【実録】会津と南東北 戊辰のドライブ ― 棚倉・白河から鶴ヶ城・飯盛山、米沢・二本松・三春へ 1泊2日

幕末の戊辰戦争で、もっとも激しく、もっとも哀しい戦いの舞台となったのが、会津を中心とする南東北でした。今回は運営者(佐藤秀信)が妻とともに、その城と史跡を車でめぐった1泊2日の記録です。棚倉・白河という奥州の玄関口から、鶴ヶ城・飯盛山の会津へ。そして二日目は、名君と義の里・米沢(山形県)を訪ね、二本松・三春へ。白虎隊と二本松少年隊、二つの少年の悲劇、そして三春の苦渋の選択まで——勝者の歴史からは見えない“敗者側”の重みが、歩くほどに立ち上がってくる旅になりました。

目次

この旅の行程

※この時刻は標準的な滞在時間から組んだモデル的な目安で、当日の実際の記録ではありません。移動時間も一般的な所要時間です。
時刻 スポット・行程 見どころ・メモ
09:30 棚倉城(亀ヶ城)(1日目 ― 奥州の玄関口から会津へ)棚倉城 半日で落ちた、戊辰の入口
移動:車で約40分  
11:10 白河小峰城白河小峰城 戊辰最大級の激戦地「白河口の戦い」
移動:車で約1時間20分  
12:30 鶴ヶ城(会津若松城)鶴ヶ城(会津若松城) 一ヶ月の籠城に耐えた会津の要
天守閣:大人410円・小中学生150円。茶室麟閣との共通券は大人520円・小人150円
開館 8:30〜17:00(最終入場16:30)/無休
駐車場:西出丸200台・東口129台・南口35台。最初の1時間200円、以降1時間ごとに100円
駐車場もトイレもあります。
移動:車で約10分  
13:40 飯盛山飯盛山 白虎隊、十九士の墓
白虎隊十九士の墓と飯盛山の登り口は無料です
さざえ堂(国指定重要文化財):大人400円・高校生300円・小中学生200円。8:15〜日没(4月〜11月)/9:00〜16:00(12月〜3月)・無休
スロープコンベア(動く坂道):大人250円・小人150円。8:00〜17:00(3/21〜11/20)/9:00〜16:00(11/21〜3/20)。階段を登るのがつらい方はこちらを
駐車場もトイレもあります。
移動:車で約20分  
14:40 会津藩校 日新館会津藩校日新館 「ならぬことはならぬものです」
会津若松市河東町南高野字高塚山10
入館料:大人1,800円・中高生900円・小学生800円。この旅でいちばん高い施設です
9:00〜17:00(最終入場16:00)/無休/駐車場 普通車200台
宿泊:一泊  
09:00 土津神社(2日目 ― 名君と義の里、そして少年たちの城へ)土津神社 会津の礎、保科正之をまつる
移動:車で約1時間半  
10:40 米沢(山形県)米沢 上杉の義と、鷹山の改革
移動:車で約1時間半  
12:20 二本松城(霞ヶ城)二本松城 もう一つの少年隊の悲劇
移動:車で約40分  
14:00 三春城(舞鶴城)三春城 めご姫の里、そして苦渋の選択
これから行かれる方へ ― 入場料のこと。
この行程で有料なのは、鶴ヶ城・飯盛山のさざえ堂・日新館の三つです。棚倉城、白河小峰城、土津神社、二本松城、三春城は、いずれも城跡や境内を歩くだけなら費用はかかりません(施設に入る場合は各公式サイトでご確認ください)。
鶴ヶ城 天守閣 ― 大人410円・小中学生150円。茶室麟閣との共通券は520円。8:30〜17:00(最終入場16:30)、無休。駐車場は最初の1時間200円、以降1時間ごとに100円
飯盛山 ― 白虎隊十九士の墓までは無料。さざえ堂は大人400円・高校生300円・小中学生200円。階段がきつい方はスロープコンベア(大人250円・小人150円)があります
會津藩校 日新館 ― 大人1,800円・中高生900円・小学生800円。この旅でいちばん高い施設です。9:00〜17:00(最終入場16:00)、無休、駐車場200台
大人1名で回ると、鶴ヶ城410円+さざえ堂400円+日新館1,800円=2,610円。日新館の1,800円をどう見るかで、この旅の予算はだいぶ変わります。
※料金・時間は2026年8月時点で公式サイトを確認して記載しています。変わることがありますので、お出かけ前に必ず公式の情報でご確認ください。
鶴ヶ城のご案内(会津若松観光ビューロー)さざえ堂飯盛山スロープコンベア會津藩校 日新館

