤田小四郎は、二十代の若さで筑波山に登り、旗を揚げて、越前で死にました。二人のあいだには五百年の開きがあります。

それでも、二人が見ていたものは同じでした。あの山です。関東平野には高い山がありません。だからこの山は、どこからでも見える。小田城の土塁の上からも見えるし、平野のどの村からも見える。見えるからこそ、人はこの山に何かを託してきたのだと思います。歌に詠み、神を祀り、そして旗を立てた。

ではわれわれは何をしたかというと、登って、山頂の手前で力尽きて、雨に降られて、湯に浸かって、蕎麦を食べて帰りました。それだけです。何も託していませんし、何も残しません。

ただ、自分の足で六百メートルを登ってみて、ひとつだけ実感したことがあります。この山は、見上げるぶんには優しい顔をしているのに、登ると容赦がない。麓から眺めていた低くなだらかな山影と、実際に足で味わった斜面は、まるで別ものでした。旗を揚げるために本当にこの山を登った人たちがいるのだと、その一点だけは、体で分かった気がします。山頂に届かなかったからこそ、なおさらです。

同じルートを走る方へ、二つだけ。ひとつは時間配分で、小田城跡はゆっくり歩くと一時間はかかります。登山を組み合わせるなら、朝はもっと早く出たほうが余裕が生まれます。もうひとつは下りの乗り物を最初から予定に入れておくことです。往復とも歩くつもりでいると、雨や疲れで計画が崩れます。ケーブルカーで降りると決めておけば、登りに全力を出せます。われわれは結果的にそうなりましたが、最初からそう決めておけばよかった、というのが正直なところです。

この日の道のり

  1. 10:54小田城跡(小田城跡歴史ひろば)堀と土塁、木橋、本丸跡。北畠親房が『神皇正統記』を書いた城。御城印あり車で約40分
  2. 11:41藤田小四郎像筑波山神社のふもと。天狗党が挙兵した山の入口に立つ徒歩すぐ
  3. 11:48筑波山神社参道の石段から御幸ヶ原コースへ。御朱印あり徒歩 約2時間(標高差およそ600m)
  4. 13:43御幸ヶ原(ケーブルカー山頂駅)男体山・女体山の山頂へは登らず、ここで折り返し。まもなく雨ケーブルカーで約8分
  5. 14:36筑波山神社・随神門下山。すでに本降り車ですぐ
  6. 山麓の日帰り温泉冷えた体を温める徒歩すぐ
  7. 古民家造りの蕎麦屋湯上がりに常陸の蕎麦で締めて帰路へ

※時刻は当日撮影した写真の記録によるものです。所要時間は目安で、季節や混み具合で変わります。

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