【現地レポート】東善寺(高崎市倉渕)|小栗上野介(忠順)の墓と遺品館の回り方、拝観料・駐車場・本墓への道

群馬県高崎市倉渕町の東善寺(とうぜんじ)は、幕末の幕臣・小栗上野介忠順が最後の日々を過ごし、いまも眠っている曹洞宗のお寺です。2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公ゆかりの地として、訪れる人が増えています。

この記事は、これから東善寺を訪ねる方のための現地ガイドです。私たち夫婦が実際に歩いて確かめた、拝観の受付の場所、境内の回り方、本墓までの道のり、駐車場やトイレ、そして行く前に知っておくと何倍も楽しめることをまとめました。

境内に立つ小栗上野介の胸像
境内に立つ小栗上野介の胸像
目次

東善寺の基本情報

所在地 群馬県高崎市倉渕町権田169
宗派 曹洞宗
拝観の受付 本堂の玄関入り口の横にある受付窓口
拝観料 大人200円・中高生100円(墓参りだけなら自由)
お線香 一束200円(代金は寺域整備の基金に)。お線香を買うとライターを貸してもらえます。返却をお忘れなく
御朱印 300円。小栗上野介の肖像の印入り。私たちは御朱印帳を持っていなかったので書き置きをいただきました
駐車場 あり・10台ほど(お昼ごろには満車でした)
トイレ あり(男女別。きれいでした)
所要時間 遺品館・墓所・本墓・資料室まで回って約2時間
撮影 本堂内(資料室)の資料は撮影できません
問い合わせ 027-378-2230

料金は、境内の「拝観の方へ」の案内板と、私たちが実際に支払った金額によります。夫婦二人で、拝観料400円、お線香200円、御朱印300円の合計900円でした。

行く前に知っておきたいこと

小栗上野介と東善寺

小栗上野介忠順は、文政10年(1827年)に江戸駿河台で生まれた旗本です。勘定奉行などを務め、横須賀造船所(製鉄所)の建設を進めて、日本の近代化の土台を築きました。いまも横須賀のヴェルニー公園には、製鉄所を一緒に造ったフランス人技師ヴェルニーと並んで小栗の胸像が立っています(横須賀の実録記事)。

しかし新政府軍との徹底抗戦を主張して罷免され、慶応4年(1868年)3月1日、家族や家臣とともに知行地の権田村へ移り住みます。そのとき仮の住まいにしたのが、この東善寺でした。境内の切り絵の説明によると、小栗一家は本堂に二か月ほど暮らしたそうです。そして同じ年の閏4月6日、小栗は新政府軍に捕らえられ、近くの烏川の水沼河原で、取り調べもないまま斬首されました。42歳でした。なぜ小栗は斬られなければならなかったのかは、姉妹サイト「幕末歴史ガイド」の水沼河原とは―なぜ小栗は斬られたのかでくわしく考えています。また、「逆賊」とされた小栗がどう名誉を回復したのかは『逆賊の幕臣』の意味とはにまとめています。

「権田村」はいまどこ? ― 江戸時代から高崎市になるまで

小栗上野介が隠棲し、最期を迎えた「権田村(ごんだむら)」という村は、いまはありません。地図で探すと「群馬県高崎市倉渕町権田」。村の名前は、町の中の地名として残っています。

江戸時代、権田村は上野国群馬郡の村で、旗本・小栗家の知行地(領地)の一つでした。東善寺の説明板によると、小栗家の知行地は合わせて約2,500石あり、そのうち権田村の石高は約370石。小栗はここを、江戸を離れて暮らす土地に選んだのです。

じつは、小栗が斬られた水沼村は、権田村とは郡がちがい、碓氷郡に属していました。江戸時代のはじめの寛永8年(1631年)には幕府の直轄地(幕府領)だったと記録されています。東善寺から終焉の地の河原までは車ですぐですが、江戸時代の感覚では「となりの郡の村」だったわけです。

江戸時代 上野国群馬郡 権田村(小栗家の知行地)。水沼村は碓氷郡
明治22年(1889年) 町村制で村々がまとめられ、西群馬郡倉田村と碓氷郡烏淵村(うぶちむら)ができる
明治29年(1896年) 西群馬郡と片岡郡が合わさって群馬郡に
昭和30年(1955年)2月1日 倉田村と烏淵村が合併して群馬郡倉淵村に。村名は二つの村の名前を組み合わせたもの
平成8年(1996年)7月1日 表記を「倉淵村」から「倉渕村」に改める
平成18年(2006年)1月23日 箕郷町・群馬町・新町とともに高崎市に編入。いまの「高崎市倉渕町権田」「倉渕町水沼」に

小栗が暮らした権田村は、村の名前としては明治22年に消え、倉田村、倉淵村、倉渕村と名前を変えながら、いまは高崎市の一部になっています。それでも「権田」という地名は、150年以上たったいまも、東善寺の住所にしっかり残っています。

