【現地レポート】小栗又一の墓(高崎市下斎田町・阿弥陀堂)|小栗上野介(忠順)の養子が眠るお堂、行き方・駐車場・御朱印

群馬県高崎市下斎田町(しもさいだまち)の阿弥陀堂には、小栗又一忠道(おぐり またいち ただみち)の墓があります。又一は、2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公・小栗上野介忠順の養子です。父が水沼河原で斬られた翌日、父のために申し開きに向かった先で、21歳で斬られました。その亡骸を引き取って葬ったのが、小栗家の知行地だった下斎田の村人たちです。

この記事は、これから又一の墓を訪ねる方のための現地ガイドです。静かな住宅街の中にある小さなお堂で、迷うことはありません。説明板と石碑の内容、現地のようすをまとめました。

又一の墓所
又一の墓所
目次

小栗又一の墓(下斎田・阿弥陀堂)の基本情報

所在地 群馬県高崎市下斎田町335(阿弥陀堂)
見学 自由
まわり 静かな住宅街の中にある小さなお堂。「逆賊の幕臣」ゆかりの地の幟が立っている
駐車場 3台くらい
トイレ なし
高速道路 関越道がすぐそばを通っていて、インターチェンジまで車で2分くらい
墓の見つけ方 境内は狭く、入ればすぐ。説明板があり、石碑がひときわ目立つ
御朱印 なし(常駐の人はおらず、書き置きも置かれていなかった)

行く前に知っておきたいこと

住宅街の中に、ひっそりとあるお堂

又一の墓がある阿弥陀堂は、本当に閑静な住宅街の中に、ひっそりとあります。人はほとんどおらず、ときどき近所の方が通りかかるくらいでした。境内は狭く、入ればすぐに又一の墓が見つかります。説明板もあり、墓所に建つ石碑がひときわ目立つので、迷うことはありません。広すぎて迷子になった雑司ヶ谷霊園とは正反対です。

御朱印はない

私たちは御朱印を楽しみにしていたのですが、お堂に常駐している人はおらず、お金を置いて持ち帰るような書き置きもありませんでした。御朱印はいただけないものと思って訪ねてください。

トイレはない。駐車は3台くらい

トイレはありません。車は3台くらい停められます。住宅街の中なので、近所の方の迷惑にならないよう気をつけたいところです。

又一の墓を見る

墓所は石の柵で囲まれ、正面に又一の墓石、その横に説明板が立っています。私たちが訪ねたときは、墓前に花が供えられていました。

小栗又一源忠道の墓の説明板
小栗又一源忠道の墓の説明板
説明板に書かれていること(小栗又一源忠道の墓)
小栗又一源忠道は、勘定奉行など幕府の要職を務めた小栗上野介忠順の養嗣子です。鳥羽伏見の敗戦後、江戸城内の評定で主戦論を主張した上野介は、将軍慶喜に罷免され、慶応4年(1868年)3月、知行地の一つ権田(今の倉渕町権田)に隠棲しました。しかし間もなく新政府から謀反の疑いをかけられ、4月6日、水沼川原で斬首されました。
又一は、父の命で申し開きをするために官軍へ出向きましたが、翌7日、主従4人とともに高崎城下で斬首されました。下斎田は、安永9年(1780年)から幕末まで88年間、小栗家の知行地でした。善政を施したことから領民たちに慕われており、村人たちは殿様の非業の死を悲しみ、その遺骸をもらい受けて阿弥陀堂の地に埋葬し、墓を建立して「小栗様」として供養してきました。
戒名 尚栖院殿及懿尽義居士 二十一歳
石灯籠の奥に又一の墓
石灯籠の奥に又一の墓

墓所に建つ「寄進芳名碑」

墓所に建つ石碑
墓所に建つ石碑
碑に刻まれていること(寄進芳名碑)
又一の墓所に立つ石碑は、上部に「寄進芳名碑」と大きく刻まれ、その下に寄付をした人たちの名前がびっしりと並んでいます。右端には「小栗殿」に続いて年忌(法要)を記したらしい文字があり、又一の法要にあわせて村人たちが寄進をした記念碑のようです。名前の多くは風化していて一人ひとりは読み取れませんでしたが、又一を葬った村人たちが、その後も供養を続けてきたことがわかる碑です。

阿弥陀堂の脇の石柱

阿弥陀堂の脇には、古い石柱が立っています。上の部分はすり減っていますが、「(小栗)上野(介)殿父子之墓所」と刻まれているように読めます。上野介と又一、父子の墓所であることを示す標のようです。

阿弥陀堂の脇の石柱
阿弥陀堂の脇の石柱
運営者のひとこと
父のために申し開きに向かった21歳の若者が、取り調べもされずに斬られた。その亡骸を、村の人たちが引き取って弔い続けてきた。説明板を読んで、胸が熱くなりました。東善寺の家臣の墓で名前を見た塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助の3人も、ここ下斎田に葬られています。

まわりに並ぶ「田口家」の墓と、立派な門

又一の墓のまわりは、田口、田口、田口と、田口家のお墓ばかりです。すぐ近くには立派な屋敷の門があり、「なんだろう」と思って見に行ってしまいました。その門にも「田口」の表札がかかっていました。

帰ってから調べると、このあたりには中世に田口氏という豪族がいて、館あるいは城のようなもの(下斎田城)があったようです。田口家は江戸時代には名主などを務め、このあたりを管理していたとのことです。お墓に田口家が多いのも、そのためなのだと思います。

小栗家の知行地を名主として管理していた家と、又一の亡骸を引き取って葬った村人たち。直接の関係を示す資料は見つけられませんでしたが、思わずつなげて考えたくなる風景でした。

よくある質問

Q.又一の墓はすぐ見つかりますか?
A.はい。境内は狭く、入ればすぐです。説明板があり、石碑も目立ちます。

Q.御朱印はありますか?
A.ありません。常駐の人はおらず、書き置きも置かれていませんでした。

Q.駐車場とトイレは?
A.車は3台くらい停められます。トイレはありません。

Q.又一は誰に、なぜ斬られたのですか?
A.説明板によると、父・上野介の命で申し開きのために官軍へ出向きましたが、上野介が斬られた翌日(閏4月7日)、主従4人とともに高崎城下で斬首されました。くわしい背景は、下の幕末歴史ガイドの記事で解説しています。

あわせて回るなら

下斎田は高崎市の市街地の南西にあります。倉渕の小栗ゆかりの地と、高崎城をあわせて回ると、父子の最期をたどる旅になります。関越道がすぐそばを通っているので、旅の最後に寄るのにも便利です。私たちもここを最後に、2分ほどでインターチェンジから関越道に乗って帰りました。

水沼河原(終焉の地) 高崎市倉渕町水沼。父・上野介が斬られた場所。水沼河原の現地レポート
東善寺 高崎市倉渕町権田。上野介の本墓と、家臣の墓。東善寺の現地レポート
高崎城 高崎市高松町。又一が斬られた高崎の城。高崎城の現地レポート
小栗又一のことをもっとくわしく
この記事は、これから訪ねる人のための案内です。又一の生涯や、斬られるまでの経緯については、姉妹サイト「幕末歴史ガイド」の小栗又一の墓はどこ? 高崎市下斎田の阿弥陀堂でくわしく解説しています。
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