千葉・北総の地には、江戸の民が語り継いだ義民・佐倉惣五郎(そうごろう)の物語と、幕末に開国へ舵を切った老中の城が残っています。関東不動信仰の総本山成田山新勝寺で初詣をすませ、名物の鰻に舌鼓を打ち、惣五郎ゆかりの旧宅と宗吾霊堂、そして佐倉城址へ。運営者(佐藤秀信)が家族とともに、佐倉・成田の歴史を一日で車でめぐった記録です。
今回の道のり(車で一日)
成田山新勝寺は東関東自動車道の成田インターから近く、初詣を兼ねてまず参拝しました。そのあと参道名物の鰻で昼食をとり、成田市宗吾の宗吾旧宅・宗吾霊堂へ。締めくくりに、佐倉市の佐倉城址を歩きました。いずれも車で回れる距離で、近世日本の信仰・義民・城郭を一日でたどれる濃い行程になりました。
成田山新勝寺で初詣
成田山新勝寺は、平安時代中期、平将門の乱の平定を祈願して開かれたと伝わる古刹です。寛朝(かんちょう)大僧正が、弘法大師空海ゆかりの不動明王像を奉じて関東へ下り、この地で護摩の祈祷を行ったのが始まりとされます。乱がおさまったのち不動明王がこの地にとどまることを望んだという縁起から寺が定まり、「新勝寺」の名を賜ったそうです。真言宗智山派の大本山で、初詣の参拝者数は全国でも有数です。正月の境内は、色とりどりの幔幕と初詣の人波で華やいでいました。
名物の鰻に舌鼓
成田といえば鰻。かつて印旛沼で鰻がよく獲れたことから、表参道には老舗の鰻屋が軒を連ねています。香ばしく焼き上げた蒲焼をのせたうな丼に、肝吸いと香の物。参拝の疲れが、ふっとほどけるひと膳でした。
義民・佐倉惣五郎の生家「宗吾旧宅」
昼食のあとは、成田市宗吾へ。ここは、江戸初期の義民として名高い佐倉惣五郎(本名・木内惣五郎)ゆかりの地です。惣五郎は公津村の名主で、重い年貢に苦しむ領民を救うため、将軍に直訴して自らは命を落とした——そう語り継がれてきた人物です。ゆかりの地は「義民ロード」として案内図で結ばれ、生家である宗吾旧宅には茅葺の民家が保存されています。正月飾りのかかる戸口が、当時の暮らしをしのばせていました。
宗吾霊堂(鳴鐘山 東勝寺)に参る
旧宅から少し離れた宗吾霊堂(鳴鐘山 東勝寺)は、惣五郎を祀る寺として知られ、今も参拝者が絶えません。境内には宗吾父子の御墓があり、案内板には「承応二年(一六五三年)に受刑され、この地に宗吾様と四人のお子様が合葬されている」と記されていました。子どもたちまで連座したと伝わる非情——だからこそ、義民伝説はいっそう人々の胸を打ったのでしょう。堂々たる大山門をくぐり、正月の幕がかかる本堂に手を合わせました。
幕末の老中の城 ― 佐倉城址
締めくくりは佐倉城址。佐倉城は、江戸初期に土井利勝が完成させた、江戸の東を守る要衝の城で、のちに堀田氏が城主となりました。幕末の藩主で老中を務めた堀田正睦(まさよし)は、日米修好通商条約の交渉にあたった開国派として歴史に名を残します。義民・惣五郎の物語と、開国に動いた老中の城が同じ佐倉の地で結びつくのは感慨深いものがあります。日本100名城に選ばれた城跡には天守はもう無く、「佐倉城天守跡」の石碑が静かに立っていました。
実際に歩いて感じたこと
初詣でにぎわう成田山の華やぎと、圧政に抗った義民の物語、そして開国へ踏み出した老中の城——同じ北総の一日のなかに、近世日本の光と影が凝縮されていました。佐倉惣五郎の直訴は伝承の部分も多いが、名もなき民のために身を賭した「義」の記憶が、宗吾霊堂や義民ロードとして今も大切に守られていることに胸を打たれます。堀田正睦の像の前に立てば、その百数十年後、この地の藩が世界へ扉を開く役目を担ったことに、歴史の不思議な巡り合わせを感じます。信仰・義民・城、そして名物の鰻。欲張りなようでいて、車があれば無理なくたどれる、おすすめの歴史さんぽでした。
この旅の道のり
- 成田山新勝寺で初詣徒歩すぐ・名物の鰻
- 名物の鰻に舌鼓車で約20分
- 義民・佐倉惣五郎の生家「宗吾旧宅」車で約5分
- 宗吾霊堂(鳴鐘山 東勝寺)に参る車で約30分
- 幕末の老中の城佐倉城址
※移動時間は一般的な所要時間の目安です。撮影時刻の記録が残っていないため、時刻は省いています。
この記事で歩いた地域を、都内発の日帰り・1泊で回るコースにまとめています。



















