妻と二人で、常陸から陸奥へ北上して帰ってくる一泊二日を走ってきました。水戸から常陸太田、そのまま浜通りを北へ上がって相馬に泊まり、翌日は白石まで足を延ばして、帰りに土浦へ寄る。城跡が六か所です。
この旅には、走り出すまで気づいていなかった筋がありました。水戸で藩が真っ二つに割れ、その火種が北へ上っていって、白石で三十一藩の同盟になる。われわれは知らないうちに、その道筋をそのままの順番でなぞっていました。
そしてもうひとつ。母方の先祖の墓がある寺に、教科書に出てくる人たちが並んで眠っていました。写真はすべて運営者が現地で撮影したものです。
1日目|水戸 ― 割れた藩
弘道館 ― 斉昭がつくった、日本最大の藩校
朝いちばんに立ったのが弘道館でした。水戸藩九代藩主・徳川斉昭がつくった藩校で、当時の日本では最大級の規模を誇りました。
面白いのは、ここが単なる学問所ではなかったことです。武芸も、医学も、天文も、音楽も教えた。藩士は生涯ここで学び続けるという思想で運営されていて、卒業という概念がなかったといいます。斉昭という人の、良くも悪くも徹底したところが出ています。
そしてこの学校が、幕末の水戸を決定づけました。ここで教えられた尊王攘夷の思想が、やがて桜田門外の変を生み、天狗党を生み、そして水戸藩そのものを二つに割る内乱を生むことになります。
敷地の一角に「徳川慶喜向学の地」と刻まれた石柱が立っていました。最後の将軍は、ここで少年時代を過ごしています。
慶喜が謹慎した座敷と、残された厠
建物のなかを進んでいくと、慶喜が謹慎したという座敷がありました。大政奉還のあと、鳥羽伏見で敗れた慶喜は、江戸を出て水戸へ下り、この弘道館にこもります。
そして、もう一か所。思わぬものがそのまま保存されていました。慶喜が使ったと伝わる厠です。
畳を敷いた小さな一間に、漆塗りの箱がひとつ据えられ、脇に行灯が灯っている。写真だけ見ると文机のようにも見える、驚くほど静かな設えでした。将軍だった人が用を足した場所が、そのまま残されている。歴史を保存するというのは、時にこういう生々しいところにまで及ぶのだと知りました。
正直に書きます。この一角に立ったとき、あまり気持ちのいい感情は湧きませんでした。
鳥羽伏見で慶喜は、大坂城から兵を置いて江戸へ帰りました。あとに残されたのは会津と桑名です。会津は籠城の末に城を穴だらけにされ、少年たちまで死にました。桑名は城を明け渡し、そのしるしに櫓を焼かれました。どちらも、慶喜のために戦った側です。
その両方の跡地を、われわれはこれまでの旅で歩いてきました。だからこの部屋を見て、真っ先に思ったのは「あの人たちを置いて、自分だけここに座っていたのか」ということでした。
——もっとも、これは筆者の感じ方にすぎません。慶喜については、内乱を長引かせず日本を分裂から救った現実的な判断だった、という見方も根強くあります。実際、彼が徹底抗戦していれば戊辰戦争はもっと長く、もっと多くの人が死んだかもしれない。歴史の評価は分かれています。ただ、会津と桑名を先に歩いてしまった人間としては、この簡素な座敷を素直に見ることはできませんでした。
水戸城 ― 石垣のない、土と切通しの城
弘道館のすぐ隣が水戸城跡です。徳川御三家のひとつ、水戸徳川家の城でした。
ところが歩いてみると、石垣がありません。御三家の城なのに、土塁と空堀でできた城なのです。これは水戸城が中世からの城を引き継いだ平山城で、しかも那珂川と千波湖に挟まれた台地の上にあり、地形そのものが防御になっていたからだといわれます。