出典:群馬県「市町村名変遷一覧」、総務省・e-Stat「市町村の廃置分合」、東善寺の高崎市教育委員会の説明板、コトバンク「水沼村」

ポーハタン号の世界一周ルートを頭に入れておく

東善寺を訪ねる前に、ぜひ知っておいてほしいのが、小栗がポーハタン号で渡った遣米使節の旅です。東善寺の皆さんが口をそろえて「咸臨丸ではなく、ポーハタン号に光を当ててほしい」と話していたのが、まさにこの航海でした。

万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、正使・新見正興、副使・村垣範正、そして目付(監察)の小栗たちは、アメリカの軍艦ポーハタン号で太平洋を渡りました。よく知られる咸臨丸は、このポーハタン号に随行した船です。

往路 品川を出港 → ハワイを経て → サンフランシスコ → パナマ(地峡を汽車で越える)→ 大西洋側から船でワシントンへ。批准書を交換
復路 アメリカの軍艦で大西洋を渡り → アフリカ南端の喜望峰を回って → インド洋 → バタビヤ(いまのジャカルタ)など東南アジアを経て → 帰国

こうして小栗たちは、日本人として初めて地球を一周しました。遺品館には、このとき持ち帰ったと思われる椰子の実が展示されています。ルートを知ってから見ると、小さな椰子の実がぐっと重みを増して見えるはずです。

運営者のひとこと
私は、ポーハタン号の航路と、小栗が回った行程を知ってから行くことをいちばんおすすめします。展示や、お寺の方のお話がまったく違って聞こえてきます。

境内の歩き方

拝観料は、本堂の玄関入り口の横にある受付窓口で払います。私たちはお寺の方に案内していただいた順に境内を回りました。案内された順番どおりに回るのがいちばんです。ここでは、主な見どころを紹介します。

小栗公遺品館 ― ここは絶対に見逃さないで

古い土蔵のような建物が、小栗公遺品館です。入ってすぐの札には、「遺品が少ない」と言われる理由が書かれています。小栗主従を殺した西軍が、江戸から運ばれていた家財道具を一切奪って商人に売り払い、軍資金にしたため、だそうです。

  • 捨て駕籠:小栗が最期の朝、水沼河原へ運ばれたときに乗せられたと伝わる駕籠。
  • 小栗家々宝の槍:家康から小栗家の祖・忠政に与えられたと伝わる信国作の名槍。
  • 望遠鏡:フランス公使ロッシュから贈られたパリ製。
  • 椰子の実:遣米使節の帰りに持ち帰ったと思われるもの。
  • 上野介が建てようとした家の写真と平面図:観音山に建てるはずだった屋敷の写真です。
運営者のひとこと
小栗の遺品館は、東善寺に来たら絶対に見てほしい場所です。一つ一つの品に、守り伝えた家臣や村人の名前が添えられていて、遺品が「少ない」のではなく、村の人たちが守り抜いたからこそ、これだけ残ったのだと感じました。展示札の内容は実録記事でくわしく紹介しています。

並んで立つ二つの胸像 ― 小栗上野介と栗本鋤雲

本堂の前には、小栗上野介の胸像と、もう一つ栗本鋤雲(じょうん)の胸像が並んでいます。鋤雲は小栗とともに横須賀製鉄所の建設に力を尽くした幕臣で、明治以後は報知新聞の主筆として活躍しました。幕末の日本の近代化を一緒に進めた盟友が、ここで隣り合っているのです。

小栗父子と家臣たちの墓

境内には、小栗父子の供養墓と、家臣たちの墓が並んでいます。小栗とともに水沼河原で斬られた三人、高崎城内で養子の又一とともに斬られた三人、小栗夫人を会津へ護衛して戦死した権田村の若者二人、逃げる途中で命を落とした家族の名前が、説明板に記されています。そばには、夫人の逃避行を守り、斬られた小栗父子の首を取り戻した村人たちの名を刻んだ「仁義併存碑」も立っています。

運営者のひとこと
神聖な場所だと感じました。静寂のなかにいくつものお墓が並び、まわりを木々に囲まれています。自然と声が小さくなる、そんな空気でした。

裏山の本墓 ― ここも見逃さないで

小栗の本当のお墓(本墓)は、寺の裏の小高い山の上にあります。道はほぼ全部が石段で、私たちは10分ほどで着きました。女性の足でもスムーズに登れますし、石段なので雨の日でも大丈夫だと思います。

