群馬県高崎市倉渕町権田の観音山(かんのんやま)は、2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公・小栗上野介忠順が、江戸を離れて暮らすための屋敷を建てようとしていた場所です。屋敷は完成目前で小栗が斬られ、いまは山の上の平地に礎石や用水路の跡が残り、高崎市の史跡「観音山小栗邸跡」になっています。
この記事は、これから観音山を訪ねる方のための現地ガイドです。私たちが実際に歩いて登って確かめた、行き方、山道のきつさ、車で行く道、そして見ておきたいものをまとめました。

観音山小栗邸跡の基本情報
| 所在地 | 群馬県高崎市倉渕町権田3584 |
|---|---|
| 史跡 | 高崎市指定史跡「観音山小栗邸跡」 |
| 見学 | 自由・無料 |
| 入り口 | すぐ下の国道から入る。登山口(山道)と車の道は同じ入り口で、入ってすぐに分かれる |
| 歩いて | 東善寺から山の下まで歩いて15分ほど。そこから山道を10〜15分登る。道は狭く急 |
| 車で | 狭いが車で山の上まで行ける。東善寺から車で2分ほど。山頂に「P」の看板があり、4台ほど停められる |
| 目印 | 「小栗邸跡地」の看板 |
| トイレ | なし。東善寺で済ませておくと安心 |
| 注意 | クマ注意の看板あり |
行く前に知っておきたいこと
歩きはけっこうきつい。おすすめは断然、車
いちばん伝えたいのは、山道のけわしさと距離です。私は東善寺から歩いて向かいました。山の下まで15分ほど歩き、そこから山道を10〜15分登ると、急に開けた平地に出ます。道は狭く、けっこう急です。妻は途中で登るのをあきらめ、下で待っていました。
ところが、上に着いてはじめて「P」の看板があるのに気づき、車でも来られることを知りました。山道の登山口と車の道は同じ入り口で、すぐ下の国道から入ると、すぐに山道と車道に分かれます。車道も狭いですが、上まで車で行けます。これから行くなら、断然、車がおすすめです。
なぜここに屋敷を建てようとしたのか
小栗上野介忠順は、倒幕勢力に対する主戦論を唱えましたが、将軍・徳川慶喜に容れられず、幕府の要職を免ぜられました。その後、慶応4年(1868年)3月1日、家族・家臣とともに知行地である上野国権田村に隠棲しました。はじめは東善寺を仮の宿所とし、間もなく丘の上にあるこの場所に邸宅の建設を始めました。住宅の建設用地や用水路、畑などの造成を行い、約2か月後の4月28日には主屋が上棟の運びとなりました。
ところが、小栗の力を恐れた新政府軍は、この邸宅に対し「陣屋等厳重に構え、砲台を築き」と言いがかりをつけ、「小栗に反逆の意志あり」として高崎・安中・吉井の三藩に小栗追討令を出しました。これにより捕らえられた小栗は、一切の取り調べもなく、閏4月6日(新暦5月27日)に烏川の水沼河原で家臣三名とともに斬首されました。
完成目前であった小栗邸の主屋は解体・売却されましたが、前橋市総社町山王に現存する住宅に、部材の多くが使われているとされます。この地には、今も礎石が残されています。(高崎市教育委員会)
ここは見逃さないで
山の上の平地には、小栗が暮らそうとしていた屋敷の名残がいくつも残っています。
- 礎石:屋敷の土台になるはずだった石。土に半分埋まっています。
- 用水路の跡:屋敷のために引いた水の道。いまも水の流れる沢があります。
- お茶の木:「小栗公が江戸から運んだ木」と札が立っています。
- 石碑:小栗の殉難百周忌に建てられた碑。小栗がこの地の若者に託した夢が刻まれています(全文は下に)。
