【現地レポート】高崎城 乾櫓と東門(高崎市)|遺構はわずか、地下駐車場と御城印の文開堂、小栗上野介(忠順)とのつながり

群馬県高崎市の高崎城(たかさきじょう)は、慶長3年(1598年)に井伊直政が築いた城です。いまの城址に残る建物は、乾櫓(いぬいやぐら)と東門の二つだけ。どちらも明治に民家へ払い下げられ、納屋や家の門として使われていたものが、のちに城址へ戻されました。

2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公・小栗上野介忠順を捕らえに向かったのは、高崎藩などの兵でした。小栗の養子・又一が斬られたのも、この高崎です。この記事は、小栗ゆかりの地めぐりの途中で高崎城に寄る方のための現地ガイドです。正直に言うと、遺構はほとんど残っていません。そのことも含めて、現地のようすをそのまま書きます。

乾櫓
乾櫓
目次

高崎城址の基本情報

所在地 群馬県高崎市高松町(高崎城址。乾櫓と東門は三の丸の一角に並んでいる)
残っているもの 乾櫓(群馬県指定重要文化財)、東門、三の丸の堀と土塁の一部、櫓のまわりのわずかな石垣
見学 乾櫓・東門は外から自由に見られる
車 地上には「P」の表示がほとんどない。群馬音楽センターなどがある一角の地下に、広い地下駐車場(城址地下駐車場・有料)。私たちは300円でした
駐車場から 乾櫓・東門まで歩いて2〜3分
トイレ 地下駐車場にもあり、まわりにもあちこちにある
御城印 500円。近くの文開堂で販売

行く前に知っておきたいこと

遺構はほとんど残っていない

いちばん伝えたいのは、高崎城には遺構がほとんど残っていないということです。見られるのは乾櫓と東門、それに櫓のまわりのわずかな石垣くらい。石垣も当時は広くめぐっていたのでしょうが、いまは櫓の付近にしかありません。城跡には市役所や音楽ホールなどが建ち、町の真ん中の公園のようになっています。「お城を見に行く」つもりで行くと、拍子抜けするかもしれません。

駐車場は地下。「P」の看板を探しても見つからない

車で行く場合、地上を走っていても「P」の表示はほとんど見当たりません。駐車場は、群馬音楽センターなどがある一角の地下に広がっています。地下駐車場から乾櫓・東門までは歩いて2〜3分です。私たちは300円でした。トイレは駐車場の中にもあり、まわりにもあちこちにあるので心配ありません。

高崎駅西口周辺の案内図
高崎駅西口周辺の案内図

石碑は「音楽」と「連隊」のものが多い

城址を歩いていると、あちこちに石碑があります。ただ、「城の碑かな」と思って近づくと、音楽の街・高崎にちなむものや、戦時中の連隊にまつわるものがほとんどでした。明治以降、高崎城の中には陸軍の歩兵第十五聯隊が置かれていました。城の遺構が少ない理由の一つは、ここにあるのでしょう。

乾櫓と東門を見る

乾櫓 ― 群馬県に残る唯一の城郭建築

乾櫓は、本丸の北西(乾)の角にあった二層の櫓です。高崎市によると、群馬県内に現存する唯一の城郭建築です。

説明板に書かれていること(群馬県指定重要文化財 高崎城乾櫓)
高崎城の本丸は、烏川の縁に近いところ(今の日本たばこ産業の倉庫やNTT別館の付近)に土塁と堀をめぐらし、その四隅に櫓を置いていました。その乾(北西)の角にあったのが、この櫓です。二層の建物で、本瓦葺き入母屋造りの屋根をのせています。
高崎城の築城は慶長3年(1598年)、井伊直政によって始められました。その後、藩主はめまぐるしく替わり、元和5年(1619年)に安藤重信が入って三代にわたって在城しました。三代目の重博が、平屋の土蔵だった乾櫓を二層の櫓に改築したという記録が残っています。
明治6年(1873年)、城内に東京鎮台の高崎分営(のちの十五連隊)が置かれ、その後、乾櫓は東門とともに下小鳥町の農家に払い下げられて納屋として使われていました。昭和49年に県の重要文化財に指定されたのにともなって、昭和54年にこの場所へ移築・復元されたものです。

東門 ― くぐり戸のある通用門

乾櫓の隣に立つのが東門です。高崎城にあった十六の城門のうち、くぐり戸がついていたのは東門だけでした。

説明板に書かれていること(高崎城東門の由来)
高崎城にあった十六の城門のうち、本丸門(雀門)・刎橋門・東門は平屋門でした。そのうち、くぐり戸がついていたのは東門だけで、通用門として使われていました。
この門は、寛政10年(1798年)正月と天保14年(1843年)12月の二度、火災で焼け、いまのように建て直されたものと考えられています。くぐり戸は乗り籠が通れるようになっていて、門は築城当初のものよりかなり低く、馬に乗ったままでは通れなくなっています。
明治のはじめ、門は当時名主だった梅山氏に払い下げられ、市内下小鳥町の梅山大作氏の家の門になっていました。高崎和田ライオンズクラブが創立十周年の記念事業として梅山氏から譲り受けて復元・移築し、昭和55年(1980年)2月に市へ寄贈しました。(昭和55年3月 高崎市教育委員会)

