栃木県には、徳川家康にとって意味のちがう二つの場所があります。ひとつは天下を取ると決めた場所。もうひとつは神としてまつられた場所です。小山評定跡と、日光東照宮。そのあいだには十七年の時間があります。
そして、後の将軍たちが日光へ参るようになると、その道筋にある城が宿になりました。宇都宮城と壬生城です。栃木の家康ゆかりの地は、この四か所でひとつながりになります。
このページでは、運営者が実際に歩いた宇都宮城址公園・壬生城址公園を写真とともに、日光東照宮と小山評定跡は公式の記録を中心にまとめました。出典は寺社・自治体などの公式サイトに限り、確認できなかったことは「記載を見つけられませんでした」と書いています。(確認日:2026年9月)
年表 ― 決断から、神になるまで
| 年 | できごと | 場所 |
|---|---|---|
| 慶長5年(1600)7月24〜25日 | 小山評定。上杉景勝討伐を続けるか、反転して西へ向かい石田三成を討つか。東軍は西上に決した | 小山 |
| 慶長5年(1600) | 小山御殿が建てられる。のちに徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所となる | 小山 |
| 元和2年(1616)4月17日 | 駿府城にて死去。75歳。直ちに久能山に神葬される | 駿府・久能山 |
| 元和3年(1617)4月15日 | 久能山より、現在の地へ移されまつられる | 日光 |
| 元和3年(1617)4月17日 | 二代将軍秀忠をはじめ公武参列のもと、東照社として鎮座 | 日光 |
| 寛永13年(1636) | 三代将軍家光による寛永の大造替 | 日光 |
| 正保2年(1645) | 宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになる | 日光 |
| 天和2年(1682) | 小山御殿、古河藩により解体 | 小山 |
出典:日光東照宮「由緒」/小山市「徳川家康ゆかりの地 小山評定と小山御殿」
死去が4月17日、日光に移されたのが翌々年の4月15日、鎮座が4月17日。命日に合わせて日取りが組まれています。公式にその理由までは書かれていませんが、日付が並ぶことは記録から読み取れます。
1. 小山評定跡(栃木県小山市)― 西へ向かうと決めた場所
小山評定跡/栃木県小山市(市指定史跡)
慶長5年(1600)7月24日から25日。会津の上杉景勝を討つために北へ向かっていた家康は、下野国小山で軍議を開きます。石田三成が西で挙兵した報せが届いたためです。
問いはひとつでした。このまま上杉を討つか、反転して西へ向かい三成を討つか。結論は西上。この二日間の決定から、九月の関ヶ原につながります。
同じ慶長5年、ここに小山御殿が建てられました。のちに徳川将軍家が日光社参をする際の休憩・宿泊所として使われ、天和2年(1682)に古河藩によって解体されています。天下を分けた評定の場所が、のちに将軍が家康の墓所へ向かう途中の宿になったわけです。
現地には「史跡 小山評定跡」の石柱が立っています。側面には「昭和三十九年五月十四日市指定」と刻まれていました。小山市の公式ページには指定年月日の記載を見つけられませんでしたが、石柱そのものが日付を伝えています。かたわらの自然石には碑文がはめ込まれていますが、文字が小さく、こちらは読み取れませんでした。

出典:小山市「徳川家康ゆかりの地 小山評定と小山御殿」(2026年9月確認)
2. 日光東照宮(栃木県日光市)― 家康が眠る場所
日光東照宮/栃木県日光市
家康が亡くなったのは元和2年(1616)4月17日、駿府城でのことでした。75歳。遺体は直ちに久能山に神葬されます。
翌々年の元和3年(1617)4月15日、久能山から現在の地へ移され、4月17日、二代将軍秀忠をはじめ公武参列のもとに東照社として鎮座しました。
いま私たちが見る絢爛な社殿は、その創建時のものではありません。寛永13年(1636)、三代将軍家光による寛永の大造替によるものです。さらに正保2年(1645)に宮号を賜り、東照社から東照宮となりました。






この節の写真はフリー素材(写真AC)です。運営者が現地で撮影した写真は実録 歴史旅シリーズに掲載しています。日光は、まだ実録として歩けていません。
出典:日光東照宮「由緒」(2026年9月確認)
3. 宇都宮城址公園(栃木県宇都宮市)― 将軍が通った門
宇都宮城址公園/栃木県宇都宮市本丸町
将軍たちは江戸から日光へ、何度も参りました。その道筋にあたる宇都宮城は、宿城として使われています。
城址公園の清水門跡に立つ説明板には、こう書かれています。
宇都宮城本丸正面の出入口が清水門です。日光社参の時には、将軍もこの門を通って本丸の御成御殿に向かったのです。清水門の位置・規模は、絵図などに基づいて地面にその位置・規模を表示しています。
門そのものは復元されていません。地面に位置と大きさが表示されているだけです。将軍が通った門の跡を、線で示された地面として歩くことになります。