いちばん驚いたのが、空堀の跡がそのまま道路になっている場所でした。両側が高い土の壁で、その底を車が走っている。堀の深さが体で分かります。ここに橋が架かり、その上を渡って本丸へ入っていたわけです。
大手門は近年復元されたもので、白壁が新しく、見上げるとかなりの迫力があります。二の丸角櫓も同じく復元されました。建物は新しいのに、地形は四百年前のまま。このちぐはぐさが、かえって城の骨格を分かりやすくしていました。
城跡の一角には、水戸藩がつくった十八封度カノン砲と、安神車という妙なものが並んでいました。
安神車は、鉄板で箱を覆って車輪をつけた、いわば幕末の装甲車です。中に一人入って、銃眼から鉄砲を撃つ。斉昭が考案させたと伝わります。実戦で使われた記録はほとんどないそうですが、この藩が本気で戦争の準備をしていたことの証拠として、これ以上わかりやすいものはありません。
藤田東湖 ―「東湖先生」と呼ばれた人
ここで、この記事を書くきっかけになった話をさせてください。
筆者の祖母は、この人のことを「東湖先生」と呼んでいました。
子どものころ、祖母の口から何度も聞いた名前です。歴史上の人物としてではなく、近所の学校の先生のような口ぶりでした。今回この町を歩いて、ようやくその意味が分かりました。水戸において藤田東湖は、いまも「先生」なのです。
藤田東湖は文化三年(一八〇六)、藤田幽谷の二男として水戸城下の梅香に生まれました。名を彪(たけき)といいます。徳川斉昭の腹心として弘道館の建学をはじめ藩政改革に取り組み、幕政にも関わりました。著作の『弘道館記述義』『回天詩史』や、詩「正気歌」は、尊王攘夷思想に決定的な影響を与えています。
そして最期が、あまりにあっけない。安政二年(一八五五)の安政大地震に遭い、江戸で圧死しました。享年五十。母を助けようとして落ちてきた梁の下敷きになった、と伝えられています。
生誕の地の石碑と説明板があり、そのすぐ近くに父・藤田幽谷の生誕地の石柱も立っていました。父も、子も、この狭い一角から出ている。そしてこの家は、もう一人を世に送り出します。東湖の四男、筑波山で天狗党を挙兵した藤田小四郎です。
祖父・父・子の三代が、水戸の同じ町内から出て、幕末を動かした。そして三代目は、筑波山で兵を挙げて、敦賀で斬られました。
もうひとつ、思わぬ石碑を見つけました。「吉田松陰水戸留学の地」です。
長州の松陰が、東北へ旅する途中に水戸に立ち寄り、ひと月ほど滞在して水戸学に触れています。このとき松陰は二十歳そこそこ。ここで受けた影響が、のちの松下村塾につながっていく。水戸は、思想の輸出元だったということです。この町で燃えた火が、長州まで飛んでいる。
1日目|常磐共有墓地 ― 討った側と、討たれた側
母方の先祖の墓がある、その場所で
午後、常磐共有墓地へ向かいました。ここには、筆者の母方の実家の墓があります。
ところが、この墓地はただの墓地ではありませんでした。説明板を読んで、はじめてその由緒を知りました。
寛文六年(一六六六)、水戸徳川家二代・徳川光圀が家臣に賜った墓地だというのです。光圀は神仏習合を禁じ、葬祭の簡素化を進めるため、家臣に仏式ではない自葬祭を勧め、「喪祭儀略」を編んで奢侈を戒めました。その方針の下に開かれたのが、この墓地です。
そして板は、こう続けます。「墓地には、先賢志士、贈正四位 安積澹泊先生並びに贈正四位 藤田東湖先生を始め、水戸藩士壱千有余の御霊が祭られ、四季香花の絶えることのない霊地であります」
——正直に言って、テンションが上がりました。先祖の墓参りに来たつもりが、教科書の人物がずらりと並んでいるのです。
安積澹泊。『大日本史』の編集にその生涯を捧げた学者で、「水戸黄門」の格さんのモデルとされる人です。三十八歳で史館総裁となり、亡くなる年まで編集と校訂を続けました。菊を愛した、恭謙な人柄だったと伝わります。
