【実録】房総の城と陣屋をめぐる ― 本佐倉城・中沢城から佐貫城・勝山藩、幕末の義士まで

房総半島には、戦国の土の城から幕末の陣屋まで、時代の異なる城跡が数多く眠っています。今回は運営者(佐藤秀信)が、都内から日帰りで通える房総の城と陣屋を車でめぐった記録です。北総では本佐倉城・中沢城という戦国の土の城を、内房では佐貫城・勝山藩陣屋・勝山城という近世から幕末へと続く城と陣屋を訪ねました。北総から内房へ、房総半島を縦断するように走った一日でしたが、たどってみると内藤家幕末の戊辰戦争で思いがけず一本につながる、房総ならではのマニアックな城めぐりになりました。

北総 ― 戦国の土の城

目次

本佐倉城 ― 県内最大級、下総千葉氏の巨大な土の城

まずは酒々井の本佐倉城から。ここは、下総の守護千葉氏が文明年間(1469〜1486)に築き、天正18年(1590)に滅亡するまでの約100年間、当主9代が居城とした戦国時代の城です。当時の水上交通の大動脈であった印旛浦に面し、主要街道が交わる要衝に築かれました。県内最大級となる約35万平方メートルの規模を誇り、10の郭からなる大城郭です。すべて土の造成で築かれた「土の城」で、大規模な空堀や土塁、虎口が今も明瞭に残り、戦国の城の迫力を体で感じられました。草に覆われた堀底の道を歩くと、両側から土塁が迫ってきて、地形そのものが武器だったことがよくわかります。

中沢城 ― 原形をよくとどめる、台地の平山城

続いて富里の中沢城へ。富里市指定文化財の第1号で、通称「城山」と呼ばれてきた城跡です。室町時代後半に千葉氏の勢力下で築かれた城とされ、城主は千葉氏を始祖とする三谷氏が有力と考えられています。北総台地特有の舌状台地をうまく利用した「平山城」で、東側には台地を分断する空堀と土塁、西側には水田面から約15mの崖を利用した防御が備わります。市内の城跡のなかでも、最もよく原形をとどめているそうです。当時の武士は半農半士で、城主も普段はここに住まず、非常時にのみ農兵とともに立てこもったと伝わります。静かな林のなかに、空堀や腰曲輪の跡がくっきりと残っていました。

内房 ― 近世から幕末へ

佐貫城 ― 内藤家から阿部家へ、幕末まで続いた城

内房に舞台を移して、まずは富津の佐貫城(亀城)。室町時代にさかのぼる古い城で、里見・武田・加藤など多くの氏が城主になったと伝わります。近世には内藤家長・政長、松平氏、そして元禄期には柳沢保明(のちの吉保)の名も見え、宝永7年(1710)に阿部正鎮が三河刈谷から1万6千石で移って以降は、阿部氏八代の居城として明治4年(1871)の廃城まで続きました。城の入口には木の城柱が立ち、そこから草に埋もれた土の道が城域へと続いていきます。内藤政長はのちに磐城平(いわき)へ移った人で、以前歩いたいわきの城と陣屋(磐城平・湯長谷)の内藤家とここでつながるのが、城好きにはたまらないところでした。

歩いてみて:城入口の手づくりの城柱と、静かに続く土の道がいかにも房総の城跡らしく、飾り気のない味わいがありました。ちなみに、このあと訪ねる勝山藩の悲劇にゆかりの深いお寺(三宝寺)も、この佐貫の地にあります。
昼の立ち寄り:城めぐりの合間には、鋸南の保田の道の駅で一息。房総ドライブの定番の休憩ポイントで、地のものを味わってから午後の勝山へ向かいました。

勝山藩陣屋 ― 酒井家9代200年、安房で最も長く続いた大名

鋸南に入って、まずは勝山藩陣屋。寛文8年(1668)、若狭国(福井県)小浜藩主・酒井忠直が甥の忠国に1万石を分け与えて大名に取り立て、小浜藩酒井家の支藩として勝山藩が誕生しました。酒井氏1万2千石の小藩ながら徳川譜代の家柄で、越前敦賀郡と上野群馬郡に飛び領地を持ち、明治維新まで9代200年この地を治めました。近世の安房地方の大名としては、最も長い期間です。陣屋は山を背にして幅四間ほどの堀と土塁に囲まれ、敷地は約四千五百坪あったと説明板は伝えます。今は平地の一角に解説板が立つのみですが、小藩の政庁の跡だと思うと感慨がありました。