本墓にはお線香を供えられません。山の上なので火の危険があるためです。お線香は、境内の供養墓と胸像の前に手向けます。

本墓の説明板から
小栗の遺体は、村役人の池田長左衛門らによってこの場所に埋葬されました。首は養子・又一の首とともに館林へ送られて首実検を受け、法輪寺に葬られましたが、のちに中島三左衛門らが取り戻し、一周忌の夜にこの地へ埋葬したそうです。向かって右は、小栗とともに斬首された家臣三名の墓です。(高崎市教育委員会)
運営者のひとこと
遺品館とならんで、小高い山の上の本当のお墓はぜひ訪ねてください。私たちは登る途中で蛇に出会いました。蛇は縁起のよいもの。小栗に迎えられたような気がしました。

本堂横の資料室

本堂横の資料室には、小栗が建設を進めた日本初の本格的な洋式ホテル「築地ホテル館」の模型などが展示されています。小栗を特集したテレビ番組のDVDも流れていました。資料室の資料は撮影できません。

私たちはここで、ご住職にお話をうかがうことができました。ただ、ご住職はとてもお忙しそうで、お昼の時間に無理をお願いして話していただいたものです。いまの時期ならお話を聞ける機会もあるかもしれませんが、大河ドラマで訪れる人が増えると、お話の時間を決めて区切るような形に変わることもあるのでは、と個人的には感じました。お話をうかがうときは、お寺のご都合を第一に考えたいところです。

お寺の皆さんの「小栗愛」

東善寺で強く感じたのは、お寺の皆さんの小栗への愛情の深さです。雰囲気や話しぶりから、それがひしひしと伝わってきました。皆さんが口をそろえて言っていたのは、「咸臨丸ではなく、ポーハタン号に光を当ててほしい。その史実をよく調べて読んでみてほしい」ということでした。

運営者のひとこと
東善寺に来て、小栗の見え方が変わりました。こんなにも有能で、これからの日本に役立つはずだった人材を、よく取り調べもせずに斬ってよかったのか。現地に立って、遺品や家臣の墓を目にすると、ますます惜しまれる人だと感じます。

よくある質問

Q.駐車場は満車になりますか?
A.10台ほどしか停められません。私たちが着いた午前10時ごろは空いていましたが、お昼ごろには満車で、あふれた車が並んでいました。午前の早い時間がおすすめです。

Q.拝観料はどこで払いますか?
A.本堂の玄関入り口の横にある受付窓口です。大人200円、中高生100円。墓参りだけなら自由です。

Q.お線香はどこで買えますか?
A.一束200円で求められます。お線香を買うとライターを貸してもらえますが、返却をお忘れなく。持ち帰られてしまい、どんどん数が減ってしまうそうです。本墓では焚けないので、境内の供養墓と胸像の前に手向けます。

Q.御朱印はいただけますか?
A.300円でいただけます。私たちは御朱印帳を持っていなかったので、書き置きをいただきました。

Q.本墓までの道はきついですか?
A.ほぼ全部が石段で、女性の足でもスムーズに登れます。雨の日でも大丈夫だと思います。

Q.写真は撮れますか?
A.境内は撮影できました。本堂内(資料室)の資料は撮影できません。

Q.トイレはありますか?
A.東善寺にはあります(男女別できれいでした)。近くの観音山、姉妹観音、水沼河原にはトイレがないので、東善寺で済ませておくと安心です。

周辺とあわせた回り方

私たちは、水沼河原(終焉の地)→ 姉妹観音 → 東善寺 → 観音山(小栗邸跡)の順に回りました。もう一度行くとしても、同じルートがいいと思います。もう一つのおすすめは、東善寺を先に訪ねてから、終焉の地の水沼河原へ向かう回り方です。東善寺で小栗の生涯と最期の朝の駕籠を知ってから河原に立つと、また違った思いがこみ上げてくるはずです。

水沼河原(終焉の地) 高崎市倉渕町水沼。烏川の河原に「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」の碑。駐車2〜3台・トイレなし
姉妹観音 高崎市倉渕町岩氷付近。小栗家の用人・塚本真彦の家の幼い姉妹を悼む観音像。駐車3〜4台・トイレなし
観音山(小栗邸跡) 高崎市倉渕町権田3584。小栗が屋敷を建てようとしていた山。急な山道。山頂に4台ほど・トイレなし。観音山の現地レポート
小栗又一の墓 高崎市下斎田町335。小栗の養子・又一が葬られた地。駐車2〜3台・トイレなし

建設中の新しい記念館

東善寺の近くでは、小栗を顕彰する新しい記念館の建設が進んでいます。報道によると、一般社団法人小栗上野介顕彰会が建てるもので、地元産の木材を使った2階建て。2027年の大河ドラマの放送前、2026年12月の完成を目指しているそうです。建設費には寄付金や高崎市の補助が充てられ、境内でも募金を呼びかけていました。

東善寺の歴史をもっとくわしく
この記事は、これから訪ねる人のための案内です。東善寺と小栗上野介の歴史そのものは、姉妹サイト「幕末歴史ガイド」の東善寺とは―小栗上野介が最期を過ごした「小栗の寺」でくわしく解説しています。
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