そして——関鉄之介。
標柱にはこう刻まれています。「贈従四位 関鉄之介遠 桜田門外の変志士」。安政七年三月三日、雪の桜田門外で大老・井伊直弼を襲った十八人の水戸浪士。その現場指揮をとった人物です。事件のあと各地を逃れ、捕らえられて斬首されました。
ところが、この墓地を歩いていて、足が止まりました。
「大老 井伊掃部頭直弼 台霊塚」——桜の下に、そう刻まれた碑が立っていたのです。
討った側の墓と、討たれた側の供養塔が、同じ水戸にある。しかもわれわれは、同じ日に、両方の前に立ちました。
誰が建てたのか、いつ建てたのかは分かりません。ただ、これを建てた人がいるということは、この町のどこかに、討った側だけを称えることを良しとしなかった人がいたということです。桜が散りかけていました。
妙雲寺 ― 武田耕雲斎の墓
もう一か所、武田耕雲斎の墓へ。説明板の文章が、この旅でいちばん重いものでした。
耕雲斎は文化元年(一八〇四)、水戸藩の旧家に生まれ、名を正生といいました。斉昭の新政では要職にあり、戸田・藤田の両巨頭が没したあとは、藩の重鎮として尊王攘夷運動を進めます。「藤田」とはもちろん、東湖のことです。
ところが、板はこう続きます。「しかし、勅諚問題・安政の大獄・桜田事変、また、斉昭の死去と非常の事態が相次いで起こるにつれて藩の動揺分裂が激しくなり、一八六四年(元治元年)の春には藤田小四郎等が筑波山に兵を挙げるに至った。」
「はじめは小四郎に自重をすすめた耕雲斎も、幕府諸藩の攻勢が強まると、同情に耐えかねてともに戦い」——そして那珂湊の戦場から約千名を率いて京へ上り、朝廷に志を訴えようとしました。
しかし一行は阻まれ、飢えと寒さに苦しみながら加賀藩に降伏。元治二年二月四日、敦賀において、三百四十余名の同志とともに斬られました。耕雲斎、時に六十三歳。
板は最後にこう結んでいます。「水戸藩の悲運ここに極まったのである。」
止めようとした人が、止めきれずに一緒に行って、一緒に死んだ。その息子や孫まで処刑されています。筑波山で挙兵の像を見たときには「若さの熱」として読めたものが、こちらの墓の前ではまるで違う重さになりました。
太田舞鶴城 ― 佐竹の本城は、学校になっていた
水戸を出て北へ。常陸太田の太田城、別名舞鶴城の跡へ寄りました。
ここは佐竹氏が水戸城へ本拠を移すまでの本城です。関東でも屈指の名門が、数百年にわたって常陸を治めた場所。
着いてみると——学校の敷地でした。
校舎の手前に「舞鶴城趾」と刻まれた大きな石が置かれ、その周りに刈り込まれた植木がある。城の遺構らしいものは、ほとんど見当たりません。授業のチャイムでも鳴りそうな、静かな午後でした。
ここで、これまでの旅とつながります。佐竹氏は慶長七年(一六〇二)、関ヶ原ののちに秋田へ移されました。その同じ国替えで、小田城も真壁城も廃城になっています。今回は、その佐竹自身の城を、水戸から太田へと逆順にたどったことになりました。
本拠を移し、そして国ごと移された家の、いちばん古い城が、いまは学校になっている。悪くない結末だと思いました。
1日目 夕|相馬 ― 漁港のそばの宿
そして、この場所にはあの日の津波が押し寄せています。建物にはいまも爪痕が残っていて、それについて女将さんから直接お話を伺いました。どこまで水が来たのか、そのあと何をしたのか。
内容をここに細かく書くことはしません。ただ、その話を聞いたうえで湯に浸かったという事実だけは、記録として残しておきたいと思います。城跡をめぐる旅のなかで、この夜がいちばん静かでした。