慶応戊辰(一八六八年)三月一日、小栗上野介忠順は江戸より移り住み、この丘上に居邸を新築し、村の若き人々の育成を計画、眼下の山峡から太政大臣を出して見せるといった。それは、井伊大老の抜擢により、僅か三十四才で、万延元年第一回遣米使節全権の一人となり米国に赴き、近代文化に接し、国会を視察して、将来の新日本建設は封建の垣を超えた若き人々の力に待つことが多いと観じたからである。然し、素志と違い満村六十六日で、雄図空しく逝いたけれど、この地の若人、否、日本の若人によせた公の期待は大きく、遥かなる浅間かくしの峰に、烏川のせせらぎに、今猶その声は、私達に語りかけている。本日殉難百周忌を迎え、感新たなるものあり、邸址に碑を建て公追慕のしるしとする。
題字 井伊公後裔 彦根市長 井伊直愛/撰文 小栗公顕彰会顧問 大坪指方/揮毫 東善寺第二十世住職 村上照賢/建碑賛助 武蔵野中央病院長 医学博士 牧野総一郎
かみくだくと
小栗は1868年3月1日に江戸からこの地へ移り、丘の上に屋敷を建て始めました。村の若者を育て、「この山あいから太政大臣(いまの総理大臣にあたる最高職)を出してみせる」と語ったと刻まれています。34歳で遣米使節としてアメリカに渡り、議会を見た経験から、新しい日本をつくるのは身分の壁を越えた若者の力だと考えたからだ、と碑は説明します。けれども村に住んだのはわずか66日。それでも若者に寄せた期待は、浅間隠山の峰や烏川のせせらぎから今も語りかけてくる――殉難から百年の法要の日に、その思いを込めてこの碑が建てられました。
題字を書いたのは、小栗を遣米使節に抜擢した大老・井伊直弼の子孫で、当時の彦根市長・井伊直愛です。
屋敷跡の雰囲気
屋敷跡は、とても広い敷地でした。ただ、眺めはそれほどよくありません。木々に囲まれていて、すぐ下の国道も、烏川も見えません。とても静かな場所で、「クマ注意」の看板も立っていました。
この地形を見ると、小栗は本当に隠遁生活をしようとしていたんだなと思いました。開けた場所ではなく、誰でもすぐに来られるような所でもありません。それでも、まだ42歳。隠居するには早すぎます。
家臣もたくさんいて、妻も子もいて、そして村を治める領主でもある。だから、こうした小高い場所を選んだのかもしれません。当時はいまほど木々が生い茂っておらず、目の前には街道や烏川が開けていたのかな、とも想像しました。
よくある質問
Q.車で行けますか?
A.行けます。東善寺から車で2分ほどです。すぐ下の国道から入り、山道と分かれる車道を上ります。道は狭いですが、山頂に「P」の看板があり、4台ほど停められます。
Q.歩いて登るとどのくらいかかりますか?
A.東善寺から山の下まで歩いて15分ほど、そこから山道を10〜15分です。道は狭く急で、足に自信のない方には車をおすすめします。
Q.トイレはありますか?
A.ありません。東善寺で済ませてから向かうと安心です。
Q.山の上から景色は見えますか?
A.木々に囲まれていて、眺めはそれほどよくありません。国道も烏川も見えませんでした。
Q.何が残っていますか?
A.屋敷の礎石、用水路の跡、小栗が江戸から運んだと伝わるお茶の木、石碑などです。
あわせて回るなら
観音山は東善寺のすぐ近くです。東善寺で小栗の生涯と、遺品館の「上野介が建てようとした家」の写真を見てから観音山に登ると、ここに建つはずだった屋敷がぐっと身近に感じられます。
| 東善寺 | 高崎市倉渕町権田169。小栗が眠る寺。東善寺の現地レポート |
|---|---|
| 水沼河原(終焉の地) | 高崎市倉渕町水沼。水沼河原の現地レポート |
| 姉妹観音 | 高崎市倉渕町岩氷付近。姉妹観音の現地レポート |
この記事は、これから訪ねる人のための案内です。観音山の屋敷の歴史そのものは、姉妹サイト「幕末歴史ガイド」の観音山小栗邸跡とは ― 小栗上野介が暮らそうとした幻の屋敷でくわしく解説しています。


