1日目 ― 奥州の玄関口から会津へ

棚倉城(亀ヶ城)― 半日で落ちた、戊辰の入口

まずは福島県南部の棚倉城から。江戸時代のはじめに丹羽長重が幕命で築いた城で、水堀と土塁に囲まれた姿から「亀ヶ城」とも呼ばれます。三の丸には、樹齢を重ねた見事な大ケヤキがそびえていました。幕末の藩主は阿部正静(あべ まさきよ)でした。じつは阿部家はもともと白河藩主で、当主の阿部正外が老中として兵庫開港問題の責めを負い、慶応2年(1866)に白河から棚倉へ移されたばかりでした。戊辰戦争で棚倉藩は奥羽越列藩同盟に加わり、藩兵の主力を白河口の戦いへと送り出します。その手薄をつくように、慶応4年(1868)6月、板垣退助率いる新政府軍が南から棚倉城に迫り、わずか半日ほどで落城。城主・正静は会津へと退きました。東北の戦いの、いわば最初の一撃を受けた城でした。

白河小峰城 ― 戊辰最大級の激戦地「白河口の戦い」

続いて白河小峰城へ。奥州の関門「白河の関」で知られるこの地の城で、江戸初期に丹羽長重が総石垣の近世城郭へと大改修しました。幕末には、ここをめぐって奥羽越列藩同盟軍と新政府軍が百日以上も攻防を繰り広げた「白河口の戦い」の舞台となります。東北戦争でも屈指の激戦地でした。同盟軍側でこの白河口を指揮したのは、会津藩の家老西郷頼母でした。しかし旧来の武士であった頼母は近代戦の指揮に不慣れで、慶応4年(1868)5月1日、伊地知正治率いる新政府軍のわずかな兵に総攻撃をかけられて同盟軍は大敗し、白河城を奪われてしまいます。以後、同盟軍は白河の奪回をめざしてたびたび総攻撃を繰り返しましたが、ついに取り返すことはできませんでした。木造で美しく復元された三重櫓前御門、そして石垣を歩くと、この静かな城が幕末に流血の要衝であったことが信じられないほどでした。三重櫓の中は総木造で、急な階段を上ると往時の櫓の造りがそのまま体感できます。

鶴ヶ城(会津若松城)― 一ヶ月の籠城に耐えた会津の要

会津若松に入り、いよいよ鶴ヶ城へ。蒲生氏郷が近世城郭として整え、のちに二代将軍秀忠の子・保科正之が藩祖となって以降、会津松平家の居城となりました。幕末の藩主松平容保は京都守護職として幕府を支え、戊辰戦争では新政府軍の総攻撃を受けながら約一ヶ月の籠城戦に耐え抜きます。天守は幕末の姿をしのぶ赤瓦で復元され、最上階からは会津盆地と周囲の山々が一望できました。この城を囲んで、あの激しい戦いがあったのかと思うと、眺めの美しさがかえって胸に迫ります。

飯盛山 ― 白虎隊、十九士の墓

鶴ヶ城を望む飯盛山は、会津戦争の悲劇を象徴する場所です。戦いのさなか、この山まで退いた少年たちの部隊白虎隊(士中二番隊)は、城下が炎に包まれるのを見て落城と思い込み、次々と自刃しました。かろうじて一人が蘇生したほかは、十代の若者たちが命を絶ったのです。白虎隊十九士の墓には今も線香の煙が絶えず、鶴ヶ城の方角を見つめる白虎隊士の像が立っていました。手を合わせると、言葉になりませんでした。

歩いてみて:墓前には全国から手向けられた花と線香が絶えず、静かに参る人が続いていました。城の方角をじっと見つめる少年の像の前に立つと、勝ち負けを超えて、ただ胸が締めつけられます。

会津藩校 日新館 ― 「ならぬことはならぬものです」

白虎隊の少年たちが学んだのが、会津藩校日新館です。江戸後期、家老・田中玄宰の藩政改革によって創設された、当時屈指の藩校でした。会津の子どもたちは、年少のころから「什の掟」の最後の一句「ならぬことはならぬものです」を胸に育ちます。現在は郊外に壮麗な姿で復元され、白い塀と大きな門が、会津が“教育の藩”であったことを伝えていました。

泊まった宿:この日は会津の奥座敷・東山温泉に一泊。渓流沿いの湯にゆっくり浸かり、夕食では川魚の塩焼きなど会津の山の幸を味わって、一日の重い余韻をしずかにほどきました。

2日目 ― 名君と義の里、そして少年たちの城へ

土津神社 ― 会津の礎、保科正之をまつる

二日目は、猪苗代の土津(はにつ)神社から。祭神は、会津松平家の藩祖保科正之。二代将軍徳川秀忠の子で、三代家光を陰から支え、幕政にも深く関わった名君です。会津藩の“義”の精神は、この人に始まるといってよいでしょう。境内には国史跡の会津藩主松平家墓所があります。あいにくの雨でしたが、しっとりと濡れた白い鳥居と参道の幟が、かえって神域の静けさを深めていました。