2日目|相馬 ― 伊達に備えた城
中村城跡 ― 落雷で焼けた天守
翌朝、中村城跡へ。相馬氏の城です。
説明板によれば、中村城は一名を馬陵城ともいい、古くこの地は天神山と呼ばれていました。慶長十六年(一六一一)七月、相馬利胤が木幡勘解由長清を責任者として築城に着手し、十一月に完成、十二月二日に小高城からここへ移った。以後、明治初年に廃されるまで約三百年、相馬氏歴代藩主の居城でした。
実際に歩いてみて、まず思ったのが「広い」ということです。本丸のまわりに郭・濠・溜池・土塁・空濠をめぐらし、二の丸を東西南北に、三の丸を東西北に配し、さらに岡田塁・西館・円蔵郭・お花畑・蓮池まである。相馬氏はずっと北の伊達氏と対立していましたから、その備えがこの規模になったのでしょう。縄張り図の板にも「北の伊達氏に備えるため、北方に守り堅い名城といわれ」とはっきり書かれていました。
そして、この城の天守の話です。
築城と同じ慶長十六年、本丸の南西隅に三重の天守が建てられました。ところが寛文十年(一六七〇)、落雷によって焼失。その後、再建されていません。
また天守が消えています。しかも今度は落雷です。これまでの旅で、地震で倒れた天守(掛川)、暴風雨で倒れた天守(伊賀上野)、台風で倒れた天守(松坂)、火事で焼けた天守(桑名)を見てきました。そのときの記事で「天守が消えた理由を集めて歩く旅」と書きましたが、ここでまた一つ増えたわけです。
土塁は、一部が崩れて緑のシートで養生されていました。それでも往時は立派だったのだろうなと、崩れかけた土の稜線を見ながら思いました。三百年ぶんの雨が、少しずつ削っていったのでしょう。
相馬神社と、二宮尊徳
本丸跡の中央には相馬神社が建っています。明治十三年、相馬氏の祖である相馬師常を祭神として創建されました。城が終わったあと、その中心に先祖を祀る神社が建てられたわけです。
そして境内で、思いがけない人物に会いました。二宮尊徳です。
薪を背負って本を読む、あの像ではありません。堂々と座した壮年の姿でした。相馬中村藩は、天保の飢饉で疲弊した藩を立て直すために、尊徳の報徳仕法を導入した藩です。尊徳自身は来ていませんが、その弟子たちが入って、村ごとの立て直しを進めました。
伊達に備えて城を築いた藩が、二百年後には飢饉と戦っていた。そして飢饉と戦った記録が、いま城跡の真ん中に像として立っている。城のいちばん大事な場所に何を置くかで、その土地が何を誇りにしているかが分かります。
2日目|白石 ― 三十一藩が集まった城
白石城 ― 片倉小十郎の城
相馬から北へ。県境を越えて宮城に入り、白石城に着きました。
丘の上に白い三階櫓が建ち、その下を石垣が支えています。平成に木造で復元されたもので、掛川城と同じく本格的な木造復元です。中へ入ると木の匂いがして、階段はきしみ、上に行くほど傾斜がきつくなる。この感覚は鉄筋の復興天守では味わえません。
説明板に、この城の来歴が丁寧にまとめられていました。
天正十九年(一五九一)、豊臣秀吉が伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。——ここで思わず声が出ました。松坂城を築いた蒲生氏郷です。近江から松坂へ、松坂から会津へ、そしてその配下がこの白石まで来ている。あの人の仕事は、日本中に散らばっている。
そのあと上杉氏の家臣・甘糟清長が再構築し、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の直前に伊達政宗が白石城を攻略。この地方は再び伊達領となり、伊達家家臣の片倉小十郎が大改修を行って、以後明治維新まで二百六十余年、片倉氏の居城となりました。