勝山城 ― 里見水軍の海城

陣屋の背後、南方の八幡山にあるのが勝山城です。ここは里見水軍の拠点となった、戦国期の典型的な海城でした。城主は内房正木一族の正木安芸守輝綱で、ここから水軍を繰り出し、相模の北条水軍としばしば戦っていたようです。由来をたどると、源頼朝が石橋山の戦いに敗れてこの地へ逃れてきた際、いち早く従った地頭・安西氏が砦を築いたことに始まり、その後内藤氏・佐倉氏の居城を経て、寛文8年に酒井氏の勝山藩の城となりました。遊歩道の整う城跡には、眺めのよい平坦な曲輪跡や堀切、虎口が残ります。里見氏の改易後は天領となり、のちに勝山が勇猛な捕鯨の村として栄えたのも、水軍の血が受け継がれたからかもしれない――という説明板の一節が心に残りました。

勝山藩義士の碑 ― 勝山を戦火から救った、幕末の義

この旅でいちばん心を打たれたのが、勝山藩義士の碑でした。幕末の戊辰戦争のとき、上総請西藩主・林忠崇と連携した旧幕府方の遊撃隊が「義軍」と称して挙兵し、内房の諸藩に加勢を求めて南下、勝山藩にも迫りました。抵抗すれば勝山の町が戦火に巻き込まれる――。苦慮のすえ、勝山藩は31名を半ば公認、半ば脱藩というかたちで義軍に参加させ、箱根で官軍の大軍と激突します。多勢に無勢で、この戦いにより勝山藩士は戦死15名・戦傷10名・行方不明2名と、ほぼ全滅の状態でした。さらに官軍は義軍に加担した内房諸藩の責任を追及し、藩士代表2名も切腹を命じられます。その2名の墓が、富津市佐貫の三宝寺――つまり、この日の午前に訪ねた佐貫の地にあるのです。城めぐりのはずが、佐貫と勝山が幕末の悲話で一本につながった瞬間でした。

歩いてみて:勝山を戦火から救うために、半ば脱藩というかたちで送り出され、そして帰らなかった人たち。碑の前に立つと、名もなき小藩の幕末にも、これほど重い決断と犠牲があったのだと胸に迫るものがありました。

実際に歩いて感じたこと

房総の城と陣屋を一日かけてめぐってみて、この地の歴史の重なりの面白さを味わえました。北総の本佐倉城・中沢城は、天守などない代わりに、空堀と土塁がそのまま残る「土の城」で、戦国の房総の姿を今に伝えています。内房の佐貫城・勝山藩陣屋・勝山城は、近世の小藩の営みと、里見水軍の海の記憶をとどめていました。そして何より、佐貫城の内藤家がいわきの内藤家へと続き、勝山藩義士の切腹した2名の墓が佐貫の三宝寺にある――と、離れた土地が人と歴史で静かにつながっていく手ごたえがありました。派手な天守がなくても、説明板と土塁を頼りに歩けば、房総の城の物語はちゃんと立ち上がってきます。まさに“いぶし銀”の、レアな房総城めぐりでした。

この旅の道のり

  1. 北総 ― 戦国の土の城
  2. 本佐倉城県内最大級、下総千葉氏の巨大な土の城車で約20分
  3. 中沢城原形をよくとどめる、台地の平山城車で約1時間半
  4. 内房 ― 近世から幕末へ
  5. 佐貫城内藤家から阿部家へ、幕末まで続いた城車で約30分
  6. 勝山藩陣屋酒井家9代200年、安房で最も長く続いた大名徒歩すぐ
  7. 勝山城里見水軍の海城徒歩すぐ
  8. 勝山藩義士の碑勝山を戦火から救った、幕末の義

※移動時間は一般的な所要時間の目安です。撮影時刻の記録が残っていないため、時刻は省いています。

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