【現地レポート】山内一豊誕生地・神明生田神社(岩倉市)|大正の棟札と一豊の生涯、無人の御朱印・御城印

【現地レポート】山内一豊誕生地・神明生田神社(岩倉市)|大正の棟札と一豊の生涯、無人の御朱印・御城印

愛知県岩倉市の神明生田神社(しんめいいくたじんじゃ)は、のちに土佐20万石の大名となる山内一豊(やまうち かずとよ)の誕生地とされる場所です。一豊は岩倉城の家老の家に生まれましたが、15歳のとき岩倉城が織田信長に落とされ、父を失います。そこから浪人として各地を渡り歩き、信長・秀吉・家康に仕えて、ついに一国の主となりました。境内には誕生地の碑と、NHK大河ドラマ「功名が辻」の放映記念碑が立っています。

この記事では、ここが誕生地とされた理由と一豊の生涯、現在の神社のようすを、現地の説明板と資料をもとにまとめます。

神明生田神社
神明生田神社
目次

基本情報

所在地 愛知県岩倉市(神明生田神社の境内)
指定 岩倉市指定史跡「山内一豊誕生地」(昭和49年11月15日)
見られるもの 「山内一豊公誕生地」の碑、説明板、「功名が辻」放映記念碑、五条川沿いの銘板
駐車場 ありませんでした
トイレ ありませんでした
御朱印・御城印 本殿に置いてあり無人。お金を自分で入れる。神社の御朱印・岩倉城の御城印とも300円

なぜここが誕生地とされたのか ― 大正の棟札

説明板によると、一豊が岩倉で生まれたことを示す手がかりになったのは、大正8年(1919)2月の神明生田神社の遷座式で見つかった一枚の棟札でした。これが一豊のこの地での誕生の有力な資料となり、山内家は史家の沼田頼輔文学博士に調査を依頼しました。その結果、岩倉のこの地を一豊の誕生地と認め、「贈従三位山内一豊公誕生地」の碑を建てたといいます。

一豊の生まれと、岩倉城の落城

山内一豊は天文14年(1545)、岩倉城の家老・山内但馬守盛豊の二男(五条川沿いの銘板では第二子)として生まれました。岩倉城は尾張の上四郡を治めた織田伊勢守家の城です。

しかし永禄2年(1559)3月、岩倉城は織田信長に攻め落とされ、父の盛豊はこのとき戦死しました。一豊は15歳でした(岩倉城跡の現地レポート)。

浪人から大名へ ― 一豊の生涯

説明板によると、父を失った一豊は、家臣の五藤浄基をともに、母や弟妹と岩倉を離れ、刈安賀の城主・浅井新八郎政高のもとに身を寄せました。その後、牧村政倫のもとに寄寓し、ついで山岡景隆に仕えて、永禄10年(1567)から元亀元年(1570)ごろ、父を討った織田信長に仕えるようになります。

信長のもとでは、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の配下として働き、天正12年(1584)には近江長浜で5000石の領主になりました。この年は小牧・長久手の戦いの年で、秀吉は羽黒の城跡を砦に改修して一豊らに守らせています(羽黒城址の説明板による)。

天正18年(1590)には遠江の掛川に移って6万石の城主となり、秀吉の死後は徳川家康の側につきました。関ヶ原の戦いのあと、慶長5年(1600)に土佐20万2600石の領主となり、高知城を築いています。慶長10年(1605)9月21日、61歳で亡くなりました。

妻・千代と「功名が辻」

一豊の妻・千代(のちの見性院)には、夫のために嫁入りのときに持ってきたお金で名馬を買い、一豊が信長の目にとまった、という有名な話が伝わっています。この「内助の功」の話は、司馬遼太郎の小説『功名が辻』の題材にもなり、平成18年(2006)にNHK大河ドラマとして放映されました。境内の記念碑は、その放映を記念して建てられたものです。

記念碑に刻まれていること
NHK大河ドラマ「功名が辻」放映記念碑 放映日 平成18年1月8日〜平成18年12月10日 主演 上川隆也(一豊) 仲間由紀恵(千代) 山内一豊公出生のまち いわくら

現代の神明生田神社

神明生田神社は住宅地の中の神社で、参道の入口には「山内一豊公生誕記念碑 神社境内にあります」の案内が立っています。境内に誕生地の碑と説明板、大河ドラマの記念碑があり、近くの五条川沿いには一豊の生涯を短く紹介する銘板もあります。

説明板に書かれていること(山内一豊誕生地・昭和四十九年十一月十五日市指定・岩倉市教育委員会)
山内一豊は天文十四(一五四五)年、岩倉城の家老山内但馬守盛豊の二男として、この地に誕生した。
大正八(一九一九)年二月神明生田神社の遷座式に一枚の棟札が発見され、これが一豊のこの地での誕生の有力な資料となり、山内家では史家沼田頼輔文学博士に調査を行なわせ、岩倉のこの地を一豊誕生の地と認め、ここに贈従三位山内一豊公誕生地の碑を建てた。
父・盛豊は岩倉城落城(永禄二年三月)のとき戦死。一豊十五歳の時であった。その後、一豊は家臣の五藤浄基が供で母や弟妹と共に刈安賀の城主浅井新八郎政高の許に身を寄せ、しばらくして牧村政倫のもとに寄寓。ついで山岡景隆に仕え、永禄十(一五六七)年〜元亀元(一五七〇)年頃織田信長に仕える。天正十二(一五八四)年には近江長浜で五千石の領主となり、同十八(一五九〇)年、遠州掛川に移封六万石の領主となった。秀吉の死後、徳川家康に味方し、慶長五(一六〇〇)年、四国土佐で二十万二千六百石の領主となり、高知城を築城。そして五年後の慶長十(一六〇五)年九月二十一日、一豊没す。享年六十一歳。
説明板に書かれていること(五条川沿いの銘板「山内一豊」・岩倉市)
天文14年(1545)岩倉城主織田伊勢守の家老山内盛豊の第二子として誕生。盛豊死後、15歳で美濃を浪々し、後、豊臣秀吉に従い天正18年(1590)に掛川6万石の城主となった。秀吉の死後は徳川家康に味方し、慶長5年(1600)土佐20万石の領主となって高知城を築城した。慶長10年(1605)没。61歳。

御朱印・御城印

本殿に置いてあり、無人で、お金を自分で入れる方式でした。神明生田神社の御朱印も、岩倉城の御城印も300円です。

よくある質問

Q.山内一豊の誕生地はどこですか?
A.岩倉市の神明生田神社の境内が誕生地とされています。大正8年に見つかった棟札が手がかりになりました(説明板による)。

Q.駐車場はありますか?
A.ありませんでした。トイレもありません。

Q.御朱印はどこでもらえますか?
A.本殿に置いてあり、無人でお金を自分で入れます。御朱印・岩倉城の御城印とも300円です。

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参考:現地の説明板(岩倉市教育委員会)・五条川沿いの銘板(岩倉市)・「功名が辻」放映記念碑/国土交通省 観光庁 多言語解説文データベース(山内一豊と千代)/羽黒城址の説明板(犬山市)

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