片倉小十郎景綱は、伊達政宗の傅役をつとめ、生涯を支え続けた人です。政宗が「右目」を失ったときに介錯を買って出た逸話や、大坂の陣で「鬼の小十郎」と恐れられた二代目の話がよく知られています。その家が、二百六十年この城にいた。
そして、この城には特別な扱いがありました。元和元年(一六一五)の一国一城令のあとも、仙台藩は幕府から青葉城と白石城の二城を許されています。藩に城が二つ認められるというのは、そう多くありません。
そして、三十一藩がここに集まった
説明板の終わりのほうに、こう書かれていました。
「明治維新には奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。」
——ここでした。
慶応四年、新政府軍が会津へ迫るなか、東北の諸藩がこの白石に集まって会議を開き、奥羽越列藩同盟が結成されました。前日に歩いた相馬中村藩も、この同盟に加わっています。そして同盟が守ろうとした相手が、会津でした。
板はこう結んでいます。「日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった。」
そして、ようやく気づきました。この旅は、水戸から始まっていたのです。
水戸で弘道館が尊王攘夷を教え、桜田門外の変が起き、天狗党が挙兵し、藩が二つに割れた。その思想と混乱が北へ広がり、幕府が倒れ、行き場を失った東北の諸藩が、この白石に集まって同盟を結んだ。朝いちばんに立った弘道館と、いま立っているこの城が、一本の線でつながっている。
三十一藩の代表が集まって国の行く末を論じた場所で、いまは車で来た店が食べ物を売っている。それでいいのだと思います。むしろ、そうなっていることのほうが大事です。
2日目 午後|土浦 ― 亀城
土浦城 ― 小ぶりで、お濠のある城
宮城から常磐道を南へ、ひたすら戻って、最後に土浦城へ。
着いて、ほっとしました。小ぶりなのです。六か所も城跡をめぐって、規模の大きな城も広大な縄張りも見てきたあとで、この城のこぢんまりした佇まいがとてもよかった。
説明板によれば、土浦城は霞ヶ浦の西方、桜川河口の低湿地に築かれた平城です。室町時代に築かれ、戦国期には小田氏配下の菅谷氏の居城となって、佐竹氏との戦いの舞台になりました。徳川家康の関東入封後は結城氏が城代をつとめ、江戸時代には松平・西尾・朽木・土屋氏らが城主を務めています。
ここでまた線がつながりました。小田氏は、筑波山の麓で歩いた小田城の小田氏です。その配下がこの土浦を守り、佐竹と戦った。そして今回の旅は、その佐竹の本城(太田舞鶴城)から始まっています。旅の最初と最後が、同じ対立の両側だったわけです。
この城の別名が「亀城」です。低湿地に築かれ、周囲を濠が幾重にも囲んでいて、水に浮かぶ亀のように見えたことから、そう呼ばれました。
——ここで気づきました。この旅は「舞鶴」で始まって「亀城」で終わっている。常陸太田の舞鶴城から出発して、鶴と亀で締めくくられたわけです。狙ったわけではありません。
お濠の水面に木立と桜が映り、その向こうに白い櫓が見える。本丸の櫓門は江戸時代からそのまま建っている貴重なもので、ほかに霞門・東櫓、そして移築されて戻ってきた旧前川口門があります。この規模で、江戸時代の建物が四つも残っている。平成二十九年には続日本100名城にも選ばれました。
東櫓の下では屋台が出て、桜まつりの提灯が張られていました。白石でキッチンカーを見たのと、同じ光景です。
あとから思えば、この旅でいちばん印象に残っているのは、この一場面かもしれません。城跡そのものより、その城跡がある町に暮らしている人のほうが。