かみくだくと
いま城址に立つ東門は、明治に民家の門として売られ、100年ほどたってから地元の団体の手で城へ戻ってきたものです。乾櫓も農家の納屋として使われていたので、高崎城の建物は二つとも「民家に払い下げられていたおかげで残った」ことになります。

運営者のひとこと
乾櫓も東門も、民家に払い下げられて納屋や家の門として使われていたからこそ、今日まで残りました。それでも、城跡に残っているのは櫓だけしかない……むしろ、さみしいというのが正直な感想です。
群馬には、こういう町が多いように思います。前橋城も本丸の跡には県庁が建ち、立派な土塁の間をえぐって通路を通しています。自然の地形を生かした遺構を崩してしまうのは、本当にもったいないと思います。

城址の石碑 ― 高崎城の前の名は「和田城」

城址に立つ大きな顕彰碑と、歩兵第十五聯隊の碑です。聯隊歌の碑には「和田城を 繞りて清き烏川」と刻まれています。高崎城の古い名前は「和田城」です。現地の看板でこのことを知りました。

碑に刻まれていること(顕彰碑)
城址に立つ大きな「顕彰碑」は、旧高崎城内に置かれていた陸軍の歩兵第十五聯隊と、郷土出身の兵士たちを顕彰するものです。碑文には、明治維新ののち高崎城内に兵営が置かれ、明治17年(1884年)に歩兵第十五聯隊が編成されたこと、日清・日露戦争から太平洋戦争まで多くの郷土の若者が出征したことなどが刻まれています。建てられたのは昭和43年(1968年)10月23日、明治百年を記念して、元歩兵第十五聯隊ならびに郷土出身陸海空戦没者の合同慰霊祭実施期成連盟によるものです。
高崎城の跡は、明治以降は軍の土地として使われていたことがわかります。遺構がわずかしか残っていない理由の一つも、ここにあるのでしょう。
碑に刻まれていること(聯隊歌)
岩にはめ込まれた石板には、歩兵第十五聯隊の「聯隊歌」が五番まで刻まれています。一番は「三山天に連なりて 刀水岩に激しゆく」と始まり、上毛三山と利根川(刀水)を歌い込んでいます。二番には「翠色濃き和田城を 繞りて清き烏川」とあり、高崎城の古い名前「和田城」と、そのそばを流れる烏川が出てきます。
烏川は、小栗が斬られた倉渕の水沼河原を流れる川です。同じ川が、ここ高崎の城下まで流れてきています。
碑に刻まれていること(歩兵第十五聯隊址)
大きな自然石に「歩兵第十五聯隊址」の文字がはめ込まれ、手前の黒い石には「址碑之由来」が刻まれています。「址碑之由来」によると、上毛三山を仰ぎ、烏川の清流を見下ろすこの地には、正長元年(1428年)に和田城が築かれ、のちに名を高崎城と改めて、中山道を押さえる要衝となりました。明治に入ると、国民皆兵令の施行にともなって東京鎮台の部隊が置かれ、明治17年(1884年)5月に歩兵第十五聯隊が創設されます。以来、昭和20年(1945年)8月15日の終戦まで、日清・日露の戦いから太平洋戦争まで、郷土の多くの兵士がここから出征しました。碑は、かつての正門の歩哨の位置に、昭和51年(1976年)5月25日に建てられたものです(歩兵第十五聯隊址之碑建立委員会)。
細かい字がびっしりと刻まれていて、途中の戦歴の部分までは読み取れませんでした。読めたところだけを書いています。
歩兵第十五聯隊址の「址碑之由来」
歩兵第十五聯隊址の「址碑之由来」

雰囲気

人は、地方都市にしてはまあまあいました。私たちが行った日は、ちょうど何かのフェスをやっていました。

お堀沿いの道
お堀沿いの道
運営者のひとこと
小栗ゆかりの地として訪ねましたが、ここにはそういう遺構がない町なので、小栗について何かを感じることはできませんでした。倉渕では大河ドラマの旗が揺れていましたが、高崎は小栗を斬った側。だからなのか、大河を大々的に推しているようには見えませんでした。町は、とにかく「音楽の街」にしようと懸命な印象です。

御城印

高崎城の御城印は500円で、近くの文開堂で買いました。「徳川四天王 井伊直政公築城」と書かれています。

高崎城の御城印
高崎城の御城印

よくある質問

Q.高崎城には何が残っていますか?
A.乾櫓と東門、三の丸の堀と土塁の一部、櫓のまわりのわずかな石垣です。天守や本丸の遺構はありません。

Q.乾櫓の中には入れますか?
A.私たちは外から見ました。中の公開については高崎市の案内で確かめてください。

Q.駐車場はどこですか?
A.群馬音楽センターなどがある一角の地下に、広い有料の地下駐車場があります。地上に「P」の表示がほとんどないので、先に場所を調べておくと安心です。私たちは300円でした。乾櫓までは歩いて2〜3分です。

Q.御城印はどこで買えますか?
A.近くの文開堂で500円で買えました。

Q.小栗上野介とはどんな関係がありますか?
A.小栗を捕らえに権田村へ向かったのは、高崎藩などの兵でした。小栗の養子・又一も高崎で斬られています。ただ、城址に小栗にかかわる案内や碑はありませんでした。

あわせて回るなら

高崎は、倉渕(小栗の終焉の地)から車で東へ下った町です。倉渕で小栗ゆかりの地を回ったあと、帰り道に寄るのがちょうどよい位置にあります。

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