米沢(山形県)― 上杉の義と、鷹山の改革

会津から山を越えて、山形県の米沢へ。米沢城の本丸跡にあたる松岬公園には、上杉神社が鎮座し、軍神上杉謙信をまつっています。関ヶ原ののち、会津120万石から米沢30万石へと大減封されながらも家臣を一人も減らさなかった上杉家と、その家宰直江兼続——「天地人」で知られる景勝と兼続の主従像が、義を貫いた米沢の心を今に伝えます。そして江戸中期、破綻寸前の藩財政を「なせば成る」の精神で立て直した名君上杉鷹山。境内にはその座像もありました。さらにこの米沢城は、伊達政宗が生まれた地でもあります。直江兼続、上杉鷹山、そして政宗——一つの城に幾重もの物語が重なり、うーんと唸るほど感慨深い場所でした。

二本松城(霞ヶ城)― もう一つの少年隊の悲劇

福島へ戻り、二本松城へ。丹羽氏10万石の居城で、その優美な姿から「霞ヶ城」とも呼ばれます。戊辰戦争では、二本松藩もまた新政府軍の攻撃を受けて落城しました。このとき、本来なら出陣年齢に満たない12歳から17歳の少年たちが「二本松少年隊」として戦い、多くが命を落とします。白虎隊とならぶ、東北のもう一つの少年隊の悲劇です。復元された箕輪門の前には少年隊の像が立ち、折しも季節の菊花が彩りを添えていました。堂々たる石垣も見応えがあります。

三春城(舞鶴城)― めご姫の里、そして苦渋の選択

旅の締めくくりは、田村地方の三春城。中世に戦国大名田村氏が拠った山城で、その美しさから「舞鶴城」とも呼ばれました。田村清顕の娘愛姫(めごひめ)は、のちに伊達政宗の正室となった人で、ここ三春の生まれです。近世には秋田氏の居城となりました。そして幕末——三春藩は当初こそ奥羽越列藩同盟に加わりましたが、いち早く新政府軍に恭順し、無血開城を選びます。隣藩からは「裏切り」とも詰られた道でしたが、城下と領民を戦火から守るための、現実的で苦渋の決断でもありました。白虎隊や二本松少年隊の悲劇のあとにこの選択を思うと、戊辰の東北の複雑さが、いっそう深く胸に残ります。夕暮れの本丸跡に立つ石標と、しっとりした石垣が印象的でした。

実際に歩いて感じたこと

会津を軸に南東北を二日かけてめぐると、戊辰戦争という出来事の重さが、まるで違って見えてきました。棚倉・白河で戦いの火蓋が切られ、会津では一ヶ月の籠城のすえに城が開かれ、飯盛山の白虎隊と二本松少年隊という二つの少年の悲劇が生まれ、そして三春は領民を守るために“裏切り”とまで言われる開城を選ぶ——勝者の側からは見えない、敗れた者たちのそれぞれの選択と犠牲が、城跡と碑を歩くほどに立ち上がってきます。一方で米沢では、義を貫いた上杉家と直江兼続、そして上杉鷹山の改革に触れ、東北の底知れぬ底力も感じました。保科正之に始まり松平容保へと受け継がれた会津の「義」。派手な観光名所というより、土地の記憶を静かに受け取る——そんな、忘れがたい1泊2日のドライブでした。

この旅の道のり

  1. 1日目 ― 奥州の玄関口から会津へ
  2. 09:30棚倉城(亀ヶ城)半日で落ちた、戊辰の入口車で約40分
  3. 11:10白河小峰城戊辰最大級の激戦地「白河口の戦い」車で約1時間20分
  4. 12:30鶴ヶ城(会津若松城)一ヶ月の籠城に耐えた会津の要車で約10分
  5. 13:40飯盛山白虎隊、十九士の墓車で約20分
  6. 14:40会津藩校 日新館「ならぬことはならぬものです」一泊
  7. 2日目 ― 名君と義の里、そして少年たちの城へ
  8. 09:00土津神社会津の礎、保科正之をまつる車で約1時間半
  9. 10:40米沢(山形県)上杉の義と、鷹山の改革車で約1時間半
  10. 12:20二本松城(霞ヶ城)もう一つの少年隊の悲劇車で約40分
  11. 14:00三春城(舞鶴城)めご姫の里、そして苦渋の選択

※この時刻は標準的な滞在時間から組んだモデル的な目安で、当日の実際の記録ではありません。移動時間も一般的な所要時間です。

このコースの城の御城印について

このコースに登場する鶴ヶ城(会津若松城)は、御城印の頒布情報を自治体や施設の公式サイトで確認できました。

頒布場所と料金は御城印はどこで買える? 公式で確認できた頒布情報まとめに一覧でまとめています。頒布場所や料金は変わることがあるので、お出かけ前に公式サイトでご確認ください。

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