今回まわった六か所のうち、天守が建っているのは白石城だけです。水戸城は土塁と復元された門、中村城は土塁と朱の橋、太田舞鶴城にいたっては学校の敷地に石碑が一つ。持ち帰れる紙が一枚あるかないかで、あとから思い出せる量がまるで違います。
実際に走って感じたこと
帰りの車で考えていたことを、三つ書いておきます。
ひとつめ。この旅は、一本の線でつながっていました。水戸の弘道館で教えられた思想が、桜田門外の変になり、天狗党の挙兵になり、藩を二つに割った。その火が北へ広がって、最後に白石で三十一藩の同盟になる。朝に立った学校と、翌日に立った城が、同じ話の始まりと終わりだった。走り出したときは、まったく意識していませんでした。
ふたつめ。常磐共有墓地のことです。母方の先祖の墓がある場所に、藤田東湖も、安積澹泊も、関鉄之介も眠っていました。そして少し離れた寺に武田耕雲斎が、同じ墓地に井伊直弼の供養塔がありました。討った側と討たれた側が、同じ町で四季の花に囲まれている。幕末の水戸は、誰にとっても悲運でした。勝った側もいません。
みっつめ。これがいちばん強く思ったことです。同じ市内に城や城跡がある町が、うらやましい。
今回まわった六か所は、どこも人の暮らしのすぐ隣にありました。水戸城の空堀の底を車が走り、太田舞鶴城の跡地は学校になり、常磐共有墓地には四季の花が絶えず、中村城跡には神社が建ち、白石城の下でキッチンカーが商売をして、土浦城のお濠端では桜まつりの提灯が揺れている。史跡が特別な場所として囲われているのではなく、生活のなかにそのまま置かれている。
そして土浦では、道を尋ねたご婦人が二人がかりで教えてくれました。憧れの正体は、たぶん建物ではありません。城跡を日常の風景として持っていて、そこを訪ねてきた人に道を教えられる、そういう町に住んでいることのほうです。
同じルートを走る方へ、ひとつだけ。水戸は弘道館と城跡だけで帰らないでください。常磐共有墓地まで足を延ばすと、この町の幕末が一気に立体になります。歩いて回れる範囲に、教科書に出てくる人たちが静かに並んでいます。
この旅の道のり
- 1日目弘道館(旧水戸藩校)徳川斉昭が建てた日本最大級の藩校。慶喜が謹慎した座敷と、使ったと伝わる厠が残る徒歩すぐ
- 水戸城跡石垣を持たない土と切通しの城。復元された大手門と二の丸角櫓車で約10分
- 藤田東湖 生誕の地父・幽谷の生誕地も近い。吉田松陰水戸留学の地もこの一帯車で約10分
- 常磐共有墓地光圀が家臣に与えた墓地。藤田東湖・安積澹泊・関鉄之介、そして井伊直弼の台霊塚車で約5分
- 妙雲寺(武田耕雲斎の墓)天狗党の総帥。敦賀で三百四十余名とともに斬られた車で約30分
- 太田舞鶴城跡(常陸太田)佐竹氏が水戸城へ移るまでの本城。いまは学校の敷地車で約2時間
- 夕相馬・漁港のそばの宿部屋に湯船のある宿。女将さんから津波の話を伺った一泊
- 2日目中村城跡(相馬)北の伊達氏に備えた広大な縄張り。三重の天守は落雷で焼失し再建されず徒歩すぐ
- 相馬神社・二宮尊徳像本丸跡に建つ。御朱印と御城印をいただいた車で約1時間20分
- 白石城(宮城)片倉小十郎の城。奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれた城内のキッチンカーで昼食
- 午後土浦城(亀城)江戸時代の櫓門・霞門・東櫓が残る平城。お濠が美しい
※移動時間は一般的な所要時間の目安です。撮影時刻の記録が残っていないため、時刻は省いています。















