釣天井の伝説
宇都宮城といえば釣天井です。栃木県の公式ページは、これを「とちぎの伝説」として紹介しています。
幕閣から遠ざけられたのを恨んだ本多上野介正純が、二代将軍秀忠が日光参拝の途中で宇都宮城に寄るのを機に将軍を亡き者にしようと、釣天井の仕掛けを持った御座所をひそかに城内に建築して機会を待った。しかし釣天井を作った大工からもれ、未然に鎮圧され、正純は家禄を没収されて流罪となった――という筋です。
栃木県のページは「伝説」の欄でこの話を紹介しており、史実としての検証は書かれていません。釣天井の事件については、今日では事実ではなかったと考えられています。ここでは、県が伝説として伝えている内容をそのまま紹介するにとどめます。
行くときに知っておくと役に立つこと
入場無料。公園そのものは24時間開いていて、歴史建築物は9:00〜19:00。無休(年末年始を除く)です。歴史資料館「清明館」も無料で、9:00〜19:00、12月29日〜1月3日が休館です。
駐車場は無料ですが、台数が非常に少ないです。しかも公式の表記が割れていて、宇都宮観光ナビは9台、とちぎ旅ネットは12台と書いています。どちらにしても、満車を前提にしたほうがよい数です。東武宇都宮駅から徒歩約10分なので、電車で行くほうが確実です。
坂とスロープで土塁の上まで上がれるので、足元に不安のある方でも一周できます。
出典:栃木県「とちぎ豆知識 とちぎの伝説 宇都宮城釣天井」/宇都宮観光ナビ/とちぎ旅ネット/現地説明板(2026年9月確認)
4. 壬生城址公園(栃木県壬生町)― 日光西街道の城
壬生町城址公園/栃木県壬生町本丸1-8-33
壬生城は、江戸から日光へ向かう日光西街道(壬生通り)沿いにあります。いまは城址公園として整備され、堀の内側に沿って土塁が残り、門と石垣が復元されています。



園内には壬生町歴史民俗資料館、壬生町立図書館、城址公園ホールがあります。駐車場は100台。宇都宮城とちがって、車で行きやすい場所です。東武宇都宮線の壬生駅から徒歩10分、北関東自動車道の壬生ICから15分。
壬生城が将軍の日光社参でどう使われたかについては、今回あたった公式ページに記載を見つけられませんでした。日光西街道沿いの城であることは確かですが、宿城としての役割を断定できる公式の記述は見つかっていません。
出典:とちぎ旅ネット「壬生町城址公園」(2026年9月確認)
一覧
| 場所 | 所在地 | 家康との関わり | 見学 | 写真 |
|---|---|---|---|---|
| 小山評定跡 | 栃木県小山市 | 慶長5年(1600)西上を決定。市指定史跡(昭和39年5月14日) | 石柱と碑 | あり(1枚) |
| 日光東照宮 | 栃木県日光市 | 元和3年(1617)久能山より改葬。家康が眠る | 有料。時間・料金は公式で | 写真AC 6枚 |
| 宇都宮城址公園 | 栃木県宇都宮市本丸町 | 日光社参の宿城。将軍が清水門を通った | 入場無料/建築物9:00-19:00/駐車場9〜12台のみ | 運営者 6枚 |
| 壬生町城址公園 | 栃木県壬生町本丸1-8-33 | 日光西街道沿いの城 | 駐車場100台/資料館・図書館あり | 運営者 3枚 |
開館時間・料金・休館日は変わります。お出かけの前に、それぞれの公式サイトでご確認ください。このページの内容は2026年9月に確認したものです。
このコースを実際に回る記事
- 【都内発】車 日帰り:家康公が眠る日光山と将軍家の日光社参!日光東照宮・大猷院と徳川の威光
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- 【実録】関東平野を見ていた者たち ― 宇都宮城と児山城跡、太平山 謙信平の天狗党の碑 ― 宇都宮城を歩いた記録です
おわりに
小山で西へ向かうと決めたのが慶長5年の夏。関ヶ原はその二か月後です。それから十六年生きて、駿府で亡くなり、久能山を経て日光に移されました。
そのあと二百数十年にわたって、将軍たちは江戸から日光へ通います。その道の途中にあるのが宇都宮城と壬生城、そして小山御殿でした。天下を決めた評定の場所が、のちに将軍が家康の墓へ向かう途中の宿になった。栃木の家康ゆかりの地は、そういう順番で並んでいます。
宇都宮城の清水門は復元されていません。将軍が通った門の位置は、地面に線で示されているだけです。それでも、その線をまたいで本丸へ上がると、ここを通った人たちのことが少しだけ近くなります。
